初期の芝居
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:50 UTC 版)
浅野内匠頭の刃傷が起こると、元禄15年3月にはこの事件が江戸の山村座で『東山栄華舞台』として取り上げられたという。そして赤穂浪士が切腹すると、元禄16年2月16日から江戸の中村座で『曙曽我夜討』を上演して当時活躍中の中村七三郎らが曾我兄弟の仇討ちという建前で赤穂浪士の討入りの趣向を見せたものの、3日で上演禁止とされたという。しかし『東山栄華舞台』の上演に関しては『歌舞伎年表』にも『歌舞妓年代記』にも載っていないため疑問が残るし、『曙曽我夜討』の上演に関しては宝井其角の書簡に載っているものの、この書簡には史料的に疑問が残るとされている。 また元禄15年10月の大坂竹本座『傾城八花形』の第一段に浅野内匠頭の刃傷を仕込んだともいわれ、翌16年1月に江戸の山村座で上演された『傾城阿佐間曽我』にも大詰に集団の討ち入りを仕組んでいた。同じく元禄16年1月には京都の早雲万太夫座で上演された近松門左衛門作の『傾城三の車』に討ち入りの場面が仕込まれているのも、赤穂浪士の討ち入りの影響とされている。しかしこれらの上演は、幕府から差し止められたという。実際、元禄16年2月には堺町と木挽町(いずれも当時の芝居町)で「近き異時」(最近の事件)を扱ってはならないという幕府の禁令が出ている。このためしばらくは赤穂事件を扱った芝居は上演記録は残っていない。
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