石井 邦生

プロフィール
棋戦主要履歴
- 昭和44年(1969年)
- 第1回新鋭トーナメント準優勝
- 昭和48年(1973年)
- 第29期本因坊リーグ入り
- 昭和52年(1977年)
- 第2期碁聖戦本戦入り
- 昭和54年(1979年)
- 第4期棋聖戦最高棋士決定戦出場
- 昭和57年(1982年)
-
第7期棋聖戦最高棋士決定戦出場
第8期名人戦リーグ入り - 昭和59年(1984年)
- 第3期NECカップ準決勝進出
- 平成2年(1990年)
- 第16期名人戦リーグ入り
- 平成4年(1992年)
-
第17期棋聖戦九段戦準優勝
第17期棋聖戦最高棋士決定戦出場 - 平成5年(1993年)
- 第18期棋聖戦最高棋士決定戦出場
- 平成7年(1995年)
- 第8回世界選手権富士通杯本戦出場
- 平成13年(2001年)
- 第14回世界選手権富士通杯本戦出場
- 平成21年(2009年)
- 第16期阿含桐山杯本戦出場
- 平成25年(2013年)
- 第3回マスターズカップ準優勝
受賞歴
著書一覧
「わが天才棋士・井山裕太」(集英社)
「スベリ専科」(日本棋院)
その他の活動実績
石井邦生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/04 03:09 UTC 版)
石井邦生 九段 | |
---|---|
名前 | 石井邦生 |
生年月日 | 1941年10月20日(82歳) |
プロ入り年 | 1956 |
出身地 | 福岡県 |
所属 | 関西総本部 |
師匠 | 細川千仭 |
段位 | 九段 |
概要 | |
七大タイトル | |
名人リーグ | 2期 |
本因坊リーグ | 2期 |
石井 邦生(いしい くにお、1941年(昭和16年)10月20日 - )は、囲碁の棋士。福岡県うきは市出身、日本棋院関西総本部所属、細川千仭九段門下、九段。元院生師範。名人戦リーグ2期、本因坊戦リーグ2期など。兄は石井衛九段。門下に史上初の七冠同時制覇を達成した井山裕太や、兆乾がいる。
経歴
1953年に細川千仭九段に入門、翌年日本棋院院生となり、1956年入段。関西学院大学中退。1968年八段。1969年、新鋭トーナメント戦決勝で石田芳夫に敗れ準優勝。1973、74年に本因坊リーグ入り。1977年、碁聖戦リーグ入り。1978年九段。1979年に棋聖戦九段戦で準優勝、最高棋士決定戦ベスト4に進出するが、準決勝で橋本昌二に敗れる。1982、90年、名人リーグ入り、90年は藤沢秀行、淡路修三を破るが2勝6敗で陥落。1992年に棋聖戦最高棋士決定戦出場、1回戦で王立誠に敗れる。1993年棋聖戦九段戦3位で、最高棋士決定戦では1回戦で上村陽生に勝ち、2回戦で大竹英雄に敗れる。
日中囲碁交流では、1973、83年に訪中団参加。1984年日中囲碁決戦では宋雪林に2-1で勝利、88年には曹大元に0-2で敗れる。1992年には応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦に日本(大阪)代表として出場、1回戦で王銘琬に敗れる。2001年の世界囲碁選手権富士通杯に出場。1回戦で当時数々の国際棋戦に優勝していた世界最強・李昌鎬と当たる。実利を主体にじっくりした碁を打ちかなり細かくなったが最後は李が無理して投了。石井は集中していたため李が頭を下げたのに気づかなかった。
また、20歳から50歳までの30年間、日本棋院関西総本部の院生師範を務めた。プロ第1号は坂口隆三(現九段)。続いて後藤俊午(現九段)。院生師範の終わり頃には山田規三生(第45期王座)を育てた。1994年、NHK教育テレビ囲碁講座の講師。1995年に、解説者を務めていた「ミニ碁一番勝負」で5人抜きした井山裕太を弟子として、ネットなども通じて1000局以上を打ち講評することで育て上げた。
2013年には、第3回エステー&フマキラー囲碁マスターズカップに予選を勝ち上がって出場。武宮正樹・片岡聡・山城宏らタイトル経験者を連破し、71歳にして準優勝を果たした。
2016年2月1日、公式戦1000勝達成(603敗1持碁)。74歳での達成は工藤紀夫の71歳を上回り史上最年長記録。59年10カ月での達成も工藤紀夫を上回り史上最長記録。関西総本部所属棋士として初の達成。またタイトル経験の無い棋士の達成も初[1]。
井山裕太
1996年(平成8年)の冬、解説を務めていた読売テレビ放映の「ミニ碁一番勝負」という番組で、当時6歳の後の七冠王井山裕太に出会う。小学生前にもかかわらず碁を覚えて1年で3段になった井山に驚き、その後大人たち相手に5人抜きチャンピオンになったのを見て弟子にすることを望んだ。小学1年生7歳になったときに正式に井山を弟子に取る。
まだ幼く一人っ子の井山を内弟子にするわけにはいかず、通いの弟子にするには電車で2時間半もかかるため断念した。そこでそのころ盛んになりつつあった電話回線を使ったネット碁(GO-NET)を利用し、週二日・1日2局の割合で打った。各45分使い切ると1手30秒の秒読みで、一局終わるたびに電話でポイントを指摘した。囲碁用語がわからない場合は井山の祖父が通訳した。また月2、3回は関西総本部で実際に会って打った。囲碁の世界では、師匠が弟子と実際に対局して指導するのは、極めて稀なことだった[2]。
初手合が6子で4段くらいだった井山はその後目を見張る上達を見せ、やがて5子になり1年生の終わり頃には4子(6段ほど)になった。少年少女囲碁大会・小学生の部で2年連続優勝した後中国北京の大会に武者修行に行かせたりもした。
井山が小学3年の10月に関西総本部の院生になってからは、土曜と日曜に行われる院生対局の講評が指導の大きな比重を占めるようになった。井山が感想を書き込んだ棋譜を調べて送り返すという方法をとった。書簡でのやりとりをという距離をおいたやり方で自分で考え、反省・発見させる力をつけさせた。また、小学4年生からは詰碁の本を渡した。小学6年の頃にはネット対局の手合割は井山の先に進み局数は1000局にも達した。
平成13年度に井山は入段。12歳での入段は林海峰・橋本昌二・結城聡に並ぶ記録であった。入段してからはネット碁を卒業し週一回関西総本部で会って一局か二局打つことになった。中学に入る頃は互先でいい勝負だったが次第に石井が勝てなくなり、4局打って1勝3敗のペースになった。途中からは20連敗を喫した。この時以来、人に尋ねられるたびに「はい、弟子に教えてもらっています」と応えるようにした。師弟戦は井山の手合が忙しくなって自然に消滅した[3]。
その後井山は数々の最年少タイトル記録を塗り替えトップ棋士になり、囲碁界史上初となる七冠を達成するなど日本を代表する棋士となっていった。
主な棋歴
- 新鋭トーナメント戦 準優勝 1969年
- 棋聖戦 九段戦準優勝 1979、92年
- エステー&フマキラー囲碁マスターズカップ 準優勝 2013年
- 名人戦リーグ2期、本因坊戦リーグ2期、碁聖戦リーグ1期
- 日中囲碁交流
顕彰等
- 棋道賞 1973年技能賞
- 松原賞 1977、80年
- 第41回大倉喜七郎賞 2012年
棋譜
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2001年4月14日 世界囲碁選手権富士通杯 黒 石井邦生 白 李昌鎬 135手まで・以下略 219手完黒中押し勝ち
関連書籍
脚注
- ^ 囲碁の石井邦生九段が公式戦1千勝 74歳、史上最年長
- ^ 碁・井山裕太七冠 常識破りの師弟関係が奇跡の偉業を生んだ 2017.10.22 07:00 - NEWSポストセブン
- ^ 『わが天才棋士・井山裕太』 石井邦生 集英社 2009年
外部リンク
「石井 邦生」の例文・使い方・用例・文例
- 私の名前は石井拓也です
- 株式会社小阪建設の営業課の石井と申します。
- 私、石井コーポレーション株式会社の企画部の本部長の山下と申します。
- 10月25日,衆議院議員の石井絋(こう)基(き)議員が東京都世田谷区にある自宅前で殺害された。
- 伊藤容疑者は「石井議員が自分のアパートの家賃支払いを手助けすることを断った」ため石井議員を殺したと警察に話した。
- 伊藤容疑者は過去に何度も金を要求するため石井議員の事務所を訪ねていた。
- 彼はさらに「石井議員と私とは思想上の対立があった。」と話した。
- 石井議員は金融スキャンダルを暴(あば)き,むだ遣いの多い公共事業と闘っていたことで知られていた。
- シアトル・マリナーズの鈴木イチロー選手が2001年に4回,ロサンゼルス・ドジャースの石井一(かず)久(ひさ)選手が2002年4月にナショナルリーグ賞を獲得している。
- 広島大学大学院工学研究科の石井抱(いだく)助教授が新しいバッティングロボットを開発した。
- 「これらのカメラでは,球がまるでスローモーションで動いているように見える。」と石井助教授は話した。
- 石井助教授は,これらの高性能カメラを,工場製品の品質管理検査を行うために開発していきたいと考えている。
- 2006年の大会覇者である石井慧(さとし)選手が昨年の勝者である鈴木桂(けい)治(じ)選手を決勝で破り,2度目の優勝を果たした。
- 石井選手は100キロ超級での五輪初出場を確実にした。
- 石井雅(まさ)史(し)選手はオーストラリアの選手にわずか0秒013遅れてゴールし,2位に終わった。
- 照明デザイナーの石井幹(もと)子(こ)さん(69)と娘のリーサ明(あか)理(り)さん(37)がこのイベントを企画した。
- 石井さん母娘は,パリの街に日本特有の色を紹介したいと話した。
- このイベントは,照明デザイナーの石井幹(もと)子(こ)さんと娘のリーサ明(あか)理(り)さんによって演出された。
- 三菱重工業の執行役員である石井泉(いずみ)さんは「私たちは短期間に4機のH2Aロケットの打ち上げに成功した。これは自分たちのロケットに対する大変な自信になる。」と述べた。
固有名詞の分類
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