沿革・艦歴とは? わかりやすく解説

沿革・艦歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 15:58 UTC 版)

武蔵 (戦艦)」の記事における「沿革・艦歴」の解説

1934年昭和9年12月大日本帝国(以下日本)は第二次ロンドン海軍軍縮条約予備交渉不調に終わったことを受けてワシントン海軍軍縮条約から脱退し列強各国軍艦建造自粛していた海軍休日終わった1936年昭和11年12月26日上田宗重海軍艦政本部長が三菱重工業最高幹部招き③計画における巨大新型戦艦建造について事前準備依頼した1937年昭和12年開催第七〇回帝国議会予算承認され3月29日計画名「A140-F6」から第一号艦、第二号艦と仮称された(予算詳細大和参照)。9月8日海軍艦政本部から三菱重工業に「A140-F6」が正式発注される。予算見積折衝経て1938年昭和13年3月29日第二号艦(武蔵)の建造始まった三菱重工業長崎造船所建造戦艦としては、金剛型戦艦霧島伊勢型戦艦日向加賀型戦艦土佐天城型巡洋戦艦高雄八八艦隊未完成艦)に続いて5隻目となるが、土佐高雄の4トンから大和型五千トンへの飛躍には、船台拡張含めた技術者研究努力必要だった武蔵設計段階から司令部施設充実はかられ大和弱点指摘され副砲周辺防御力強化された。武蔵艤装員だった千早正隆によれば最上型重巡洋艦から転用された副砲装甲薄さは特に懸念され有馬馨艤装員長初代艦長と共に副砲撤去訴えている。艦政本部清水技術中将山本五十六連合艦隊司令長官副砲防御力問題について相談すると、山本は「副砲撤去してをすれば良い」と述べた。これについて牧野茂大和型戦艦設計陣)は山本清水会談知っていたが内容についてまでは知らず検討に値する提案なのに惜しい事をした」と千早語っている。また司令部施設充実について、千早は「暴論定見欠いた」と評している。1942年昭和17年1月連合艦隊司令部から拡張要求があった時点武蔵大和と同じ内部構造だったが、内装の変更駆逐艦1隻分の工事費増加、3ヶ月竣工遅延生じた宇垣纏連合艦隊参謀長も「大和比して、当司令部意見に従ひ改善せられたる点、相当多し」と記している。 姉妹艦大和や「110号艦(信濃)」同様本艦建造極秘とされ、艤装員(建造中の艦乗組員)は長崎造船所秘匿した「有馬事務所」に勤務するよう命じられた。機密対す警戒は厳重で、有馬馨艤装員長ですら、腕章忘れると検問通過できなかった。外部に対しては、さまざまな方法武蔵を隠す手段がとられた。船台周囲には漁具魚網等)に使う棕櫚(しゅろ)を用いた、すだれ状の目隠し全面張り巡らされた。全国から膨大な量の棕櫚極秘買い占めたために市場での著し欠乏価格の高騰招き漁業業者抗議警察悪質な買い占め事件として捜査行ったとされるまた、棕櫚目隠し船台張り巡らされると、付近住民らは「ただならぬことが造船所起きている」と噂し建造中の船体指してオバケ」「魔物」と呼んでいたという。 また、対岸にはアメリカ・イギリス領事館があったため、目隠しのための遮蔽倉庫長崎市常盤町倉庫)を建造するなど、建造中の艦の様子窺い知れないような対策施した長崎住民対す監視厳しく行われ造船所を見つめていると即座に叱責受けて体罰受けたり逮捕されることもあった。造船所を見渡す高台にあったグラバー邸香港上海銀行長崎支店三菱重工業買い取るということ行われたまた、機密保持のため、海軍機は1940年3月頃から、陸軍機は1940年4月から長崎市上空飛行禁止された。 一番艦の大和よりも遅れて起工された武蔵には、大和建造中に判明した不具合改善して反映させることができた。これらの改善中には第一艦橋左右大型スポンソンなど、のちに大和のほうに追加されたものもある。しかし一方でドック内で建造され大和異なり船台上で建造され武蔵は、「船台から海面下ろし進水させる」という余分な工程抱えていた。重量軽減のため、舷側や主要防御区画装甲進水後に取り付けたほどである。更に工事途中で太平洋戦争大東亜戦争)が始まった為、完成予定1942年昭和17年12月から同年6月繰り上げる命令下された。これらの経緯吉村昭の『戦艦武蔵』および牧野茂古賀繁一監修戦艦武蔵建造記録』(アテネ書房)に詳しい。 厳重な機密保持加えて新人製図工による図面紛失事件や、熟練工でも困難な進水台作成など、建造には常に障害相次いだ進水時には船体外部露見ししまうため、当日1940年昭和15年11月1日)を「防空演習」として付近住民外出禁じ付近一帯憲兵警察署員600名、佐世保鎮守府海兵団隊員1200名などを配置したこのような厳重な警戒態勢の中で、伏見宮博恭王元帥昭和天皇名代)、及川古志郎海相豊田副武艦政本部長らが列席のもと、進水式挙行された。皇族伏見宮博恭王でさえ、平服式場入りその後軍服着替えるという徹底ぶりであった進水時に進水台潤滑にする、獣脂調製製造にも多大な労力必要だった錨鎖をあらかじめ減速用の重りとして付け長崎造船所第二船台から狭い長崎港内に滑り込んだ武蔵船体は、制動までに44mよけいにかかったが、予定どおり艦尾をやや左に振って停止した無事に進水し関係者は涙が止まらなかったという。進水時、周辺海岸予想外高波発生した周辺河川では水位一気30センチ上昇したところもあり、船台対岸の浪の平地区民家では床上浸水生じ、畳を汚損したとの被害報告確認されている。進水式映像として記録されたが、終戦時焼却された。同日をもって正式に武蔵』と命名。なお軍務局寺崎隆治(海兵50期)や、及川大臣秘書官として進水式参加した福地誠夫によれば武蔵存在排水量4トン程度戦艦として世界公表する予定であったが、豊田艦政本部長反対により急遽中止された。 進水後は日本郵船大型貨客船春日丸(後に空母大鷹改造)に隠されながら移動し向島艤装岸壁工事進められた。艦中央部右舷設置され司令部施設に関しては、大和建造中の呉工廠内装への自信持てず豪華客船建造実績がある長崎三菱造船所依頼して武蔵と全く同じ調度品揃えて大和搭載した。それでも武蔵の方が調度品良かったという証言がある。真珠湾攻撃により太平洋戦争勃発すると、長崎住民武蔵のことを公然と話題に出すようになっていった。また武蔵進水後も第一船台は簾で隠されており、市民は「武蔵がもう1隻いる」と噂していた。造船所発生した夜間火災で簾ごしに巨大艦の姿が浮かびあがり人々驚かせたが、これは第二船台建造中の空母隼鷹橿原丸であったまた、当時武蔵甲板上を甲板士官自転車移動していたという逸話残っている。スクリュー取り付け等の艤装は、佐世保工廠本艦為に整備された第7ドック実施された。その後三菱重工業長崎造船所回航艤装続けられるも、副砲塔のバーベット構造防御力強化のため4基とも取り外しの上呉海軍工廠回航副砲塔は別途運送船で回航)され、呉工廠完工する[要出典]。 艦内には「武蔵神社」があり、御神体武蔵国氷川神社から分霊したものだった。位置上甲板右舷長官室・艦長室前の通路上である。竣工式氷川神社の神主招かれており、また伊勢神宮長崎諏訪神社系列社もあったとされる

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