近代以後の名字
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明治政府も幕府同様、当初は名字を許可制にする政策を行っていた。幕府否定のため幕府により許可制で認められていた農民町人の名字を全て禁止し(慶応4年9月5日(1868年10月20日))、賜姓による「松平」の名字を禁止したり(慶応4年1月27日(1868年2月20日))する一方、政府功績者に苗字帯刀を認めることもあった。明治2年7月(1869年8月)以降、武家政権より天皇親政に戻ったことから、「大江朝臣孝允木戸」のように姓(本姓)を名乗ることとした時期もあった。 明治3年(1870年)になると法制学者の細川潤次郎や、戸籍制度による近代化を重視する大蔵省の主導により、庶民への名字を原則禁じる政策は転換された。同年9月19日(10月13日)の平民苗字許可令、明治8年(1875年)2月13日の平民苗字必称義務令により、国民はみな公的に名字を持つことになった。この日にちなんで、2月13日は「名字の日」となっている。明治になって名字を届け出る際には、自分で名字を創作して名乗ることもあった(たとえば与謝野鉄幹の父・礼厳は先祖伝来の細見という名をあえて名乗らず、故郷与謝郡の地名から与謝野という名字を創作した)。僧侶や神官などに適当につけてもらうということもあったが例は少ない。 明治4年10月12日(1871年11月24日)には姓尸(セイシ)不称令が出され、以後日本人は公的に姓(本姓)を名乗ることはなくなった。氏・姓は用語も混乱していたが、この時点で太政官布告上は、源平藤橘や大江などのいわゆる姓(本姓)は「姓」、朝臣、宿禰などの姓(カバネ)は「尸」というように分類したのである。 以後法律上「氏」(または姓)というのは、地名などに由来する家名としての「名字」であり、古代の職業集団としての名称や、氏姓制度が形骸化した後の父系血統の称号(姓(本姓)、源平藤橘など)ではないことが明治23年法律第98号の立法関係者によって明言されている。 明治5年5月7日(1872年6月12日)の「通称実名を一つに定むる事」(太政官布告第149號)により公的な本名が一つに定まり、登録された戸籍上の氏名は、同年8月24日(9月26日)の太政官布告により、簡単に変更できなくなった。 また婚姻後の妻の名字については、明治8年(1875年)、石川県より「嫁いだ婦女は、終身その生家(実家)の氏とするか。嫁が家督などを継ぐなど、夫家の氏とせねばならぬ場合はどう示すか」との伺があり、同年11月9日、内務省は判断に困り太政官伺を出した。その結果、明治9年(1876年)3月17日の太政官指令として、妻の名字は「所生ノ氏」つまり婚前のものとされた。幕末の志士たちの愛読書だった頼山陽の『日本外史』などが源頼朝の正室を「平氏」、織田信長の正室を「斎藤氏」と実家の姓または名字で記述していたことの影響である可能性が指摘されている。この指令には全国の地方官庁から不当な慣習違反であるとして異論が噴出。戸籍実務の扱いも地方ごとに対応が分かれたが、同指令に反し、妻の氏を記載しないものが多数派であった。 一方で、箕作麟祥らの起草に成る明治10・11年の草案では「妻は其夫の姓を用ふ可し」と規定(188条)、その後の草案および法典は一貫して夫婦同名字規定を採用している。なおドイツ民法第一草案の脱稿は1888年(明治21年)である。 幕末生まれの井上操は、明治23年の論文で、当時の最新草案につき、確かに古代とは異なるが、「然れども幕府以来実際は夫の氏を称し、現に今も夫の氏を称し戸籍実務の如きも別に実家の氏を示さず」と指摘し、夫婦同名字規定が日本の慣習に従ったものであることを論証している。また草案の起草に際して作られた司法省の『九国対比』でも、該当条文につき外国法に「皆成文ナシ」と書かれている。同年の『女学雑誌』242号に掲載された「問答(細君たるものの姓氏の事)」でも、「およそ夫あるの婦人は、多くその夫の家の姓を用ひおる様に侍るが、右はいかがのものにや」とされており、実態として多くの妻が夫家の名字を用いるようになってきていることが明らかにされている。 例としては、天理教教祖中山みきも、実家の前川家は苗字帯刀を許された豪農だったが、死去翌年の明治21年(1888年)の時点で「奈良県平民 故中山美支」と婚家の名字で表記されている。西郷隆盛未亡人西郷イトをはじめ、維新の元勲の妻は皆夫の名字を名乗っていたようである。もっとも、慶応4年/明治元年(1868年)の会津戦争で戦死した「神保雪子さん」(会津藩家老神保修理の妻)や、会津藩娘子軍「中野こう子さん」が婚家の名字で呼称されているのに対し、同輩の新島八重は「山本八重子さん」と呼称されている。明治4年の戸籍では「川崎尚之助妻」となっており婚姻の事実は確認できる一方、離婚及び夫婦ともに配偶者側の名字を名乗った事実が未確認である。新島襄との結婚後は新島を称したが、ニイジマでなくNeesimaとサインする、墓石の字体が夫婦で異なるなど謎が多い。 結局、当時の社会慣習を尊重する観点から、明治23年法律第98号(旧民法)人事編第243条2項は「戸主及び家族は其家の氏を称す」としており、この条文は明治31年法律第9号(明治民法)第746条にそのまま継承された。 明治31年民法を立案した法典調査会委員の富井政章・横田国臣、梅謙次郎、奥田義人も同様に夫婦同名字規定は日本慣習の立法化だという主張をしているが、江戸時代以前については「法律家の誤判」だという後世の批判もあり争われている(洞富雄)。ただしこの立場からも、明治8年の平民苗字必称義務令以後の主流が夫婦同名字だったことは否定されない。 なお31年民法では、女戸主(跡継ぎ限定)との婚姻(入夫婚姻)にとどまらず、婿養子(次女以下も可)による名字の女系継承も認められており(788条2項)、(独法を含む)当時の西洋法の主流と異なる日本独自の慣習の法制化だと説明されている(第146回法典調査会)。夫が妻側の名字を名乗った例として、大本教の開祖出口なお・政五郎夫婦(幕末)、およびその五女と結婚して婿養子に入った出口王仁三郎(民法施行後)や、岩倉家の婿養子になった岩倉具視など。これに対し、当時の独民法では常に妻が家名を改める上(1355条)、離婚しても当然には夫の家名の名称使用権を失わない(1575条)。日本民法が仏法または独法の模倣だという説は施行直後からあったが、条文を見ない者の言うことだと批判されている。外国人に原則適用されない家族法は不平等条約改正の必須条件ではないため、外国法を模倣する必要がないことは早くから認識されていた。特に明治23年法律第98号が全然ドイツ法を参考にしていないことは梅謙次郎ほか多くの法学者が認めるところであるが、非専門家の中には、明治10・11年草案や23年公布民法に触れずに、明治31年民法の夫婦同氏規定はドイツ帝国をモデルにしたものと断定するものもある。
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