精神分析的な研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 08:51 UTC 版)
長池一美は、初期の研究は主にフェミニズムやジェンダー研究の枠組みで、「女性が男性同性愛の関係性に自らの女性性をどのように反映できるのかを意識し、いわゆる『女性』と『女性性』の再発見に焦点を当ててきたといえる」と述べている。こうした研究を通して、次のような議論が開かれてきた。 女性性の否定(もしくは女性性からの逃避) 女性特有のガイネーシス的なナラティブ(物語、語り)であることの強調 精神分析の議論に触発された「なぜ」に対する女性の深層心理 なぜ腐女子になるのか、なぜやおい・BLジャンルが成立するのかという理論は様々であり、1人の論者が複数の説を挙げていることも少なくない。1990年代に起こったゲイサイドからのやおい・BL批判「やおい論争」(参照・ボーイズラブ#ゲイとボーイズラブ)と2000年代位の腐男子研究を通して、やや排他的であったフェミニズム的な力学が脱構築され始めている。 以下に、精神分析的な研究の見解を数例示す。 異性愛の安全なシミュレーション 榎本ナリコは、やおいを愛好する女性が(女性的役割を担っている)「受け」のキャラクターに感情移入する場合について、それによって自己の安全性が確保されるのだとしている。つまり、自己の身体の代替として受けの男性キャラクターの身体を利用することによって、自分自身は傷つかず妊娠する危険もないという安全性を手にした上で擬似的な性行為を楽しむことができるのだという。ただし、榎本ナリコはやおいを愛好する女性はしばしば「受け」のキャラクターだけではなく(男性的役割を担っている)「攻め」のキャラクターにも感情移入していることを指摘しており、その場合については後述の「欲望の主体性の獲得」による説明を行っている。 谷川たまゑは、やおい愛好家の女性には結婚後も同様の趣味を続けるものも存在することなどから、異性愛を前もってシミュレートすることがやおい系作品を享受する目的だとする解釈は、実態から乖離した主張だと批判している。 女性性の否定・女性嫌悪 少女は第二次性徴を経ると自らの身体の女性性を自覚してそれに戸惑い・恐怖を覚え、女性嫌悪が内面化されるという形で男性同性愛の作品を好むようになるという説明。たとえば、心理学者の小倉千加子らがこういったの趣旨のことを述べており、社会学者の上野千鶴子も一部で触れている。本人もやおいを手がける中島梓も社会からの選別のまなざしの無い空間へ逃避するできることがやおいが好まれる理由だとしている。 榎本ナリコは、女性が「受け」のキャラクターに感情移入する背景には女性である自分が性的な欲望を抱くことや性行為そのものへの嫌悪感があり、そのために女性として身体のまま性的な妄想に浸ることに抵抗を覚え、自身を男性にすりかえる必要性が生じると説明し、女性が排除されたやおいの世界では、現実では女性が常に感じてしまう「ウーマンヘイト」から無縁でいられるということを指摘している。 『日出処の天子』『風と木の詩』のように、男性同性愛を描いた少女漫画の内容でも女性が嫌悪の対象として描かれている。 また、やおい愛好家の女性が抱える「女性性に対する葛藤」は、しばしば摂食障害の女性が抱えるの同様の「女性性に対する葛藤」であるとも指摘され、本格的なやおい論の嚆矢とされる中島梓の『コミュニケーション不全症候群』でもやおいと拒食症の双方が論じられている。女性性が自覚される第二次性徴はちょうど拒食症の発祥時期と一致し、少女漫画の作品内で拒食症が取り上げられたり、漫画家自身がその体験を持っていることがしばしばある。社会的にも、やおいが浸透した時期と摂食障害が注目された時期は1970年代後半と一致しており、社会学者の熊田一雄は「摂食障害になりかねない女性たちのセーフティ・ネット」としてやおい文化が機能した可能性を指摘している。 一方、西村マリは、男性キャラクターを女性キャラクターの置きかえて描く「女の子ネタ」というジャンルが定着していることからやおい文化で女性性が否定されているわけではなく、むしろ男性性のほうが排除される傾向にあると述べている。 男性からの性的視線の遮断 男性からの性的視線の遮断という面があり、この観点からは、ヤマンバギャルとも共通点があるという意見もある。 性的欲望・視線の主体性の獲得 上野千鶴子は、花の24年組と呼ばれた世代の女性漫画家らのルサンチマンが生んだ、ジェンダーレス・ワールドにおける性愛の実験だと述べている。 永久保陽子によれば、思春期の少年向けの漫画には性的欲求を肯定するようなメッセージが暗に含まれていることが多いが、通常の少女向けのメディアでは同様のものは存在せず、少年と同じく多感な時期にもかかわらず性的欲望を持つこと自体が抑圧されているとした上で、男性同性愛という回路を経由して異性愛的な性的欲望の方向性を隠蔽しながら充足するための装置としてやおいが機能していると述べている。 榎本ナリコは、読者が「攻め」のキャラクターに感情移入している場合を念頭において次のように論じている。通常の男女の性愛では、両者の生殖器の生物学的な構造上から、男性側が欲望の主体で女性側が客体となることが事実上義務付けられている。しかし、現実世界では欲望の主体性になれない女性であっても、やおい系作品の攻めの男性キャラクターに感情移入しているときは、擬似的に欲望の主体となることができる。つまり、(やおい愛好家の多くは異性愛者なので)男性を性的欲望の対象としながら、なおかつ自分自身が欲望の主体性を獲得するための方法として男性同士の同性愛関係が必要となるのである。 金田淳子は、前述の女性嫌悪によるやおい解釈に対して、やおい表現において回避されているのは女性性ではなく女性を性的対象としてのみ見る視線であり、やおいによってまなざす主体性(性的欲望を持つ主体性)を獲得することができるとしている。 漫画研究家の藤本由香里も、やおい表現に「犯る側の視線」「見る側の視線」の獲得という意義を見出しており、高橋すみれも前述したようにやおい系作品では女性キャラクターがまなざす主体として描かれていることがあることから女性が性的視線の主体性を獲得できるとしている。 吉本たいまつは、さらに普段男性から受けている値踏みの視線をやおい・ボーイズラブという形で女性が男性へまなざし返しているとし、このことを男性が知ることが、普段無意識に女性に対して値踏みの視線をおくっていることへの自覚や女性の欲望に対する理解を促すとも述べている。 旧来的なジェンダー観の転覆 小谷真理は、少年向けの創作物を女性が好む形に強引に改造するやおい的欲望を、男性優位社会の中で抑圧された「ガイネーシス(女性状無意識)」を噴出させるものだと捉えた。また、それは同人文化の発展には印刷技術のハイテク化がかかわっていることからテクノロジーの問題と交錯したものだとして「テクノガイネーシス」の一種であると述べている。 社会学者の小林義寛はやおい文化を男性中心的なメディアを転倒するものだと捉えており、社会学者の笠間千浪は旧来的なジェンダー秩序を「転倒というより転覆」させるものだとしている。このほか、永久保陽子は男性向けポルノグラフィが豊富に存在するのに対し女性向けのそれは存在しておらず、女性が性愛表現を奪還しようと邁進(まいしん)してきた成果がやおいとしている。 トランスジェンダーの可能性 作家の榊原史保美は、その著書『やおい幻論』で、「やおいになるのは、その作者・読者がFtM(肉体は女性であるが精神は男性である状態)でかつゲイ(同性愛、もしくは両性愛)だからではないか」という説を提唱し、また自身もFtMゲイかもしれないと発言している。 異性愛の失望体験の回避 宮台真司は、物語の中で男女の性愛が描かれてしまうと、それによって自身の恋愛における失望体験を想起してしまうため、それを防いで純粋な妄想に浸るには男性同士の同性愛を描く必要があるのだと述べている。 ホモソーシャルに対する潜在的羨望 東園子は、体育会系の部活のマネージャーを志望する女子生徒や、個人単位ではなくコンビやユニット単位でファンになる女性の男性アイドルファンの存在などから、女性は(女性の間では同様のものがあまり見られない)男性のホモソーシャル的な絆に潜在的な憧れを抱いている場合があり、その欲望や表出した結果としてやおいがある可能性を示している。 女性版ホモソーシャル 社会学者の東園子は、腐女子が形成するコミュニティを女性版のホモソーシャルと解釈できるとしている。ホモソーシャルとは文学研究者・社会学者のイヴ・セジウィックが論じた概念で、男性同士で友情をはじめとする社会的なつながりが形成されてその間で女性は貨幣のように交換されるという構造を持ち、ホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー(女性嫌悪)という2つの特徴がある。腐女子のコミュニティでは、通常のホモソーシャルの枠組みにおいて女性が貨幣として交換されていたかわりに、物語の中の男性が欲望の対象として女性同士の間で交換される。(通常の男性の)ホモソーシャルにおける女性嫌悪についても、これを異性嫌悪と読み替えれば、(物語の中ではなく現実の)男性に対する嫌悪として腐女子のコミュニティに間に存在している(やおい系の同人雑即売会で男性の入場が禁止される例など、現実の男性を排除する傾向がある)。他方、同性愛嫌悪の傾向は腐女子のコミュニティにはあまり見受けられず、東園子はむしろ女性同士の絆を維持するための異性愛嫌悪の傾向の方が強いとしている。これは、通常の女性のコミュニティでは異性に関心を持つことが暗黙のうちに義務付けられている面があるため、そういった抑圧をキャンセルする場として腐女子のコミュニティが機能しているとみることができる。 翻訳家の栗原知代は、腐女子のコミュニティにおける女性同士の連帯感を「シスター・フッド」(英:sisterhood)や「@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}セパレート・レズビアン[要追加記述]」と類似するものだと指摘している。 関係志向の女性と所有志向の男性の差 やおい的欲望は男性オタクにみられる単一の対象に対するものではなく「受け」と「攻め」の関係性に対する欲望となっているという意見もあり、野火ノビタは「位相萌え」と呼んでいる。 斎藤環は、一般に男性は「所有(持ちたい)」を志向して女性は「関係(なりたい)」を志向するというジェンダー傾向があるという前提に基づき、なんの制約もなく自由に自分の欲望を追求できるはずの「オタク」という文化圏の中において消費の仕方に男女差が歴然と存在することについて、男性オタクは美少女キャラクターを「所有」しようとし、女性オタク(腐女子)の欲望は男性キャラクター同士の「関係」に向かうという形で説明できるとしている。
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