沿革・艦歴
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1934年(昭和9年)12月、大日本帝国(以下日本)は第二次ロンドン海軍軍縮条約の予備交渉が不調に終わったことを受けてワシントン海軍軍縮条約から脱退し、列強各国が軍艦の建造を自粛していた海軍休日は終わった。1936年(昭和11年)12月26日、上田宗重海軍艦政本部長が三菱重工業最高幹部を招き、③計画における巨大新型戦艦建造について事前準備を依頼した。1937年(昭和12年)開催の第七〇回帝国議会で予算が承認され、3月29日に計画名「A140-F6」から第一号艦、第二号艦と仮称された(予算詳細は大和を参照)。9月8日、海軍艦政本部から三菱重工業に「A140-F6」が正式発注される。予算見積折衝を経て、1938年(昭和13年)3月29日、第二号艦(武蔵)の建造が始まった。三菱重工業長崎造船所建造の戦艦としては、金剛型戦艦の霧島、伊勢型戦艦の日向、加賀型戦艦の土佐、天城型巡洋戦艦の高雄(八八艦隊未完成艦)に続いて5隻目となるが、土佐や高雄の4万トンから大和型六万五千トンへの飛躍には、船台拡張を含めた技術者の研究と努力が必要だった。 武蔵は設計段階から司令部施設の充実がはかられ、大和で弱点と指摘された副砲塔周辺の防御力も強化された。武蔵の艤装員だった千早正隆によれば最上型重巡洋艦から転用された副砲の装甲の薄さは特に懸念され、有馬馨艤装員長(初代艦長)と共に副砲の撤去を訴えている。艦政本部の清水技術中将が山本五十六連合艦隊司令長官に副砲の防御力問題について相談すると、山本は「副砲を撤去して蓋をすれば良い」と述べた。これについて牧野茂(大和型戦艦設計陣)は山本と清水の会談は知っていたが内容についてまでは知らず「検討に値する提案なのに惜しい事をした」と千早に語っている。また司令部施設の充実について、千早は「暴論、定見を欠いた」と評している。1942年(昭和17年)1月、連合艦隊司令部から拡張要求があった時点で武蔵は大和と同じ内部構造だったが、内装の変更に駆逐艦1隻分の工事費増加、3ヶ月の竣工遅延が生じた。宇垣纏連合艦隊参謀長も「大和に比して、当司令部の意見に従ひ改善せられたる点、相当多し」と記している。 姉妹艦の大和や「110号艦(信濃)」同様本艦の建造は極秘とされ、艤装員(建造中の艦乗組員)は長崎造船所を秘匿した「有馬事務所」に勤務するよう命じられた。機密に対する警戒は厳重で、有馬馨艤装員長ですら、腕章を忘れると検問を通過できなかった。外部に対しては、さまざまな方法で武蔵を隠す手段がとられた。船台の周囲には漁具(魚網等)に使う棕櫚(しゅろ)を用いた、すだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、漁業業者が抗議。警察が悪質な買い占め事件として捜査を行ったとされる。また、棕櫚の目隠しが船台に張り巡らされると、付近の住民らは「ただならぬことが造船所で起きている」と噂し、建造中の船体を指して「オバケ」「魔物」と呼んでいたという。 また、対岸にはアメリカ・イギリスの領事館があったため、目隠しのための遮蔽用倉庫(長崎市営常盤町倉庫)を建造するなど、建造中の艦の様子が窺い知れないような対策を施した。長崎住民に対する監視も厳しく行われ、造船所を見つめていると即座に叱責を受けて体罰を受けたり、逮捕されることもあった。造船所を見渡す高台にあったグラバー邸や香港上海銀行長崎支店を三菱重工業が買い取るということも行われた。 また、機密保持のため、海軍機は1940年3月頃から、陸軍機は1940年4月から長崎市上空の飛行を禁止された。 一番艦の大和よりも遅れて起工された武蔵には、大和建造中に判明した不具合を改善して反映させることができた。これらの改善の中には、第一艦橋左右の大型スポンソンなど、のちに大和のほうに追加されたものもある。しかし一方で、ドック内で建造された大和と異なり、船台上で建造された武蔵は、「船台から海面に下ろし進水させる」という余分な工程を抱えていた。重量軽減のため、舷側や主要防御区画の装甲を進水後に取り付けたほどである。更に工事の途中で太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった為、完成予定を1942年(昭和17年)12月から同年6月に繰り上げる命令が下された。これらの経緯は吉村昭の『戦艦武蔵』および牧野茂/古賀繁一監修『戦艦武蔵建造記録』(アテネ書房)に詳しい。 厳重な機密保持に加えて、新人製図工による図面紛失事件や、熟練工でも困難な進水台の作成など、建造には常に障害が相次いだ。進水時には船体が外部に露見してしまうため、当日(1940年(昭和15年)11月1日)を「防空演習」として付近住民の外出を禁じ、付近一帯に憲兵・警察署員ら600名、佐世保鎮守府海兵団隊員1200名などを配置した。このような厳重な警戒態勢の中で、伏見宮博恭王元帥(昭和天皇名代)、及川古志郎海相、豊田副武艦政本部長らが列席のもと、進水式は挙行された。皇族の伏見宮博恭王でさえ、平服で式場に入り、その後軍服に着替えるという徹底ぶりであった。 進水時に進水台を潤滑にする、獣脂の調製・製造にも多大な労力が必要だった。錨鎖をあらかじめ減速用の重りとして付け、長崎造船所第二船台から狭い長崎港内に滑り込んだ武蔵の船体は、制動までに44mよけいにかかったが、予定どおり艦尾をやや左に振って停止した。無事に進水し、関係者は涙が止まらなかったという。進水時、周辺の海岸に予想外の高波が発生した。周辺河川では水位が一気に30センチ上昇したところもあり、船台対岸の浪の平地区の民家では床上浸水を生じ、畳を汚損したとの被害報告も確認されている。進水式は映像として記録されたが、終戦時に焼却された。同日附をもって正式に『武蔵』と命名。なお軍務局の寺崎隆治(海兵50期)や、及川大臣の秘書官として進水式に参加した福地誠夫によれば、武蔵の存在を排水量4万トン程度の戦艦として世界に公表する予定であったが、豊田艦政本部長の反対により急遽中止された。 進水後は日本郵船の大型貨客船春日丸(後に空母大鷹に改造)に隠されながら移動し、向島艤装岸壁で工事が進められた。艦中央部右舷に設置された司令部施設に関しては、大和を建造中の呉工廠が内装への自信を持てず、豪華客船建造の実績がある長崎三菱造船所に依頼して、武蔵と全く同じ調度品を揃えて大和に搭載した。それでも武蔵の方が調度品が良かったという証言がある。真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発すると、長崎の住民も武蔵のことを公然と話題に出すようになっていった。また武蔵進水後も第一船台は簾で隠されており、市民は「武蔵がもう1隻いる」と噂していた。造船所で発生した夜間火災で簾ごしに巨大艦の姿が浮かびあがり人々を驚かせたが、これは第二船台で建造中の空母隼鷹(橿原丸)であった。また、当時の武蔵の甲板上を甲板士官が自転車で移動していたという逸話が残っている。スクリューの取り付け等の艤装は、佐世保工廠に本艦の為に整備された第7ドックで実施された。その後、三菱重工業長崎造船所に回航、艤装が続けられるも、副砲塔のバーベット構造の防御力強化のため4基とも取り外しの上で呉海軍工廠に回航(副砲塔は別途運送船で回航)され、呉工廠で完工する[要出典]。 艦内には「武蔵神社」があり、御神体は武蔵国氷川神社から分霊したものだった。位置は上甲板右舷、長官室・艦長室前の通路上である。竣工式に氷川神社の神主が招かれており、また伊勢神宮、長崎諏訪神社の系列社もあったとされる。
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