初期の蒸気船と南北戦争の艦隊
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「ウエストバージニアの水運」の記事における「初期の蒸気船と南北戦争の艦隊」の解説
ロバート・フルトンはこの渓谷で最初の商業用外輪蒸気船ニューオーリンズをピッツバーグで建造し、1811年にニコラス・ルーズベルト船長がオハイオ川からニューオーリンズまで川を下った。しかし、ナッチェイズから上流へは戻れなかった。1816年、ヘンリー・シュリーブ船長がホィーリングでジョージ・ワシントンを建造した。これにはその後の蒸気船の形を採った。彼は乗客用船室を合衆国の州(ステイト)に倣い、ステイトルームと名付けた。 南北戦争の間、リトルカノーハ川河口のパーカースバーグにあったユニオン砦(ブレア砦)は西部州に対する北軍の補給基地になった。オハイオ川には鉄橋が無かったので、この基地は東部の工場の鉄道と蒸気船とを繋ぎ、アッパー・オハイオ船隊を指揮する補給係将校の下に西部への補給を続けた。パーカースバーグは第9ウェストバージニア志願歩兵連隊の徴兵センターともなり、この連隊はしばしば船に乗って貨物船やウェストバージニアの川を渡るときの護衛を派遣した。徴兵担当のホエイリー大佐とウィリアム・C・スター中佐および連隊指揮官のI・H・デュバル将軍はホィーリングで連邦の指揮下にあった。「連隊は多くが家を追い出されてきた逃亡者で構成され、どの軍隊のどの部隊にも勝る死に物狂いで戦っていた。」「水陸両用師団」と共にこの連隊はバフィントン・アイランドの戦いに参戦した。これら新兵の多くは伝統的な川の労働者出身だった。 南北戦争後、蒸気船マウンテンボーイがホィーリングからチャールストンへ政府の役人や書類を運んだ。蒸気船エマ・グラハムとチェサピークは1875年に州の役人や書類を乗せてホィーリングに戻った。1887年8月の住民投票の後で、蒸気船は再び州政府と記録類をチャールストンに戻すために使われた。当時のウェストバージニア州民は「漂う州都」と言っていた。
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