漂流とロシアへの渡航とは? わかりやすく解説

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漂流とロシアへの渡航

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 06:09 UTC 版)

大黒屋光太夫」の記事における「漂流とロシアへの渡航」の解説

1783年1月天明2年12月)、光太夫船員15名と紀州藩から立会いとして派遣され農民1名とともに神昌丸で紀州藩囲米積み伊勢国白子の浦から江戸へ向かい出航するが、駿河付近暴風遭い航路外れる。7か月あまりの漂流ののち、一行日付変更線越えてアリューシャン列島1つであるアムチトカ島漂着先住民アレウト人や、毛皮収穫のために滞在していたロシア人遭遇した。彼らとともに暮らす中で光太夫らはロシア語習得4年後(1787年)、ありあわせ材料造った船によりロシア人とともに島を脱出する。元々はロシア人保護されるような立場だったが、そのロシア人たちを帰還させるためにやって来た船が到着目前難破し漂流民が逆に増えた。そのため、光太夫らが逆に指導的立場立って難破した船の材料などを活用し脱出用の船を作ったその後カムチャツカオホーツクヤクーツク経由して1789年寛政元年)にイルクーツクに至る。道中カムチャツカジャン=バティスト・バルテルミー・ド・レセップス (Barthélemy de Lesseps) (フランス人探検家スエズ運河開削しフェルディナン・ド・レセップス叔父)に会い、後にレセップス著した旅行記には光太夫についての記述がある。イルクーツクでは日本興味抱いていた博物学者キリル・ラクスマン出会う1791年寛政3年)、キリル随行する形でサンクトペテルブルク向かいキリルらの尽力により、ツァールスコエ・セローにてエカチェリーナ2世謁見し、帰国許されるこの際ロシア政府日本との通商目的として、光太夫たちを届け予定でいたため、商人であった光太夫から日本商業についての情報聴取されている。

※この「漂流とロシアへの渡航」の解説は、「大黒屋光太夫」の解説の一部です。
「漂流とロシアへの渡航」を含む「大黒屋光太夫」の記事については、「大黒屋光太夫」の概要を参照ください。

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