近代以後の名字とは? わかりやすく解説

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近代以後の名字

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:03 UTC 版)

名字」の記事における「近代以後の名字」の解説

明治政府幕府同様、当初名字許可制にする政策行っていた。幕府否定のため幕府により許可制認められていた農民町人名字全て禁止し慶応4年9月5日1868年10月20日))、賜姓による「松平」の名字禁止したり(慶応4年1月27日1868年2月20日))する一方政府功績者に苗字帯刀認めることもあった。明治2年7月1869年8月以降武家政権より天皇親政戻ったことから、「大江朝臣孝允木戸」のように姓(本姓)を名乗ることとし時期もあった。 明治3年1870年)になると法制学者細川潤次郎や、戸籍制度による近代化重視する大蔵省主導により、庶民への名字原則禁じ政策転換された。同年9月19日10月13日)の平民苗字許可令明治8年1875年2月13日平民苗字必称義務令により、国民はみな公的に名字を持つことになった。この日にちなんで、2月13日は「名字の日」となっている。明治になって名字届け出る際には、自分名字創作して名乗ることもあった(たとえば与謝野鉄幹の父・礼厳は先祖伝来細見という名をあえて名乗らず故郷与謝郡地名から与謝野という名字創作した)。僧侶神官などに適当につけてもらうということもあったが例は少ない。 明治4年10月12日1871年11月24日)には姓尸(セイシ)不称令が出され以後日本人公的に姓(本姓)を名乗ることはなくなった。氏・姓は用語も混乱していたが、この時点太政官布告上は、源平藤橘大江などのいわゆる姓(本姓)は「姓」、朝臣宿禰などの姓(カバネ)は「尸」というように分類したのである以後法律上「氏」(または姓)というのは、地名など由来する家名としての名字」であり、古代職業集団としての名称や、氏姓制度形骸化した後の父系血統称号(姓(本姓)、源平藤橘など)ではないことが明治23年法律98号立法関係者によって明言されている。 明治5年5月7日1872年6月12日)の「通称実名一つ定むる事」(太政官布告149號)により公的な本名一つ定まり登録され戸籍上の氏名は、同年8月24日9月26日)の太政官布告により、簡単に変更できなくなった。 また婚姻後の妻の名字については、明治8年1875年)、石川県より「嫁いだ婦女は、終身その生家実家)の氏とするか。嫁が家督などを継ぐなど、夫家の氏とせねばならぬ場合はどう示すか」との伺があり、同年11月9日内務省判断困り太政官伺を出したその結果明治9年1876年3月17日太政官指令として、妻の名字は「所生ノ氏」つまり婚前のものとされた。幕末の志士たちの愛読書だった頼山陽の『日本外史』などが源頼朝正室を「平氏」、織田信長正室を「斎藤氏」と実家の姓または名字記述していたことの影響である可能性指摘されている。この指令には全国地方官庁から不当な慣習違反であるとして異論噴出戸籍実務扱い地方ごとに対応が分かれたが、同指令反し、妻の氏を記載しないものが多数派であった一方で箕作麟祥らの起草に成る明治10・11年草案では「妻は其夫の姓を用ふ可し」と規定188条)、その後草案および法典一貫して夫婦同名規定採用している。なおドイツ民法第一草案脱稿1888年明治21年)である。 幕末生まれ井上操は、明治23年論文で、当時最新草案につき、確かに古代とは異なるが、「然れども幕府以来実際は夫の氏を称し、現に今も夫の氏を称し戸籍実務如き別に実家の氏を示さず」と指摘し夫婦同名規定日本慣習従ったのであることを論証している。また草案起草に際して作られ司法省の『九国対比でも、該当条文につき外国法に「皆成文ナシと書かれている同年の『女学雑誌242号に掲載された「問答細君たるものの姓氏の事)」でも、「およそ夫あるの婦人は、多くその夫の家の姓を用ひおる様に侍るが、右はいかがのものにや」とされており、実態として多くの妻が夫家の名字用いるようになってきていることが明らかにされている。 例としては、天理教教祖中山みきも、実家前川家苗字帯刀許され豪農だったが、死去翌年明治21年1888年)の時点で「奈良県平民中山美支」と婚家名字表記されている。西郷隆盛未亡人西郷イトをはじめ、維新の元勲の妻は皆夫の名字名乗っていたようである。もっとも、慶応4年/明治元年1868年)の会津戦争戦死した神保雪子さん」(会津藩家老神保修理の妻)や、会津藩娘子軍中野こう子さん」が婚家名字呼称されているのに対し同輩新島八重は「山本八重子さん」と呼称されている。明治4年戸籍では「川崎尚之助妻」となっており婚姻事実確認できる一方離婚及び夫婦ともに配偶者側の名字名乗った事実未確認である。新島襄との結婚後は新島称したが、ニイジマでなくNeesimaとサインする墓石字体夫婦異なるなど謎が多い。 結局当時の社会慣習尊重する観点から、明治23年法律98号旧民法人事第243条2項は「戸主及び家族は其家の氏を称す」としており、この条文明治31年法律第9号明治民法)第746条にそのまま継承された。 明治31年民法立案した法典調査会委員富井政章横田国臣梅謙次郎奥田義人同様に夫婦同名規定日本慣習立法化だという主張をしているが、江戸時代以前については「法律家誤判」だという後世批判もあり争われている(洞富雄)。ただしこの立場からも、明治8年平民苗字必称義務令以後主流夫婦同名字だったことは否定されない。 なお31年民法では、女戸主跡継ぎ限定)との婚姻入夫婚姻)にとどまらず婿養子次女以下も可)による名字女系継承認められており(7882項)、(独法を含む)当時西洋法の主流異な日本独自慣習法制化だと説明されている(第146法典調査会)。夫が妻側名字名乗った例として、大本教開祖出口なお政五郎夫婦幕末)、およびその五女と結婚して婿養子入った出口王仁三郎民法施行後)や、岩倉家婿養子になった岩倉具視など。これに対し当時の独民法では常に妻が家名改める上(1355条)、離婚して当然には夫の家名の名称使用権失わない1575条)。日本民法仏法または独法模倣だという説は施行直後からあったが、条文見ない者の言うことだと批判されている。外国人原則適用されない家族法不平等条約改正必須条件はないため、外国法模倣する必要がないことは早くから認識されていた。特に明治23年法律98号が全然ドイツ法参考にしていないことは梅謙次郎ほか多く法学者認めるところであるが、非専門家中には明治10・11年草案23年公布民法触れずに、明治31年民法夫婦同氏規定ドイツ帝国モデルしたもの断定するものもある。

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