水上・水中特攻の研究とは? わかりやすく解説

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水上・水中特攻の研究

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:16 UTC 版)

特別攻撃隊」の記事における「水上・水中特攻の研究」の解説

連合艦隊主席参謀としてモーターボートによる特攻構想(後の震洋)を軍令部語っていた黒島亀人軍令部第二部長に就任すると、1943年8月6日戦備考査部会議において突飛意表外方策必死必殺の戦を提案し一例として戦闘機による衝突撃の戦法挙げた1943年8月11日には第三段作戦応ず戦備方針をめぐる会議必死必殺戦法とあいまつ不敗戦備確立主張した同時期に第一線からも、戦局挽回する秘密兵器として同時多発的に人間魚雷構想なされたその中で甲標的搭乗員黒木博司大尉は、甲標的魚雷攻撃するではなく敵艦体当たりしそのまま自爆すれば効果大きいと考え必死戦法さえ採用せられ、これを継ぎゆくものさえあれば、たとえ明日殉職するとも更に遺憾なし」と自らその自爆攻撃志願するつもりであったが、後に海軍潜水学校卒業し、同じ呉市倉橋島大浦崎の甲標的基地訓練所(P基地)に着任した仁科関夫中尉と同じ部屋同居することになると、仁科黒木考え同調し共に人間魚雷実現向けて研究を行うこととなった人間魚雷構想した内の1人駆逐艦桐の水三谷与司夫大尉は、卓越した性能持ちながら戦局の悪化活躍機会失っていた「九三式三型魚雷酸素魚雷)」の体当たり兵器への改造上層部血書嘆願していたが、黒木仁科研究甲標的自爆から、九三式三型魚雷改造変更し鈴川技術大尉協力得て設計終えると、その構想血書軍令部上申したが、この兵器あまりにも非道考えた軍令部黒木仁科の上申を却下した。 一旦は人間魚雷の上申を却下した軍令部であったが、1944年2月17日トラック島空襲大損害を被るなど、戦局の悪化歯止めがかからなくなったことを重くみて、1944年2月26日初の特攻兵器となる「人間魚雷」の試作決定した海軍組織的な特攻航空特攻先駆けて水中特攻から正式な計画開始されたが、ここから組織的特攻動き出した人間魚雷試作決定後の1944年4月4日軍令部第二部長の黒島より提案された「作戦上急速実現要望する兵力」の中には体当たり戦闘機装甲爆破艇(震洋)、1名速力50航続4万米の大威力魚雷回天)という特攻兵器含まれており、軍令部はこれを検討後、他の兵器とともに装甲爆破艇」「大威力魚雷」の緊急実験海軍省要望し海軍省海軍艦政本部海軍航空本部仮名称を付して担当主務定め特殊緊急実験開始した仮名称は番号マル付けたもので、4番目の装甲爆破艇はマルヨン、6番目の大威力魚雷はマルロクと呼ばれた1944年4月初めに装甲爆破マルヨン艦政本部第4課で開発開始されると、1944年5月27日には試作艇による試験が可能となった開発速度上げるためエンジントラックエンジン転用され、船体ベニヤ製とし軽量化図った試験により判明した問題点を修正し1944年8月28日新兵器として採用され震洋」と名付けられた。制式採用時点では震洋には操舵輪固定する装置付いており、搭乗員敵艦狙い定めた後は舵を固定して海に飛び込んで退避することが可能であった。 マルロクの大威力魚雷は既に黒島提言前から開発開始されていたが、開発決定前に海軍潜水艦部長三輪茂義中将が「搭乗員命中500m前に脱出できない限りは、この兵器について検討なされないであろう。」と苦言呈した通り海軍中央部開発許可条件脱出装置設置であった。しかし、1944年7月25日最初航走実験行ったマルロクの試作型には特別な脱出装置装着されておらず、脱出可能なハッチ操縦席下部設置されているだけであった訓練中の事故操縦席下部ハッチ開けて脱出した例はあったが、実戦では脱出しても1,550kgの炸薬爆発生き残れ望みはなく、下部ハッチ脱出使用した例はなかった。特別な脱出装置設置できなかったのは、九三式三型魚雷利用して作ったマルロクを更に大規模に改造しなければいけないからであった試作型テスト成功したマルロクは8月海軍特攻部長就任した大森仙太郎中将により幕末軍艦回天丸より「回天」と命名された。 マリアナ沖海戦敗北を受け、1944年6月25日元帥会議が行われた。その席で永野修身元帥が「状況大至急かつ最小限犠牲処置する必要があるなかでも航空機活動がもっとも必要であり、陸海軍統一して、どこでも敵を破ることが肝要である。」と発言した。これは既に陸海軍ともに特攻開始すべく特攻兵器開発行っており、この元帥会議その方針を確認するものであり、航空特攻開始の意を含んでいたと見る者もいる。それを受けて伏見宮博恭王が「陸海軍とも、なにか特殊な兵器考え、これを用いて戦争をしなければならない戦局このように困難となった以上、航空機軍艦小舟艇とも特殊なもの考案し迅速に使用する要する」と発言し日清・日露戦争時の例も出し特殊兵器開発促し陸軍参謀本部総長東條英機「風船爆弾」と「対戦車挺身爆雷」他2〜3の新兵器開発中答え海軍軍令部総長嶋田繁太郎も2〜3考案中であると答えた。これは特攻兵器採用することの公式な承認意味し、この具体的に説明しなかった2〜3の兵器陸海軍とも特攻兵器のことであるとする意見もある。 元帥会議後、軍令部総長兼海大臣嶋田繁太郎海軍省奇襲兵器促進班を設け実行委員長定めるように指示する1944年7月1日海軍水雷学校校長大森仙太郎海軍特攻部長発令される(正式就任9月13日)。大森人選水上・水中特攻重視して人選であり、大森全権自分委ねてどの部署自分指示に従うようにするという条件出して引き受けた1944年9月13日海軍省特攻部が発足特攻兵器研究・調査企画掌握し実行促進を行う。 1944年7月10日特攻兵器回天部隊として第一特別基地隊の編成が行われる。1944年7月21日嶋田連合艦隊司令長官豊田副武に対して特殊奇襲兵器(「回天」)の作戦採用含まれた「大海四三一号」を発令した水中特攻のみで航空では夜間の奇襲作戦採用されている)。回天量産8月開始され同時期に搭乗員募集開始された。海軍兵学校卒の士官については、一部志願者除き海軍人事部からの辞令により、通常の転勤として隊員となったが、予備士官海軍飛行予科練習生に対しては「この兵器回天)は生還期するという考え抜きにして作られたものであるから、後顧の憂いなきか否かをよく考えるように」という特攻兵器であることを説明の上志願募り志願者募集人員大幅に上回った例え甲種飛行予科練習生13期生では2,000名の卒業生の内熱望94%、望が5%、保留1%熱望・望の約1,900名以上の中から100名が選抜された。1944年9月1日山口県大津島回天訓練所開所されたが、8月中に量産型100基の生産予定していたにも関わらず生産捗っておらず、訓練所配備され回天試作型の3基だけであった試作型試験結果改善される予定であった欠点そのままだったので、回天発案者黒木訓練中の事故殉職するなど、搭乗訓練進まず回天実戦への投入時期遅れていくこととなった回天比較する構造簡単な震洋製造順調に進み制式採用前の7月中には既に300隻の完成見込まれており、内50隻が訓練用として水雷学校のある横須賀田浦送られ7月中には震洋訓練開始された。震洋搭乗員志願制とされ、司令官大森が「決死志願者が集まるか」と心配していたが、募集をかけると予想上の志願者集まり安心したという。訓練田浦の沖長浦湾行われた横須賀港海軍砲術学校沖に完成したばかりの空母信濃係留されると、教育中の震洋隊は巨大な信濃訓練標的代わりにして、中にはあやうく激突しそうになった艇もあった。田浦震洋部隊編成行われた。1個震洋隊は55隻の震洋配備され、他に整備要員事務を行う主計兵、通信兵衛生兵など約195名で編成されていたが、これは陸軍の同じ特攻艇のマルレの1個戦隊よりは少な人数である。後に長崎県川棚町臨時魚雷艇訓練所震洋訓練が行われるようになった編成され震洋隊の内5隊は小笠原諸島送られたが、次にアメリカ軍侵攻してくる可能性が高いと判断されフィリピンには9隊が送られた。しかし、海上輸送中に積載していた輸送艦アメリカ軍潜水艦餌食となり大損害を被り、戦う前に戦力半減してしまった。

※この「水上・水中特攻の研究」の解説は、「特別攻撃隊」の解説の一部です。
「水上・水中特攻の研究」を含む「特別攻撃隊」の記事については、「特別攻撃隊」の概要を参照ください。

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