初期の苦難と栄光、そして短い活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/31 06:25 UTC 版)
「名古屋市交通局1900形電車」の記事における「初期の苦難と栄光、そして短い活躍」の解説
1901が1815としてデビューした当初は、同時期に登場した1800形1次車同様無音電車として大きく宣伝されただけでなく、名古屋市電初の高性能車として登場したが、たった1両の特殊車で新機軸をふんだんに採用したことと、直角カルダン駆動装置の2段減速ハイポイドギアの調子が大変悪かったことから、走っているより車庫で休んでいるほうが多いという、いささか情けないデビューとなった。しかし、沢上車庫や西町工場のスタッフの努力によって課題を解決し、量産車の導入につながった。量産車の導入後も運転・保守両面での改良は続けられ、こうして得られた1900形のデータが地下鉄東山線100形の登場に大きく貢献して、地下鉄誕生のテストベッドとなったという話は有名であるが、同時に市電においても1900形と並ぶ和製PCCカーの傑作である2000形の新製や、新機軸満載の800形の導入につながることになった。そして、このときに保守や運転のノウハウが確立、蓄積されたことによってフルに活躍できるようになったことから、2000形ともども大阪市電3001形同様成功した和製PCCカーという評価を受け、後年ワンマン改造が実施されて末期まで活躍の舞台が与えられるようになったのである。 その後、1960年代に入るとZパンタ化改造を実施され、1965年ごろには1922が2000形同様モーターをはじめとした電気部品の冷却効果を高めるために前面バンパー下にスリットを入れる改造を行い、1966年~1968年にかけてワンマン改造を実施した。その際、前面ナンバー部分にワンマンカー表示灯を設置したため、ナンバーの文字を小型化したうえで系統板の下に移設している。 名古屋市電廃止の過程では、1971年11月の熱田駅前~西稲永間廃止に伴い、特殊車だった1901,1922と1907,1919の4両が1900形初の廃車となり、続いて1902~1906,1908,1909と1916~1918,1920,1921の12両が1972年3月の浄心車庫・稲葉地車庫廃止に伴う余剰車転入によって廃車となり、最後まで残った1910~1915の6両も名古屋市電全廃の1ヵ月半前である1974年2月16日の沢上町~八熊通~船方、沢上町~熱田駅前~大江町の廃止に伴う沢上車庫の廃止に伴い、他車庫に転属することなく全車が廃車となった。廃車後、交通局において保存された車両はなく、民間に払い下げられた車両もその多くが解体され、2020年現在は近年まで中川区内の工場に放置され、2018年に「なごや市電車両保存会」に引き取られた1913の1両が現存するのみである。
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