初期の行動 1775年-1778年
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「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」の記事における「初期の行動 1775年-1778年」の解説
バージニア植民地では、レキシントン・コンコードの戦いの翌日にあたる1775年4月20日、ともに類似点の多いできごとだが、火薬事件が起こった。バージニア植民地の総督ダンモア卿がウィリアムズバーグに保管していた火薬をジェームズ川のイギリスの武装船に移そうとした。彼は植民地の社会不安が増していると見て、バージニア民兵から暴動に必要なものを取り上げようとした。パトリック・ヘンリーに率いられた愛国者民兵隊がダンモアに火薬の代償を払わせようとした。ダンモアは翌月も軍事物資や補給品の貯蔵所を掴もうとし続けたが、愛国者民兵隊をこれを予測してダンモアの到着前に物資を移動させておくことになった。 独立戦争が始まると、ダンモアは1775年11月に奴隷解放宣言を発して、逃亡奴隷に自由を約束しイギリス軍側で戦うよう訴えた。ダンモアの部隊が愛国者民兵を殺し捕虜にした11月のケンプスランディングの戦いの後、12月9日、大陸軍がダンモア指揮下の解放奴隷を含むロイヤリスト軍をグレートブリッジの戦いで破った。この敗北後、ダンモアと彼の軍隊はノーフォーク沖に停泊していたイギリス船に逃れた。1776年1月1日、ダンモアはノーフォークの町を砲撃し焼いた。彼はその夏、チェサピーク湾の島から追われ、復帰することはなかった。
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