初期の行政区分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 08:11 UTC 版)
「オスマン帝国の行政区画」の記事における「初期の行政区分」の解説
オスマン帝国の最初の行政区画は、セルジューク朝の属国として中央アナトリア地方に建国された時から始まる。その後オスマン家が統治した間に、オスマン君侯国は周囲の小国やベイリク(君侯国)を併合した。この拡大は、世襲制の統治者であるベイを置いた、セルジューク朝の統治方法を利用したものであった。つまり、ベイに統治を続けさせる代わりに、オスマン君侯国のスルタンへの宗主権を認めさせたのであった。 初期のオスマン帝国は、サンジャク(県)といった行政区分が置かれた。サンジャクはスルタンが管理するサンジャクと、スルタンの子供が管理するサンジャクに分けられた。また、サンジャクの統治には、スルタンから軍旗を授与された司令官であるサンジャク・ベイスが当てられた。 しかし、オスマン帝国がヨーロッパ地域に拡大するにつれて、サンジャクの上位の区分を置く必要性が生じてきたために、ムラト1世(1359-1389)はベイレルベイを創設し、ルメリアに置いた。また同時にベイレルベイリク(州、のちにエヤレトとなる)がアナトリア地方のルム地方(現在のアマスィヤ周辺)に置かれ、スルタンが直接統治を行った。ベイレルベイリクの創設によって、サンジャクは第二位の行政区分となったが、新しく併合された地域など、ベイレルベイリクが置かれていない地域では、サンジャクが最上位の行政区分となることもあった。またベイレルベイは、州全土の軍隊の指揮権も与えられていた。
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