沿革 築城
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築城には下記の通り諸説ある。 千葉氏の一族、椎名胤仲が1325年頃の元応から元徳年間に椎津に居して椎津三郎と称して居城「千葉大系図」 建武2年(1335年)三浦高継が椎津を所領し、応仁年間(1467-69年)に三浦定勝が築城 「三浦高継寄進状」(相模鶴岡八幡宮文書) 「寄進 鶴岡八幡宮 上総国真野郡椎津郷内田地壱町事 右、且為天長地久、現世安穏、子孫繁昌、至于子々孫々、於此料田者、不可到其煩、仍寄進状如件、建武二年十月廿三日 三浦介平高継」 明応年間(1492-1501年)に甲斐武田氏の一族、房総武田氏(真里谷氏)が上総の北方の備えとして築城 いずれにしても、康正2年(1456年)に甲斐武田氏の一族、武田信長(房総武田氏・真里谷氏の祖)が上総に上陸し、木更津市の真里谷城に本拠を構えてから、上総一体に勢力を拡大し、椎津も武田氏の勢力下に入った。
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沿革 築城
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「久保田城 (上総国)」の記事における「沿革 築城」の解説
『日本地理志料』巻18には、久保田城は、里見義成(里見成義)の築城によると記されているが、この城郭は南西側(蔵波方面)が正面で、浜宿川が正面水堀の役目を果たし、北東側(椎津城方面)が背面(搦手)であることから、城郭の向きから里見氏に備えた椎津城の出城にあたり、袖ケ浦市蔵波の蔵波城と同様に武田信政(真里谷信政)が築城したものと見られる。 『上総町村誌』には、「久保田村西方ノ丘上ニ在リ俚俗城山ト云フ。・・・伝ヘテ里見義成ノ城所トナシ、其子義通之ニ居ル。又笠原新六郎之ヲ守ル。後北条氏ノ攻ムル所トナリ、笠原氏此ニ死ス。而テ北条氏ノ臣某ノ居ル所トナリ、天正十八年豊臣氏ノタメニ城陥ル」とある。 しかし、『君津郡誌』では、里見記や房総里見軍記等の諸書の記述から、「久保田城の里見義成の初めて築きしにあらざるを知るに足る。」としている。また、松田尾張守の子、笠原新六郎は北条方の将であり、上総町村誌の内容は「誤り伝えたる」としている。
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