1881年から1885年にかけての鉄道建設
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「カナダ太平洋鉄道」の記事における「1881年から1885年にかけての鉄道建設」の解説
カナダ太平洋鉄道は西への延長工事を、以前はカランダー・ステーションと呼ばれていた、オンタリオ州ボンフィールド(英語版)から開始し、ここで設置された枕木に最初の犬釘が打ち込まれた。ボンフィールドは、カナダ太平洋鉄道の最初の犬釘が打たれた地点として、2002年にカナダ鉄道殿堂に認定された。この地点は、カナダ・セントラル鉄道(英語版)の建設が終わった場所であった。カナダ・セントラル鉄道はダンカン・マッキンタイヤの所有で、この会社をカナダ太平洋鉄道に合併させ、新しく設立されたカナダ太平洋鉄道の経営陣の1人となった。カナダ・セントラル鉄道はブロックビルから建設を開始してペンブロークへ線路を伸ばした。そこからオタワ川に沿って西へ線路を伸ばし、コブデン、ドゥ=リヴィエールといった場所を通り、マタワ川とオタワ川の合流するマタワへ到達した。そこから山野を横断してボンフィールドへと到達した。マッキンタイヤとその契約者であるジェームズ・ワーシントンがカナダ太平洋鉄道の延長を主導した。彼は1年ほどカナダ太平洋鉄道で働いたが、その後会社を離れた。マッキンタイヤは、後にノースベイとなる街を起こしたジョン・ファーガソンのおじであり、ファーガソンは後にこの町でもっとも豊かな住民となり、4期続けて市長を務めることになった。 カナダ太平洋鉄道は、10年に渡る調査の末にサンドフォード・フレミングが提案した、ノースサスカチュワン川の峡谷の肥沃な一帯を通りロッキー山脈をイエローヘッド峠(英語版)で越える経路を採ると考えられていた。しかしカナダ太平洋鉄道はこの計画をすぐに破棄し、もっと南の不毛なサスカチュワン州のパリサーズ・トライアングル(英語版)を通り、キッキングホース峠(英語版)を越えてフィールドヒル(英語版)をロッキー山脈峡谷(英語版)へと下っていく経路を選んだ。この経路はより直線的でアメリカとの国境に近く、アメリカ側の鉄道がカナダの輸送市場を侵害してくるのを防ぎやすかった。しかし、この経路には欠点もいくつかあった[要出典]。 この結果、ブリティッシュコロンビア州においてセルカーク山脈(英語版)を横断する経路を見出さなければならなくなったが、この時点ではそうした経路が本当に存在しているかどうかも知られていなかった。この経路探索の仕事は、アルバート・ロジャーズ(英語版)大佐として知られる測量士に割り当てられた。カナダ太平洋鉄道は彼に報酬として5,000ドルの小切手と、発見した峠を彼にちなんで名付けることを約束した。彼は自分の名を不滅のものとするべく、経路の発見に強迫観念を感じるようになった。1881年4月に峠を発見し、前言通りカナダ太平洋鉄道はここをロジャーズ峠と命名し、彼に小切手を与えた。しかし彼は当初、小切手の現金化をせず、自分はこの仕事を金のためにしたわけではないと言って、小切手を額に入れて飾っていた。後に記念に名前を彫った腕時計をもらえるという約束を受けて、この小切手を現金化することになった[要出典]。 もう1つの障害であったのが、提案された経路はアルバータ州において、ファースト・ネーション(先住民)であるブラックフット族の支配する土地を通過しなければならないということである。この問題は、宣教師のアルバート・ラコーム(英語版)がブラックフット族の族長クロウフット(英語版)を、鉄道の建設は避けられないと説得したことで克服された。鉄道建設に同意した見返りとして、クロウフットは生涯カナダ太平洋鉄道に乗車できるパスを与えられた。この経路を選んださらなる結果としては、フレミングが提案した経路と異なり、鉄道の沿線はあまりに不毛で農業はとても成功しそうにないということが証明されたということであった。カナダ太平洋鉄道は、たまたまとても雨が多い時期にこのプレーリーを横断し、この地方はとても肥沃であると報告した、博物学者のジョン・マカウンをあまりに信頼しすぎていたのかもしれなかった。 この経路の最大の欠点は、アルバータ州とブリティッシュコロンビア州の州境であり、大陸の分水界でもあるキッキングホース峠であった。峠の頂点の標高1,625メートルの地点から西へ最初の6キロメートルで、キッキングホース川(英語版)は350メートルも標高を下げる。資金の乏しいカナダ太平洋鉄道は1884年に峠に到達すると、この急勾配に際して45パーミルという非常に勾配のきつい線路を7キロメートルに渡って建設しなければならなかった。これは当時の鉄道で推奨されていた最大勾配の4倍もきつい勾配であり、現代の鉄道であっても20パーミルを超えることは滅多にない。しかしこの経路は、イエローヘッド峠経由よりも直線的であり、旅客列車も貨物列車も所要時間を数時間短縮できるものであった。ここがビッグヒル(英語版)と呼ばれる区間であった。安全のための分岐器が何か所かに設置され、峠を下る列車の速度制限は10 km/hとされ、特別な機関車が使用された。こうした手段を講じたにもかかわらず、工事請負業者が所有していた最初にこの区間を通過した機関車を含め、この勾配を下る列車で何件かの重大な暴走事故が起きた。カナダ太平洋鉄道の当局者は、これは一時的な急場しのぎであるとしていたが、この状態は20世紀初頭にスパイラルトンネルが完成するまで25年にわたって続いた[要出典]。 1881年の時点では建設の進捗はあまりに遅いペースであり、このため経営陣は1882年に、高い給料とこうした難しい鉄道プロジェクトに取り組む挑戦という誘因を提示して、有名な鉄道経営者のウィリアム・ヴァン・ホーン(英語版)を雇うことにした。ヴァン・ホーンは、1882年中には本線を800キロメートルに渡って建設するだろうと述べた。洪水のために建設開始が遅れたものの、実際に672キロメートルの本線に加えて、数多くの側線や支線が実際にその年に建設された。フォートウィリアム(英語版)から西へのサンダーベイ支線が政府の鉄道・運河省により1882年6月に完成し、1883年5月に会社に引き渡され、これによりカナダの歴史上初めてカナダ領内のみの湖と鉄道を乗り継いで東部カナダからウィニペグまで行けるようになった。1883年末には、カナダ太平洋鉄道はロッキー山脈へ到達し、キッキングホース峠の8キロメートル東までたどりついた。1884年と1885年の建設は、ブリティッシュコロンビア州内の山岳地帯とスペリオル湖の北岸に費やされた。 何千人ものナヴィ(英語版)(土木工事に携わる作業員)たちが鉄道建設で働いた。ブリティッシュコロンビア州では、政府の契約業者が苦力(クーリー)と呼ばれる中国からの労働者を雇った。ナヴィは1日当たり1ドルから2ドル50セント程度の給与を受け取っていたが、食事・衣服・勤務地までの移動費用・通信・医療などの費用は自己負担であった。2か月に及ぶ厳しい労働を経ても、実際には16ドル程度にしかならなかった。ブリティッシュコロンビア州の中国人労働者は1日当たり75セントから1ドル25セント程度しか受け取らず、支出は別途負担しなければならなかったが、残りのものはほとんど郷里に送金するために残していた。彼らは岩盤を通してトンネルを建設するために爆発物を扱うなど、もっとも危険な種類の建設作業に従事していた。建設作業で亡くなった人の遺族には一切の補償がないばかりか、死亡通知すら送られないこともあった。中国人と契約を結んだ業者は自身の責任として中国への帰還を約束していたにもかかわらず、建設作業を生き延びた中には中国に帰るのに必要な金を持っていない者も多かった。多くの者たちは人里をかけ離れた土地で、しばしば貧困のうちに年月を過ごさなければならなかった。中国人たちはとてもよく働き、鉄道の西側の区間を建設するのに重要な役割を果たし、わずか12歳の少年すら給仕として働いていた。2006年にカナダ政府は、中国系カナダ人たちに対して、カナダ太平洋鉄道の建設中および建設後の中国人に対する扱いを公式に謝罪した。 1883年には鉄道の建設は急速に進んでいたが、カナダ太平洋鉄道は資金を使い果たしてしまう危機にあった。これに対して政府は1884年1月31日に鉄道救済法を成立させ、カナダ太平洋鉄道にさらに2250万ドルを融資した。この法律は1884年3月6日に国王裁可を得た。 1885年3月に、ノースウェスト準州のサスカチュワン地区(現在のサスカチュワン州)においてノースウェストの反乱(英語版)が勃発した。当時オタワにいたヴァン・ホーンは、カナダ太平洋鉄道はサスカチュワン州のカペル(英語版)まで10日で兵員を輸送できると政府に提案した。線路の一部の区間は未完成であり、あるいはそれ以前に使われたことがなかったが、ウィニペグまでの輸送は9日で完了し、反乱は速やかに鎮圧された。おそらく、政府がこの輸送の恩を受けたためもあって、結果的にカナダ太平洋鉄道の負債を組み直して、さらに500万ドルの融資を行った。この資金はカナダ太平洋鉄道にとってどうしても必要とされているものであった。しかし、この政府の融資はのちに議論を招くことになる。ヴァン・ホーンによるカペルまでの兵員輸送の貢献にもかかわらず、政府はカナダ太平洋鉄道への支援を与えるのをまだ遅らせていた。これはジョン・マクドナルドがジョージ・スティーブンに対して更なる利益を供与するように圧力をかけていたためであった。ステーブン自身は後に、1881年から1886年までの間に政府からの支援を獲得するために100万ドルを使ったことを認めている。この資金はマクドナルド夫人に40,000ポンドのネックレスを贈るためなど、政府高官への多くの贈与のために使われた。 1885年11月7日に、当初の約束を達成して、ブリティッシュコロンビア州クラゲラチー(英語版)において最後の犬釘(英語版)が打ち込まれた。それより4日前に、スペリオル湖の区間の最後の犬釘がジャックフィッシュ(英語版)のすぐ西側で打ち込まれた。鉄道は、当初の期限の1881年に4年遅れて完成したが、しかし1881年にマクドナルドが再設定した新しい1891年の期限よりは5年早く完成した。遅延やスキャンダルに見舞われたとはいえ、人口が少なく資本が乏しく険しい地形を抱えた国で、こうした大規模プロジェクトを成功裏に完成させたのは、印象的な技術の業績と政治的な意思によるものであった。この当時としては最大規模の鉄道であった。五大湖地帯の建設だけで12,000人の労働者と5,000頭の馬が使われた。 一方で東部カナダでは、カナダ太平洋鉄道はケベック・シティーからオンタリオ州セントトーマスまで到達する路線網を1885年までに完成させており、またターミナル間を結ぶために五大湖に船を就航させていた。カナダ太平洋鉄道は関連するオンタリオ・アンド・ケベック鉄道(英語版)を通じていくつかの鉄道を買収または長期借り受けを行った。オンタリオ・アンド・ケベック鉄道はこれらの取得路線と連絡するため、オンタリオ州パースからトロントまでの路線を1884年5月5日に開通させた。カナダ太平洋鉄道は1884年1月4日にオンタリオ・アンド・ケベック鉄道を999年間借り受けた。1895年にはトロント・ハミルトン・アンド・バッファロー鉄道(英語版)の少数株を買い取り、ニューヨークやアメリカ合衆国北東部へと通じるようになった。
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