近代以降にまとめられた文献
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 04:40 UTC 版)
「喜連川騒動」の記事における「近代以降にまとめられた文献」の解説
『喜連川町誌』には、この事件について「喜連川騒動の顛末」として以下のような記述がある。 慶安元年(1648年)春、脱藩浪人となった尊信派の老臣高野修理が、5人の百姓と密かに藩を抜け出し、幕府に「城代家老一色刑部派が君主喜連川尊信公を発狂の病と偽り城内に閉じ込め、藩政を我が物にしている」と直訴に至った。 事件の現地調査に当たった幕府御上使は7月11日に江戸を立ち、7月17日に調査を終えて江戸に帰って、「高野修理等の直訴内容に偽りはなく、喜連川尊信は正常である」と報告した。幕府御上使は、甲斐庄喜右衛門(幕府御弓頭四千石大身旗本)・野々山新兵衛(吉良家家臣)・加々見弥太夫(吉良家家臣)の3名であった。喜連川藩の接待役は黒駒七左衛門・渋江甚左衛門・大草四郎右衛門が当たり、この3名は、事件後の一代家老となった。 幕府の老中が諸藩の事件評定に参加することは珍しかったが、このときは大老酒井忠勝・老中の松平信綱・阿部忠秋・阿部重次の4人が特別にその審理に参加し、評定役には酒井忠吉・杉浦内蔵充・曽根源左衛門・伊丹順斎の4人が当たった。酒井忠吉は、大老酒井忠勝の実弟で、高家吉良義冬の義父であり、訴えられた一色刑部と同じく足利家の親族であった。 喜連川から帰った幕府御上使の報告に基づき、即刻評定が下され、一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門の3名が伊豆大島へ流罪、一色左京(一色刑部の長男)・石塔八郎・伊賀惣蔵・柴田弥右衛門・柴田七郎右衛門の5名は大名旗本預かりとなったとされる。また、この事件当時、尊信派の次席家老の二階堂又市(15歳)は、役責不行き届きの罪により白河城主本多能登守に預けられたとされる。 高野修理等の働きにより3代喜連川尊信は解放され藩政を取り戻し、その約5年後の承応2年(1652年)、尊信の死去により4代喜連川昭氏(7歳)が大叔父である榊原忠次を後見人として家督を相続した。 この喜連川騒動では、誰一人として死罪となった者はいなかったが、喜連川藩の一色派の家は断絶となったとされる。 忠臣として記述されている尊信派の中で、二階堂又市だけは喜連川騒動事件の15年後に帰参を許されている。
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