諸本と流布とは? わかりやすく解説

諸本と流布

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 14:53 UTC 版)

見聞集」の記事における「諸本と流布」の解説

写本は、『国書総目録 第3巻』に(1)国会(2)内閣(3)宮書(嘉永3写6冊)(4)同(古心堂叢書85-89)(5)京大(6)教大天保10写)(7)(8)早大2部)(巻4‐7欠、2冊)(9)東北大狩野(10)秋田(11)史料(12)同(抄、雑纂の内)(13)刈谷(14)天理江戸中期写)の14種があり、この他日本古典籍総合目録データベース(15)茨城大(7冊)(16)公文書(11,12別本)(17)大洲矢野(天保9写)(18)同 の4種がある(冊数10冊は記載省略。計18種)。 文久3年1863年)の斎藤月岑睡余觚操』には、『見聞集』は何処かの家の秘蔵であったものが、天保の頃(1831-1845)から世の中流布した、とある。『近古文芸温知叢書』の小宮山綏介解説には、鈴木白藤家記(『夢蕉』)からの引用として、文化13年1816年)に近藤正斎鈴木白藤が「三浦氏」から『見聞集』を含む秘書数種を借り出して写したことがみえ、また『仮名草子集成翻刻底本となっている秋田県立図書館本(下記(10))の文政3年1820年書写時の跋に、『見聞集』は当時鑓奉行だった三浦和泉(守)家の秘書だったものを鈴木左衛門椿亭)が借り出して写した旨がみえるため、写本流布元は浄心の子孫の家だったことが確からしい。 ただし、戸田茂睡の『むらさきの一もと』が『見聞集』を引用していることが指摘されており、また浄心の子孫にあたる安祥院歌集心の月』の書名について、『見聞集』に仏典からの引用がみえることなど、流布しとされる時期より前に内々知人関係者見せていたと思われる節もある。 『見聞集』の諸本 (1) 国立国会図書館本 題箋・印記「東京図書館(1)1・4・6(2)2・5・79巻 (3)3・810巻題字見聞集」の記し方や書体異なり、3人で写したもよう。 巻10大尾前に「右見聞集十巻三浦浄心伊勢町住居せし事/五の巻見ゆ〕が述作にして/江戸事跡記しゝ書のはじめなり/文久二年壬戌十一月忙中流覧一校を遂了/巻中誤写少なからず他日閑を得ば再訂すべし/江戸書儈 脅肩病夫五一門人/活東子題」とあり、「活東子云」で始まる朱書頭注がある。文久2年(1862年)の岩本活東子写本写し近藤瓶城改定史籍集覧10集』の「見聞集」跋に、「明治17年12月34年1901年5月以東京帝国図書館本再校了」とあり、1901年に『改定史籍集覧』の翻刻再校正用いられている(従って『史籍集覧』と『改定史籍集覧』は全く同じではないはず)。 巻10(12)に巻5(2)再掲されており、以下巻10(13),10(14)が後ズレしている、という錯簡がある((7)早大(5冊10巻)本と共通)。鈴木棠三校注本の本巻使用底本について」に、「国会図書館本は、史籍集覧底本として使用された本であるが、この本は巻五、日本橋市をなす事及びその次条わたって錯簡があり、これはその親本における錯簡そのまま書写した結果であると思われる」とあり、上記錯簡のことに言及しているようである。なお、『史籍集覧』『改定史籍集覧』の底本は、同書の跋によれば(2)内閣文庫昌平坂学問所旧蔵)本であって(1)国会図書館本ではない。 (2) 国立公文書館内閣文庫昌平坂学問所旧蔵本 『史籍集覧』『改定史籍集覧』の翻刻底本。 序跋・識語なし 昌平坂学問所編纂書のうち、序により文化7年1810年)から編纂された『新編武蔵風土記稿』に『見聞集』の内容引用されており、また序により文政丙戌文政9年1826年)頃から再編纂して成立した記録解題』に『見聞集』の解題載せていることから、この頃までに同学問所では『見聞集』の写本作成されていたとみられる現存写本と同じ本かは不明)。 (3) 宮内庁書陵部本(嘉永3写6冊) 印記「不存蔵書」(鈴木真年蔵書) 印記「三枝文庫本」(三枝博音蔵書冒頭に「見聞集作者略伝」と題して馬場文耕近代公実厳秘録』からの写し載せている。岡田哲校訂)『馬場文耕全集』の翻刻対照するとかなり異同があり、太田南畝が『一話一言』で言及している内容は、『馬場文耕全集』の翻刻よりも、この写しに近い。 朱書で巻3(11)伊豆国一見之事〔付〕石橋山合戦の事」が『見聞軍抄』巻1にもみえるとの指摘あり。 大尾識語「右三浦見聞集十巻者於芙蓉店/求之尤可珍重者也不可出[門田]外/嘉永三季七月十七日 [花押(「のような形)]」とあって嘉永3年1850年)は所蔵者が書肆購入した日付で、書写時期それより前。川瀬一馬『古辞書研究』(大日本雄弁会講談社1955年99頁)に『和名抄』写本巻末識語として「右五巻者於芙蓉店求之不可出[門田]外者也 嘉永二年(1849)四月十二穂積重年」とあることが紹介されている。よく似た内容なので、識語付した所蔵者は穂積重年鈴木真年で、別人写本嘉永3年に「芙蓉店」で購入したものであろう(4) 宮内庁書陵部本(古心堂叢書8589) 5冊10巻 「侗庵題簽」 印記「卍余巻/章」(古賀侗庵蔵書鈴木棠三校注本(『日本庶民生活史集成』)の底本同書の「本巻使用底本について」に「幕府儒官であった古賀侗庵(精里の三子)の旧蔵にかかる古心堂叢書中の1冊である」とあり。 古賀侗庵古賀精里の子で、鈴木白藤女婿白藤文化13年1816年)に『見聞集』を書写している。 古賀精里文化8年1811)に鈴木椿とともに対馬赴任したことがあり、椿亭も文政3年1820年)頃に『見聞集』を写しているので((10)秋田本)、侗庵が椿亭の写本写したとも考えられる。 巻3と巻5のみ目録題に「見聞集一名江戸物語〕」と別題付されている。(18)大洲矢野本も同様で、(18)識語から白藤本の写本考えられるため、古心堂叢書本も白藤本系考えられる。 第2-5冊の末に「癸酉十月」に「増」が読んだこと、第5冊末に「己卯十月」に再読したことが見える。それぞれ文化10文政2年1813年1819年)または明治6・12年1873年1879年)。 朱書に巻4(16)「ゆなふろ繁昌の事」が『そぞろ物語』にみえること、巻6(11)鎌倉坊主むかし物語の事」が『見聞軍抄』巻5と同内容で、『東鑑』からの引用であるとの指摘あり。 (5) 京都大学未詳。 「京都大学蔵書検索によれば識語牡丹毛利」(各冊末尾)、印記「淀府内圖書之章」「八文字屋藏書之印」 (6) 筑波大学旧東京教育大学図書館本(天保10写) 未詳鈴木棠三校注本の本巻使用底本について」によると、奥に「天保10年1839年正月中旬鈴木蔵本対校一過訖」と識された本(同書底本ではない)。 同書鈴木棠三は、「書写過程において、漢学素養ある人物により相当程度加筆整備されたらしいことが想像される。たとえば他本では漢語仮名書にしてある部分を、この本ではかなり漢字直してあるが、これは恐らく仮名書の方が原形だったらしく思われる。また記述について筆者考証頭注として記入したものが処々見られることも他本にはない」と評価している。「鈴木君」は鈴木白藤鈴木恭、1767-1851)か鈴木椿亭(鈴木文、1765-1829)または別の鈴木さん可能性があり、年代から本人であれば白藤の本と校合した可能性が高い(底本別の本)。 (7) 早大(5冊10巻)本 大尾文久2年(1862)(岩本)活東子の識語あり。 朱書に「活東子云」で始まるもの含まれているので、岩本活東子本を写したもよう。 巻10(12)に巻5(2)再掲されており、以下巻10(13),10(14)が後ズレしている((1)国会図書館本と共通)。 (8) 早大(巻4‐7欠、2冊)本 識語なし 巻1に「文堂印」の印影あり。 内容省略箇所が多い。抄本(9) 東北大狩野文庫本 未詳(10) 秋田県立図書館本 『仮名草子集成』の底本同書翻刻跋文に「見聞集十冊、今時鑓奉行三浦和泉か家秘にて、甚他見を禁る由、御徒目付鈴木左衛門いかにして出せしやらむ、同好の者なれは、潜に看よとて貸こせしまゝ、筆耕者にうつさせ畢 文政庚辰文政3・18207月」とある。三浦義和和泉守)は文政3年から御鑓奉行となっている(『柳営補任』)。『見聞集』が三浦義和の家に伝わっていたことを裏付ける記述秘書借り出した御徒目付鈴木左衛門」は鈴木椿亭(文左衛門鈴木文とみられる(11) 東京都公文書館本(CO-001~CO-010) 巻1 註「朱文字之箇所原本対照の際/書□不足の□□を補足せしもの也/□□□□して返読すべきものとす」 巻10 跋「右見聞集十巻三浦浄心伊勢町住居せし事/五の巻見ゆ〕が述作にして江戸事跡記しゝ書のはじめなり/文久二年〔壬戌十一月忙中流覧一校を遂了 巻中誤写少なからず他日閑を得ば再訂すべし/江戸書儈 脅肩病夫五一門人/活東子題」 活東子の跋の後に、「大尾後書写(原本より)」とあって、「三浦浄心見聞集は本と三十二冊ありしに後人遊女歌舞伎の事に係るものを抄録してそゞろ物語と名/つけて小田原の事に係るものを節録して北条五代記と/名づけ(…)他の同名の書と混し/易けれは近来表題慶長二字加へて之を/分つ至れり今亦従之と云/(…)明治十七十二月五日出版御届/著者故人 三浦常心/出版人 東京府平民 近藤瓶城深川区富岡門前町/七拾番地」とある。これは(改定前の)『史籍集覧 慶長見聞集』の跋を書写したもの(12) 東京都公文書館本(抄、雑纂の内、CK-745) 外題雑纂慶長見聞集抄/慶長年間江戸図考」 『見聞集本文の抜録 跋なし (13) 刈谷市図書館村上文庫未詳 (14) 天理図書館本(江戸中期写) 未詳 印記「池南文庫」(不明) 印記「祐田氏蔵書」(祐田善雄蔵書) 「祐田氏蔵書天理図書館蔵書検索一般注記によると第3冊末に「右慶長見聞集以豊芥子藏本抄冩之 癸夘閏九月」とあるといい、1843年天保14年癸卯)頃に石塚芥子(1799-1862)蔵本写した抄本とみられる(15) 茨城大(7冊) 未詳 (16) 東京都公文書館本(11,12別本、CO-035~CO-044) 表紙の印記「東京市役所文庫」 1丁オの印記「市史編纂典籍記」 跋「右見聞集十巻三浦浄心伊勢町住居せし事/五の巻見ゆ〕が述作にして江戸事跡記しゝ書のはじめなり/文久二年〔壬戌十一月忙中流覧一校を遂了 巻中誤写少なからず他日閑を得ば再訂すべし/江戸書儈 脅肩病夫五一門人/活東子題」 跋の後に「大尾後書とあって三浦浄心見聞集は本と三十二冊ありしに後人遊女歌舞伎の事に係るものを抄録してそゞろ物語と名/つけ小田原の事に係るものを節録して北条五代記と/名づけ(…)他の同名の書と混し/易けれは近来表題慶長二字加へて之を/分つ至れり今亦従之と云/(…)明治十七十二月五日出版御届/著者故人 三浦常心/出版人 東京府平民 近藤瓶城」とあり、ほぼ同文2つ付いている。(11)同じく、(改定前の)『史籍集覧 慶長見聞集』の跋の書写のもよう。刊記近藤住所記載が無いものと有るものが付いている。 (17) 大洲矢野(天保9写) 未詳下記(18)同系か。 (18) 大洲矢野(天保9写) 印記「矢野氏記」(矢野玄道蔵書) 印記「笨斎長田守文蔵書」 跋「この書は三浦なにがし伝本なり/白藤鈴木翁のもたるゝをかりえて/人にあつらへてうつしをへるなり時は/天保九年(1838)□□(戊戌)かなつ/笨斎」 印記・跋により長田笨斎(守文)が天保9年1838年夏に鈴木白藤写本写した本。 巻3と巻5のみ目録題に「見聞集一名江戸物語〕」と別題付されている((4)書陵部(古心堂叢書)本と共通)。

※この「諸本と流布」の解説は、「見聞集」の解説の一部です。
「諸本と流布」を含む「見聞集」の記事については、「見聞集」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「諸本と流布」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から諸本と流布を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から諸本と流布を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から諸本と流布を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「諸本と流布」の関連用語

1
見聞集 百科事典
2% |||||

諸本と流布のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



諸本と流布のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの見聞集 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS