漂流の経緯とは? わかりやすく解説

漂流の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/06 04:37 UTC 版)

継右衛門」の記事における「漂流の経緯」の解説

宝暦14年1764年)に南部藩領陸奥国北郡滝村現青森県下北郡佐井村)に生まれる。 享和3年1803年9月継右衛門船頭として乗り組んでいた慶祥丸(13乗り)は脇之沢(現青森県むつ市野沢)を出港し箱館向かった箱館では塩漬けなどの荷物積み荷主源次郎も慶祥丸に乗船した11月8日、慶祥丸は箱館出港し江戸向かったが、この日の夜尻屋崎現下北郡東通村)沖で暴風雨遭遇する継右衛門乗組員積荷投棄指示し、米50石ほどが海中捨てられたものの、沈没免れることができ、翌11月9日唐丹湊(現岩手県釜石市)に入港することができた。11月13日、慶祥丸は唐丹出港東名浦(現宮城県東松島市)を経て11月28日中之作湊(現福島県いわき市)に到着する中之作湊では海中投棄した米の不足分買い付けその日のうちに出港したが、翌11月29日九十九里浜沖で慶祥丸は船のコントロール失ってしまい、北風によって南に流された。12月初めごろに慶祥丸は三宅島の沖40kmまで接近するが、風向き変わったために接岸失敗し、慶祥丸は東に流された。なお、12月19日には最初の犠牲者出ている。 慶祥丸は翌年1月から2月にかけては南東流されたため、乗組員たちはその暑さ悩まされることになるが、3月から風向き変わって北に流されるようになった。そのため、乗組員たちは今度寒さ悩まされるようになり、寒くなるにつれて死者増えていった。この時期継右衛門病気になり、ほとんど寝たきりの状態となってしまった。 7月18日生き残った継右衛門、専右衛門、吉九郎、弥内、勘右衛門岩松の6人が約半年ぶりに陸地目撃した陸地北千島幌筵島で、6人は東浦上陸した上陸後、6人は島内人家探す見当たらず小舟で隣の占守島移った占守島浜辺で6人は流木集めて焚火をし、打ち上げられ海藻食料としていると、弥内が沖を通る船を発見した。岸に近づいてきたその船にはアイヌ漁師たちが乗っており、6人は身振り手振りやり取りした結果分けてもらうことができた。 元気を取り戻した6人は占守島からカムチャツカ半島最南端のロパトカ岬へと渡り20日ほどの航海大きなアイヌ村落着いた。6人は蝦夷地着いたと喜ぶも、アイヌの話からここが蝦夷地ではないことを知り、この次の航海準備始めた。その数日後、このロシア人訪ねてきた。6人は当初ロシア人恐れていたが、次第交流するようになり、ペテロパウロフスクに一緒に来るよう説得受けた。6人はこのまま蝦夷地目指し南下することも検討したが、最終的にロシア人説得受け入れ、ペテロパウロフスク行き決意した

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漂流の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/25 03:41 UTC 版)

長右衛門」の記事における「漂流の経緯」の解説

寛文9年1669年11月15日長右衛門ら7人を乗せた船は紀伊国宮崎(現:和歌山県有田市宮崎)を出帆し江戸向かった。この船は阿波国海部郡浅川浦(現:徳島県海部郡海陽町浅川)の船主左衛門の船であった乗組員は7人で、船主の勘左衛門自身船頭務め紀伊国藤代(現:和歌山県海南市藤白出身長右衛門積荷のみかんの荷主としてこの船に乗っていた。 船は順調に航海続け潮岬廻って志摩国安乗浦(現:三重県志摩市)に到着した。ここでしばらく日和待ちをした後に出帆したが、翌寛文10年1月6日1670年1月27日)朝に遠州灘遭難した。船は1月中は南東方角流されたが、その後北東風に吹かれて南西へと流された。その間一行10日程で持っていた米を食べ尽し積荷のみかんや釣った食べて飢えしのいだ2月20日4月9日)頃、一行は名も知らぬ島(母島)に流れ着き伝馬船上陸試みた。島は無人島で、一行水場にたどり着いて飲み全員その場眠ってしまうのだが、翌朝目覚める船頭の勘左衛門眠ったまま息を引き取っており、一行は6人となった残された6人は、ウミガメ潮煮にして食べたり伝馬船で島を一周して島の様子確認する同時に破損した船の廃材使って新たな船を造ることを試みた。なお、島を一周する途中で6人は別の和船残骸拾っており、これを新たな船の船底流用した。こうして6人は、およそ50日かけて、四反帆(幅約3mの帆)の船を造り上げることに成功した。 船が完成すると、6人は干したウミガメの肉を俵に詰めて食糧準備をし、とある朝北西見える島(父島)に向かって出帆その日夜に到着した。6人は父島6日ほど留まったのち、南風受けて出帆すると、翌朝にまた別の島(聟島列島)に着いた。この島では2日滞在した後、6人は北西向かって出帆し8日後に八丈島に無事到着することができた。上陸した6人は島民に話を聞くと、この日は4月25日6月12日)であると判明したその後、6人は八丈島5月5日出帆し5月7日の昼に伊豆国下田(現:静岡県下田市)に到着した。6人はすぐに下田奉行所に漂流顚末届け出た

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漂流の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/12 19:04 UTC 版)

武智三繁」の記事における「漂流の経緯」の解説

7月20日午前4時長崎県崎戸町の崎戸港を出航した日帰り予定だったが、正午頃に船のエンジン停止その後エンジン好調不調繰り返した7月24日携帯電話崎戸町内の修理業者連絡をとりつつエンジン修理しようとしたが、難航。さらに携帯圏外となり、連絡手段途絶えた7月25日停止していたエンジン再起動するが、現在位置把握できないまま、エンジンが完全に停止。この日、修理業者崎戸町漁協支所繁栄丸の故障連絡翌日には佐世保海上保安部連絡入り海と空からの捜索開始された。 7月26日 - 8月4日頃船に積み込んでいた食料が底をついた。初日釣り上げていた小魚を餌として釣り上げ刺身などにして食べた食べきれない干物にして保存した周囲が餌を警戒し始めたらしく、餌釣りがうまくいなくなったためにルアー釣り試したが、数個あったルアーをすべて奪われ財布付いているキーリングルアー自作し釣り始めた当初釣りに楽しみを感じ余裕があったものの、大物がかかると、それを引き上げることが体力消耗繋がった。 (時期不明大型船接近。4本ある発煙筒内の3本使って救援求めたが、大型船はそれに気づかず通過した。残る1本の発煙筒最後の最後まで思い残していたものの、結局は使うことがなかった。 8月4日手製ルアー奪われを釣る手段が完全になくなった新鮮な得られなくなったため、食料それ以前釣り上げた干物のみとなった8月9日前後が完全に底を付いた出航当時には20リットル入りポリ容器2個、ペットボトル数本栄養ドリンク数本積んでいたが、この頃飲料水が底をついた。前述のように食料干物のみとなっていたが、干物を口にしてもなしではとても飲み込めなかった。 (時期不明海水をやかんで沸騰させて蒸留水作ることを試みた。やかん程度では、蒸留水別の容器移し替えて大量に貯めるのは無理で、やかんの付着した水滴嘗めかろうじて渇き癒し武智 2001, pp. 106-110。雨の日もあったが、雨水容器に貯めようにも、容器自体海水の塩にまみれていたので真水貯めることができなかった。 8月19日 - 23日台風11号遭遇優に10メートル超える大波何度も襲われ船内水浸しになったが、前もって船体各部ロープを太いものに交換して補強しておくなどの策が功を奏し台風乗り切った8月23日以降体力目に見え消耗し立った歩いたりすることすら困難となり、海に転落したこともあった。 (時期不明コンロガス使いきり真水作ることが完全に不可となった最後の手段として自らの尿に口をつけるが、とても飲み込むことはできず、唇を濡らすのが精一杯だった。飲むことが困難だったのは、脱水症状影響で尿が濃くなった上に異臭伴っていたためと推測されている。 (時期不明極限状態の中の最後の手段として、帆柱など目立つ部分色とりどりの布類を結び付けて風になびかせひたすら救助待った。 この時点では発煙筒が1本残っていたが、ほかの船に合図する最後の手段として、燃料を船に撒いて自体を燃やす手段考えていたという。 8月26日千葉県犬吠埼東方800キロメートル地点太平洋上で漁場に向かう徳島県マグロはえ縄漁船末広丸が繁栄丸を発見し救助求めていると気づいた。船の大きさが違うために船を横付けできず、飲み物おにぎり、たばこなどを差し入れたその後海上保安庁から連絡受けた海上自衛隊救難飛行艇到着出航から37日目にして生還果たした。 この報道当時極限状態からの生還というイメージ強調されたものの、後に武智自身語ったところによれば、実際に水と食料補給され時点で、船上歩き回る余裕ができるほど体力回復しており、救助駆けつけた側がむしろ驚いていたという。 9月帰郷マスコミ取材攻め会いインタビュー漏らした言葉人間って、なかなか死なないもんだなぁ」が2001年新語・流行語大賞語録賞を受賞した12月漂流生活を綴った著書あきらめたから、生きられた』が出版された。

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