昭和、青年時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 08:57 UTC 版)
在学中、昭和2年(1927年)第14回二科展で《新宮風景》が入選。 昭和3年(1928年)に同学院卒業と同時に、3月横浜港からフランス船、ポルトス号にて渡仏、4月パリ到着。留学した。在仏中の有島生馬の紹介で、藤田嗣治と、海老原喜之助に会う。藤田宅のある小説家や、絵描きのいる文化人横丁モンパルナスにアパートを借りて、作品制作をしながら、小型乗用車を乗り回しヨーロッパ各地(ルーアン経由でノルマンディー、エトルタ等)を旅した。エトルスク美術(英語版)(エトルリア美術)などの原始美術や、ビザンティン美術など初期キリスト教美術を直に触れた事も以後の作品制作に影響を与えた。そしてモンドリアンの幾何学抽象やアンリ・マティス、パブロ・ピカソなど前衛美術に多大なる印象を受け、具象風景作品から抽象芸術に移行、アンデパンダン展に作品を出品。 留学生仲間に添田知、津田(大津田)正豊、津田正周、長谷川三郎、矢橋六郎、菅野廉がいる。昭和7年(1932年)6月、マルセイユより靖国丸で帰国。7月到着。 昭和8年(1933年)2月、文化学院の同期で女流画家協会の結成当初の会員であった小川孝子と結婚する。 昭和9年(1934年)会員待遇にするからと独立美術協会の里見勝蔵に誘われて二科会を出品を辞め、第4回独立美術協会展に出品(その後、同年独立不出品同盟に名を連ねる。〈大津田正豊、長谷川三郎〉独立美術との絶縁と独自の美術運動を起こす旨を声明。)山口薫、矢橋六郎など学生のころからの友人や、大津田正豊、瑛九、浜口陽三、長谷川三郎、シャルル・ユーグらと新時代洋画展を結成。昭和12年(1932年)自由美術家協会創設。(昭和15年に美術創作家協会に改称。 昭和13年(1938年)母校文化学院の講師となり以後平成9年(1997年)まで勤める。 昭和14年(1939年)外山卯三郎らによって新設された美術工芸学院の教授になる。 昭和17年(1942年)10月、中国新京に移り住んでいた矢橋六郎を山口薫らと訪ね、美術創作家協会巡回展開催(新京・三中井百貨店ギャラリー)。 昭和18年(1943年)、西村伊作が反政府思想や天皇を批判、自由思想によって不敬罪で拘禁されたため、日本政府によって文化学院強制閉鎖。 昭和20年(1945年)敗戦を自宅迎える。文化学院再開、復職する。 昭和21年(1946年)日本美術会の結成に参加。 昭和22年(1947年)には植村鷹千代と江川和彦、瀧口修造、阿部展也、古沢岩美、小松義雄、岡本太郎、北脇昇、福沢一郎らと日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加。 昭和24年(1949年)東京教育大学教育学部芸術学科の非常勤講師になる。同年第一回日本アンデパンダン展(日本美術会の「日本アンデパンダン展」と同名のために問題になり、読売アンデパンダン展と改名)に初出品。同年美術の職能団体「日本美術家連盟」発足監事となる。 昭和26年(1950年)には、山口薫、矢橋六郎、中村真、植木茂、小松義雄、吾妻治郎、荒井龍雄、小川孝子とともにモダンアート協会。長谷川三郎、西田信一、脇田和、川端実、山口薫、等と共にエスプリ会(1952年)。長谷川三郎、植木茂、恩地孝四郎、川口軌外、末松正樹、西田信一、山口長男、山口正城、吉原治良、瀧口修造、植村鷹千代らと共に日本アブストラクトアートクラブ、国際アートクラブ日本支部(1953年)などの創立に加わる。 昭和29年(1954年)、武蔵野美術大学教授に就任。 昭和30年(1955年)、日本国際美術展で佳作賞 昭和35年(1960年)イイノホール(飯野ビルディング)に石壁彫刻と寄木壁画の大作を作成。 昭和37年(1962年)現代日本美術展で「黒い線」が最優秀賞を受賞。東京国際版画ビエンナーレ展で文部大臣賞を受賞。 昭和41年(1966年)から昭和42年(1967年)まで日本美術家連盟理事長も務めた。同年、(1966年)和歌山県新宮市民会館の玄関ホールの壁画「熊野」を制作。高さ3メートル、幅18メートルの大きさで、熊野三山、八咫烏、浜木綿などを描いている 。 昭和41年(1966年)国際芸術見本市参加 昭和42年(1967年)村井正誠・小川孝子二人展 以降毎年開催(~1998年) 昭和45年(1970年)新宮市名誉市民の称号を贈られる、和歌山県文化賞受賞。和歌山県民文化会館のステンドグラスをデザインした。昭和46年(1971年)和歌山県で開催された第26回国体の参加賞、記念賞をデザイン。昭和50年(1975年)武蔵野美術大学造形学部油絵科教授を辞す、武蔵野美術大学より武蔵野美術大学名誉教授の称号を贈られる。 昭和54年(1979年)和歌山県立近代美術館にて個展開催。同年神奈川県民ホールギャラリー(神奈川県立県民ホール)にて個展開催。和歌山市民会館大ホールの緞帳のデザインを担当。 昭和59年(1984年)鎌倉画廊にて個展「水彩による表現”PART 2」開催以後定期的に同画廊にて個展を開催。 昭和60年(1985年)埼玉県庄和町(現在の春日部市)文化学院芸術専門学校設立に西村久二(西村伊作の長男)や大山美信(文化学院の教え子)らとともに参加。開校当初から講師を勤める。同年 勲四等旭日小綬章授与される。 昭和61年(1986年)、和歌山県丹鶴城址に、文化学院の学長の与謝野鉄幹「与謝野寬の歌碑」を造形(揮毫、石造)。短歌「高く立ち 秋の熊野の海を見て 誰そ涙すや 城の夕べに」を刻んでいる。 昭和62年(1987年)、文化学院出身の天童大人のプロデュースしたグループ展「聲を織るもののふたち展」出品。(ギャラリーミカワ) (他に砂澤ビッキ、中川幸夫、渡辺豊重出品)。 昭和63年(1988年)文化学院芸術専門学校美術科科長就任。
※この「昭和、青年時代」の解説は、「村井正誠」の解説の一部です。
「昭和、青年時代」を含む「村井正誠」の記事については、「村井正誠」の概要を参照ください。
- 昭和、青年時代のページへのリンク