1881年から1885年にかけての鉄道建設とは? わかりやすく解説

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1881年から1885年にかけての鉄道建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 03:07 UTC 版)

カナダ太平洋鉄道」の記事における「1881年から1885年にかけての鉄道建設」の解説

カナダ太平洋鉄道西へ延長工事を、以前はカランダー・ステーションと呼ばれていた、オンタリオ州ボンフィールド(英語版)から開始し、ここで設置され枕木最初犬釘打ち込まれた。ボンフィールドは、カナダ太平洋鉄道最初犬釘打たれ地点として、2002年カナダ鉄道殿堂認定された。この地点は、カナダ・セントラル鉄道英語版)の建設終わった場所であった。カナダ・セントラル鉄道はダンカン・マッキンタイヤの所有で、この会社カナダ太平洋鉄道合併させ、新しく設立されカナダ太平洋鉄道経営陣1人となった。カナダ・セントラル鉄道ブロックビルから建設開始してペンブローク線路伸ばした。そこからオタワ川沿って西へ線路伸ばしコブデンドゥリヴィエールといった場所を通り、マタワ川とオタワ川合流するマタワへ到達した。そこから山野横断してボンフィールドへと到達した。マッキンタイヤとその契約者であるジェームズ・ワーシントンがカナダ太平洋鉄道延長主導した。彼は1年ほどカナダ太平洋鉄道働いたが、その後会社離れた。マッキンタイヤは、後にノースベイとなる街を起こしたジョン・ファーガソンのおじであり、ファーガソンは後にこの町でもっとも豊かな住民となり、4期続けて市長務めることになったカナダ太平洋鉄道は、10年に渡る調査の末にサンドフォード・フレミング提案したノースサスカチュワン川峡谷肥沃な一帯通りロッキー山脈をイエローヘッド峠(英語版)で越え経路を採ると考えられていた。しかしカナダ太平洋鉄道はこの計画をすぐに破棄し、もっと南の不毛なサスカチュワン州のパリサーズ・トライアングル(英語版)を通り、キッキングホース峠(英語版)を越えてフィールドヒル(英語版)をロッキー山脈峡谷英語版)へと下っていく経路選んだ。この経路はより直線的アメリカとの国境近くアメリカ側鉄道カナダ輸送市場侵害してくるのを防ぎやすかった。しかし、この経路には欠点いくつかあった[要出典]。 この結果ブリティッシュコロンビア州においてセルカーク山脈英語版)を横断する経路を見出さなければならなくなったが、この時点はそうした経路本当に存在しているかどうか知られていなかった。この経路探索仕事は、アルバート・ロジャーズ(英語版大佐として知られる測量士割り当てられた。カナダ太平洋鉄道彼に報酬として5,000ドル小切手と、発見した峠を彼にちなんで名付けることを約束した。彼は自分の名を不滅ものとするべく、経路発見強迫観念感じようになった1881年4月に峠を発見し前言通りカナダ太平洋鉄道はここをロジャーズ峠命名し彼に小切手与えた。しかし彼は当初小切手現金化をせず、自分はこの仕事を金のためにしたわけではないと言って小切手を額に入れて飾っていた。後に記念に名前を彫った腕時計をもらえるという約束受けて、この小切手現金化することになった[要出典]。 もう1つ障害であったのが、提案され経路アルバータ州において、ファースト・ネーション先住民)であるブラックフット族支配する土地通過しなければならないということである。この問題は、宣教師のアルバート・ラコーム(英語版)がブラックフット族族長クロウフット(英語版)を、鉄道の建設避けられない説得したことで克服された。鉄道建設同意した見返りとして、クロウフットは生涯カナダ太平洋鉄道乗車できるパス与えられた。この経路選んださらなる結果としては、フレミング提案した経路異なり鉄道沿線あまりに不毛農業はとても成功しそうにないということ証明されということであったカナダ太平洋鉄道は、たまたまとてもが多い時期にこのプレーリー横断し、この地方はとても肥沃であると報告した博物学者ジョン・マカウンあまりに信頼しすぎていたのかもしれなかった。 この経路最大の欠点は、アルバータ州ブリティッシュコロンビア州州境であり、大陸分水界でもあるキッキングホース峠であった。峠の頂点標高1,625メートル地点から西へ最初の6キロメートルで、キッキングホース川(英語版)は350メートル標高下げる。資金乏しカナダ太平洋鉄道1884年に峠に到達すると、この急勾配に際して45パーミルという非常に勾配のきつい線路を7キロメートル渡って建設しなければならなかった。これは当時鉄道推奨されていた最大勾配の4倍もきつい勾配であり、現代鉄道であっても20パーミル超えることは滅多にない。しかしこの経路は、イエローヘッド峠経由よりも直線的であり、旅客列車貨物列車所要時間数時間短縮できるものであった。ここがビッグヒル(英語版)と呼ばれる区間であった安全のため分岐器が何か所かに設置され、峠を下る列車の速度制限10 km/hとされ、特別な機関車が使用された。こうした手段講じたにもかかわらず工事請負業者所有していた最初にこの区間通過した機関車含め、この勾配を下る列車で何件かの重大な暴走事故起きたカナダ太平洋鉄道当局者は、これは一時的な急場しのぎであるとしていたが、この状態は20世紀初頭にスパイラルトンネルが完成するまで25年わたって続いた[要出典]。 1881年時点では建設の進捗あまりに遅いペースであり、このため経営陣1882年に、高い給料とこうした難しい鉄プロジェクト取り組む挑戦という誘因提示して有名な鉄道経営者のウィリアム・ヴァン・ホーン(英語版)を雇うことにした。ヴァン・ホーンは、1882年中には本線800キロメートル渡って建設するだろうと述べた洪水のために建設開始遅れたものの、実際に672キロメートル本線加えて数多く側線支線実際にその年に建設された。フォートウィリアム英語版)から西へサンダーベイ支線政府鉄道運河省により1882年6月完成し1883年5月会社引き渡され、これによりカナダの歴史初めカナダ領内のみの湖と鉄道乗り継いで東部カナダからウィニペグまで行けるようになった1883年末には、カナダ太平洋鉄道ロッキー山脈到達し、キッキングホース峠の8キロメートル東までたどりついた1884年1885年建設は、ブリティッシュコロンビア州内の山岳地帯スペリオル湖北岸費やされた。 何千人ものナヴィ英語版)(土木工事携わる作業員)たちが鉄道建設働いたブリティッシュコロンビア州では、政府契約業者苦力クーリー)と呼ばれる中国からの労働者雇ったナヴィ1日当たり1ドルから2ドル50セント程度給与受け取っていたが、食事衣服勤務地までの移動費用通信医療などの費用自己負担であった。2か月に及ぶ厳し労働経ても、実際に16ドル程度にしかならなかった。ブリティッシュコロンビア州中国人労働者1日当たり75セントから1ドル25セント程度しか受け取らず支出別途負担しなければならなかったが、残りのものはほとんど郷里送金するために残していた。彼らは岩盤通してトンネル建設するために爆発物を扱うなど、もっとも危険な種類の建設作業従事していた。建設作業亡くなった人の遺族には一切補償がないばかりか死亡通知すら送られないこともあった。中国人契約結んだ業者自身責任として中国への帰還約束していたにもかかわらず建設作業生き延びた中には中国帰るのに必要な金を持っていない者も多かった多くの者たちは人里かけ離れた土地で、しばしば貧困のうちに年月を過ごさなければならなかった。中国人たちはとてもよく働き鉄道西側区間建設するのに重要な役割果たし、わずか12歳少年すら給仕として働いていた。2006年カナダ政府は、中国カナダ人たちに対してカナダ太平洋鉄道建設中および建設後中国人対す扱いを公式に謝罪した1883年には鉄道の建設急速に進んでいたが、カナダ太平洋鉄道資金使い果たしてしまう危機にあった。これに対して政府1884年1月31日鉄道救済法を成立させ、カナダ太平洋鉄道にさらに2250ドル融資した。この法律1884年3月6日国王裁可得た1885年3月に、ノースウェスト準州サスカチュワン地区現在のサスカチュワン州)においてノースウェスト反乱英語版)が勃発した当時オタワにいたヴァン・ホーンは、カナダ太平洋鉄道サスカチュワン州カペル英語版)まで10日兵員輸送できる政府提案した線路一部区間未完成であり、あるいはそれ以前使われたことがなかったが、ウィニペグまでの輸送9日完了し反乱速やかに鎮圧された。おそらく、政府がこの輸送の恩を受けたためもあって、結果的にカナダ太平洋鉄道負債組み直して、さらに500ドル融資行った。この資金カナダ太平洋鉄道にとってどうしても必要とされているものであった。しかし、この政府融資はのちに議論を招くことになる。ヴァン・ホーンによるカペルまでの兵員輸送貢献にもかかわらず政府カナダ太平洋鉄道への支援与えるのをまだ遅らせていた。これはジョン・マクドナルドがジョージ・スティーブンに対して更なる利益供与するように圧力をかけていたためであった。ステーブン自身は後に、1881年から1886年までの間に政府からの支援獲得するために100万ドル使ったことを認めている。この資金マクドナルド夫人40,000ポンドネックレスを贈るためなど、政府高官への多く贈与のために使われた。 1885年11月7日に、当初約束達成してブリティッシュコロンビア州クラゲラチー(英語版)において最後犬釘英語版)が打ち込まれた。それより4日前にスペリオル湖区間最後犬釘がジャックフィッシュ(英語版)のすぐ西側打ち込まれた。鉄道は、当初期限1881年4年遅れて完成したが、しかし1881年マクドナルド再設定した新し1891年期限よりは5年早く完成した遅延スキャンダル見舞われとはいえ人口少なく資本乏しく険し地形抱えた国で、こうした大規模プロジェクト成功裏完成させたのは、印象的な技術業績政治的な意思よるものであった。この当時としては最大規模鉄道であった五大湖地帯建設だけで12,000人の労働者と5,000頭の馬が使われた。 一方で東部カナダでは、カナダ太平洋鉄道ケベック・シティーからオンタリオ州セントトーマスまで到達する路線網1885年までに完成させており、またターミナル間を結ぶために五大湖に船を就航させていた。カナダ太平洋鉄道関連するオンタリオ・アンド・ケベック鉄道英語版)を通じていくつかの鉄道買収または長期借り受け行った。オンタリオ・アンド・ケベック鉄道はこれらの取得路線連絡するため、オンタリオ州パースからトロントまでの路線1884年5月5日開通させた。カナダ太平洋鉄道1884年1月4日にオンタリオ・アンド・ケベック鉄道999年間借り受けた1895年にはトロント・ハミルトン・アンド・バッファロー鉄道英語版)の少数買い取りニューヨークアメリカ合衆国北東部へと通じようになった

※この「1881年から1885年にかけての鉄道建設」の解説は、「カナダ太平洋鉄道」の解説の一部です。
「1881年から1885年にかけての鉄道建設」を含む「カナダ太平洋鉄道」の記事については、「カナダ太平洋鉄道」の概要を参照ください。

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