沿革・職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 05:19 UTC 版)
内匠寮の起源は、神亀5年(728年)聖武天皇の時に新設されたのが始まりである。令外官であったものの、当初から四等官が設置されていた。 そのルーツは天武天皇の時代にあった飛鳥池工房のような天皇家の家政機関としての官営工房が律令国家の整備とともに内匠寮や鋳銭司などの技術系官司に発展したと考えられている。内匠寮は唐代の官営工房である少府監(しょうふげん)の模倣と考えられ、別称も「少府」という。本寮の特色として日本古来の伴部・品部・雑戸を使わず様々な職人(雑色作手)によって運営されている点である。これは日本の工業の起点といえる。 職掌は天皇家の調度品や儀式用具などの製作である。当初は内匠頭に四位の皇親が任じられるなど調度製作などの中心的な役目を担っていたが、奈良時代後期には勅旨省や造東大寺司に機能の一部を奪われて内匠頭も五位相当に低下する(ただし、相次ぐ皇親の粛清による適任者不足も背景にあったと考えられている)。だが、延暦元年(782年)に勅旨省が、同8年(789年)に造東大寺司が解体されて大幅に機能を縮小されると、内匠寮の整備が進められるようになり、また宝亀5年(774年)に大蔵省典鋳司を、大同3年(808年)には中務省画工司と大蔵省漆部司を合併して規模を拡大した。また、大同3年の再編で鍛冶司が木工寮に合併されたのに合わせて鍛冶司の業務の一部が移管され、『延喜式』には公印鋳造の業務が職掌に規定されている。平安時代前期から中期には官営工房の元締めとして機能して、太政官や蔵人所の命令下で調度製作の業務にあたった。 平安時代中期を過ぎると次第に職掌を作物所(つくもどころ)・画所(えどころ)や木工寮・修理職に奪われていくが、これは大規模儀式の減少や朝廷財政の衰退によって、公事や儀式における行事所制や別当制が導入された結果、内匠寮の機能が縮小されつつ他の官司との機能分担が行われるようになったことによるものであり、それは必ずしも内匠寮の形骸化を意味するものではなく、12世紀には右大臣が内匠寮別当を兼務し、その下に年預が任命されるなど、以後も朝廷運営に不可欠な官司として存続しつづけていた。
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沿革・職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:10 UTC 版)
縫殿寮は宮中用衣服製造の監督と後宮女官の人事を主な職掌としていた。前身は内蔵衣縫造(きぬぬいのみやつこ)とされる。「内蔵」は令制以前の皇室の倉庫であり、また後宮関係事務も皇室と関わりが深い。よってこの機関は国家の統治機関としての役割よりも皇室の家政機関としての役割が大きかったと考えられる。 令制初期の奈良時代には衣服製造は後宮の縫司に行わせていたが、平安時代になり大同3年(808年)に大蔵省縫部司を併合すると衣服生産も縫殿寮自ら行うようになった。縫部司の前身は大蔵衣縫造(おおくらのきぬぬいのみやつこ)で官人の衣服製造が主な職掌であったため併せて生産するようになり家政機関的性格が薄れた。さらに11世紀後半になると天皇の衣服を生産する御服所が内蔵寮頭邸に創設され次いで貴族や院のところにも御服所が設置されるに及び縫殿寮はほぼ有名無実と化した。
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沿革・職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 03:47 UTC 版)
天皇・宮中の敷物や調度のことを担当し、具体的には供御(食事)の牀(とこ)・狭畳(たたみ)・席(むしろ)・薦(こも)・簀(す)・簾(すだれ)・苫(とま)などを製造したり、管理したりし、それらを宮中に設営することを職掌としていた。『養老令』では、正(かみ)1名、佑(すけ)1名、令史(さかん)1名。そのほか、伴部としての掃部30名、使部10名、直丁1名、駆使丁40名からなると規定されている。 弘仁11年(820年)閏1月、職掌の似ている大蔵省掃部司と統合され、宮内省掃部寮となった。
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沿革・職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 03:41 UTC 版)
掃部寮は宮中行事に際して設営を行い、また殿中の清掃を行う。そのため宮中の施設管理・維持を行う主殿寮と職掌が重なるところがあった。伴部の掃部が付属して清掃・設営にあたった。また大量の人員を必要とする官司に配属される駆使丁が80人配属され実務にあたっていた。 掃部寮は弘仁11年(820年)に行政改革の一環として職掌の同じ大蔵省掃部司と宮内省内掃部司が統合されて成立した。
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