昭和製鋼所の生産力
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1931年から1932年の満州国内の製鉄の総生産量は約100万トンで、およそその半分は昭和製鋼所で精製されていた。1941年の資料によると、昭和製鋼所の生産力は「175万トンの製鉄と100万トンの製鋼が可能」とある。1942年には全体で360万トンの生産が可能になって、世界的にも有力な製鉄所に発展していた。 この生産力は、当時日本国内の製鉄総生産量の大半を占めていた日本製鐵八幡製鉄所と比べても遜色はなく、当時の日本の勢力圏内では八幡製鉄所に続く第2位の生産力を誇っていた。 また生産力の向上に伴い、昭和製鋼所の製鉄可能量は鞍山地区の産鉄量を上回っていく。これに伴って昭和製鋼所のビジネスモデルは、従来の「鞍山地区の鉄を製鉄して出荷する」から、「中国東北部(河北・朝鮮をも含む)の鉄を製鉄して出荷する」に変化していく。つまりこの過程で昭和製鋼所は、「特定都市の一企業」から「その地方を代表する企業」に成長していったといえる。 但し、増産の要求を満たし続ける事を可能にした原動力として、現地の満州人労働者とともに日本人労働者の過酷な労働実態もその根底にあった。しかし、雇用の安定とその収入から同地の他産業と比較して現地労働者の離職が少なく、商業などを目的とする人々や労働者などが同地周辺に流入したことから市街地は繁栄した。
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