初期の腕時計
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 04:41 UTC 版)
オメガは世界に先駆けて1900年に腕時計を商品化し、1902年には広告を打っている。しかし当時は女性用懐中時計の竜頭位置を横に変えて革ベルトに固定しただけのものでデザインの無骨さから、一般に普及することはなかった。その後腕時計専用のケースとムーブメント開発が行われるようになったが、依然として男性用は懐中時計が主流で、腕時計は正式な存在とは見なされなかった。 特定ブランドの腕時計として最初に人気製品となったのは1911年にフランスのカルティエが発売した角形ケースの紳士時計「サントス」である。「サントス」の原型は、ルイ・カルティエが友人の飛行家で富豪のアルベルト・サントス・デュモンに依頼され、飛行船操縦中の使用に適した腕時計を製作したものであった。後年その洗練されたデザインがパリの社交界で話題となり、市販されるに至った。「サントス」はスポーツ・ウォッチの古典となり、21世紀に入った現在でもカルティエの代表的な製品の一つとして市販されている。 第一次世界大戦は腕時計の普及を促す契機となった。ハミルトンやブライトリングが軍用腕時計を大量生産するようになり、男性の携帯する時計は懐中時計から腕時計へと完全に移行した。戦後には多くの懐中時計メーカーが腕時計の分野へ転身した。 第二次世界大戦以前からの主要な腕時計生産国としては、懐中時計の時代から大量生産技術と部品互換システムが発展していたアメリカ合衆国のほか、古くから時計産業が発達したスイス、イギリス、ドイツなどがあげられるが、後にイギリスのメーカーは旧弊な生産体制が時流に追いつかず市場から脱落し、ドイツのメーカーは廉価帯の製品を主体とするようになった。アメリカのメーカーも1960年代以降に高級品メーカーが衰亡してブランド名のみの切り売りを行う事態となり、正確な意味で存続するメーカーは大衆向けブランドのタイメックスのみとなった。 スイスでは時計産業が膨大な中小零細企業群による分業制に基づいて形成されており、廉価品から高級品まで広い価格帯の製品を供給することができた。業界全体の連携が進み、1920年代以降は産業防衛目的のカルテル構築が本格化、1934年にはスイス連邦政府が政令による時計産業保護(ムーブメント部分のみの輸出に起因する国内時計産業の空洞化防止や、他国の時計産業伸長を防ぐ目的の時計製造機械の輸出管理など)に乗り出した。スイス時計産業の独特な構造は1960年代までスイス時計の国際競争力を維持し、最盛期には自社でムーブメントを製造できる一貫生産メーカー(マニュファクチュール)のほか、多数のムーブメント専業メーカーに支えられた有名無名の膨大な時計ブランド(エタブリスール)を擁した一方、業界全体の近代化では後れを取る結果となった。 なお、スイスメーカーのムーブメントを部品として輸入して、ケース製作と最終組み立てのみ輸入国で行うノックダウン生産手法の一種「シャブロナージュ」(chablonnage)は、関税抑制の目的で懐中時計時代の19世紀末から見られ、腕時計主流の時代になっても盛んに行われた。20世紀に入ってからはアメリカの大手時計メーカーの一部が、スイスに自社現地工場を置いてムーブメント生産を行い、人件費を抑制(当時、大量生産技術をもってしてもアメリカ本国の人件費はすでに高くついていた)しつつスイス時計業界・スイス政府の利益逸出政策を回避する動きも生じた。
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