於義伊とは? わかりやすく解説

結城秀康

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/11 14:12 UTC 版)

結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名越前国北ノ庄藩(福井藩)初代藩主。越前松平家の祖。結城氏第18代当主。


注釈

  1. ^ 越前福井松平家譜では4月8日。
  2. ^ 天正16年に後陽成天皇に献じた織田信兼等23名起請文の署名[1]
  3. ^ 本多重次嫡男。後に従兄弟の源四郎(本多富正)と交替。
  4. ^ 秀朝の諱が用いられた最初の文書は慶長3年(1598年)の黒印状(孝顕寺文書6号)[23]であり、それ以前に秀康の諱で署名されたものは文禄2年5月に発給された文書であり、この期間のいずれかの時点で変更したとみられる。秀朝の名は養父・晴朝から一字与えられて名乗ったものとみられ、黒田基樹は秀康への再改名は秀吉の死を契機としたものと見ている[2]
  5. ^ 戦後の論功行賞にて、徳川一門を含めた諸侯の中で唯一50万石を超える加封を受けている。ちなみに第2位は関ヶ原の戦場に在陣した異母弟の松平忠吉であり、42万石増の尾張清洲52万石に移封されている。
  6. ^ 秀康の名字を用いた最後の文書は慶長5年9月の羽越州様人々御中宛書状であり、羽(羽柴)三河守秀康と署名している[31]
  7. ^ 市村は、秀康が松平復姓の希望を持っていたものの養父・晴朝の手前実現できなかったとしている[32]
  8. ^ 家康の子のうち松平姓を称した松平忠吉は東条松平家松平忠輝長沢松平家の名跡を継いでいる。

出典

  1. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 群書類従 第47-48冊(巻40-41)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559080/77 国立国会図書館デジタルコレクション NDLJP:000003281940
  2. ^ a b c d e 黒田 1995, p. 173.
  3. ^ a b c 黒田 1995, p. 187.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 橋本 1966
  5. ^ a b c d e f g h i 『福井県史』通史編|通史編3 近世一|第二章 藩制の成立|第一節 福井藩と小浜藩の成立|二 福井藩の成立|結城秀康”. 福井県文書館 (1994年). 2022年12月26日閲覧。
  6. ^ 中村家住宅”. 浜松市. 2022年12月26日閲覧。
  7. ^ 国書刊行会 編「柳営婦女伝系」『柳営婦女伝叢』国書刊行会〈国書刊行会刊行書〉、1917年、79頁。NDLJP:1879210/47 
  8. ^ 小楠 2006, p. 21-24.
  9. ^ a b c 武藤正典 1965, p. 11.
  10. ^ 武藤正典 1965, p. 11-12.
  11. ^ a b c d 黒田 2022, p. 144.
  12. ^ 黒田 2022, p. 145.
  13. ^ a b c d 「浄光公年譜」『徳川諸家系譜4』続群書類従完成会、1992年。
  14. ^ 『貞享松平越前守書上』
  15. ^ 黒田 2022, p. 146.
  16. ^ 小楠 2006, p. 30, 35, 39.
  17. ^ a b c d e f g 結城市史編さん委員会 1980, p. 727.
  18. ^ a b c d e f g 結城市史編さん委員会 1977, p. 678.
  19. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』
  20. ^ 長谷川 2023, p. 141.
  21. ^ a b 結城市史編さん委員会 1980, p. 729.
  22. ^ 結城市史編さん委員会 1980, pp. 729–730.
  23. ^ 結城市史編さん委員会 1977, pp. 78–79.
  24. ^ 黒板 1936, p. 511.
  25. ^ 黒田 1995, p. 174.
  26. ^ 宮本義己「家康が与えた子供たちへの手紙」『歴史読本』38巻19号、1993年
  27. ^ 市村 1983.
  28. ^ 長谷川 2023, p. 143.
  29. ^ 『福井県史』通史編3
  30. ^ 黒田 1995, p. 175.
  31. ^ 黒田 1995, p. 175、192.
  32. ^ 市村高男「隠居後の結城晴朝」(初出:渡邊平次郎『現代語版結城御代記』上(私家版、1993年)/所収:荒川善夫 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻下総結城氏』(戒光祥出版、2012年)ISBN 978-4-86403-069-4
  33. ^ a b 黒板 1936, p. 521.
  34. ^ 黒板 1936, p. 523.
  35. ^ a b 長谷川 2023, p. 146.
  36. ^ 黒板 1936, p. 525.
  37. ^ 黒板 1936, p. 527.
  38. ^ 宮本 1993, p. 171.
  39. ^ 小楠 2006, p. 208-210.
  40. ^ 福井県立図書館,福井県郷土誌懇談会共編 『福井県郷土叢書 第7集 : 国事叢記 上』福井県郷土誌懇談会、1961年
  41. ^ 小笠原恭子『出雲のおくに―その時代と芸能―』(中公新書、1984年)p.102
  42. ^ 今井林太郎『石田三成』(新装)吉川弘文館、1988年、135頁。 
  43. ^ 長谷川 2023, p. 144.
  44. ^ 故徳川秀康外六名位階追陞ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A12090022100 


「結城秀康」の続きの解説一覧

於義伊(おぎい)

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センゴク」の記事における「於義伊(おぎい)」の解説

家康次男で後の結城秀康側室の子であった長兄信康処断されたため、嫡男格上げされた。それらの理由などもあり父・家康とは疎遠になっていたが小牧・長久手の戦い前に家康から不遇の詫び受けた現世幽世境界覗いている様子があり、家康はこの「幽玄」を学んで政略活用する小牧・長久手の戦い結果徳川家羽柴家への忍従余儀なくされ、人質として羽柴家送られることとなった

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