強制遷座と戦後復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:37 UTC 版)
詳細は「東京国際空港#強制退去」を参照 マッカーサー司令部では羽田飛行場を連合軍の日本駐屯軍に引き渡すよう十二日我が当局に申し入れた。同時に滑走路拡張のため海岸線埋め立て設備を提供するよう要求してきたが、飛行場再建のためには二箇月乃至三箇月を要すると見ている。なお、飛行場付近の一部住民に対して立ち退きが命ぜられることになった。 — 『朝日新聞』昭和20年9月13日付けより 第二次世界大戦が終わった直後の1945年(昭和20年)9月12日、連合国軍(のちのGHQ)はアメリカから人材や物資を投入する為、日本政府に対して東京飛行場の引渡しを命じ、翌13日朝には自動小銃を持った連合国兵がジープで乗付け、飛行場にいた人々全員に立ち退きを命じた。こうして東京飛行場は軍事基地「HANEDA ARMY AIR BASE」と改称された。そして9月21日、HANEDA AIR BASEを拡張するため、連合国軍は蒲田区長との連名で日本の警察を通じて、羽田穴守町・羽田鈴木町・羽田江戸見町の三か町内約1200世帯、約3000名の全住民に12時間以内の強制退去命令を下した。 敗戦後、まだ1か月も経たない中では、新聞記事を読んでいた住民は極僅かであり、読んでいたとしても、具体的な範囲が挙げられていなかった為、自分達が当事者であると考えた人は殆どいなかった。「飛行場付近の一部住民」に説明があったのは前日のことであり、警察から口頭で知らされた。そこで住民代表が、12時間とはあまりにも理不尽で到底全住民に周知出来ない事や、立ち退き先も決められないまま路頭に迷う人が出て来る事等を挙げ、蒲田区役所や警察を仲介して交渉が行われた。そうした決死の訴えにより、立ち退き後に立ち入った者の生命の保障はないという厳しい条件付であるものの何とか2日間となったのだが、人手も機材も時間もすべてが不足している、まさに身一つでの立ち退きであった。 突如として町を追われることになった人々は、行く当てもないまま荷車に家財道具を括り付けて、稲荷橋・弁天橋を渡った。48時間後、橋のたもとには連合国軍の兵隊が立ち、街へ戻ろうとする住民に対し、威嚇射撃まで行う横暴ぶりであった。見た事の無い程の大きなブルドーザーやパワーシャベルが瞬く間に家や店を押しつぶし、町は徹底的に破壊され、戦闘機が幾機も走る滑走路となった。こうして、東京を代表する観光地として、多くの人々が訪れ、また生活を営んだ三つの町は、終戦から僅か1か月で跡形も無くなり、地図上から抹消されたのである。そして悲劇に見舞われたのは、穴守稲荷神社もまた同様であった。 穴守稲荷神社の一隅で御霊を守っていた宮守は、早くから進駐軍と接触があり、羽田飛行場拡張の話を事前に聞かされていた。初めの案では羽田穴守町を避けて拡張する案も検討されたが、結局それは叶わず、御霊の遷座を早急に思案しなければならなくなった。宮司を空襲で失ったこともあり、蒲田区職員・福岡幾造、羽田神社宮司・橋爪英尚、氏子・横山安五郎の三者が相談の上、御霊を羽田神社に仮遷座することになった。 このため、当時の神社の施設や設備はほぼすべて放棄され、後に連合国軍によって取り壊された。ご神体、神輿や神刀等の神宝数点、更地にされた神社跡地に数年間放置されていたものを掘り起こして運び出された一対の狐像、羽田空港沖合展開の際に元境内地にあたる部分から出土して神社へ返還された石碑類、後述の大鳥居以外は、基本的に現在地に移転されてから作られたものである。尚、ごくわずかに持ち出すことができた神宝類は、羽田神社の他に池上本門寺の末寺にあたる池上常仙院にも移されたという。 穴守稲荷神社と共に鈴木新田内に鎮座していた玉川弁財天や鈴納稲荷神社なども同様に強制退去となっており、玉川弁財天は羽田水神社へ、鈴納稲荷神社は羽田神社へ移されている。 また、駐留間もない占領軍は、付近の状況に疎く、様々な誤解による事件が生じていた。例えば、地元の漁師が目の前の海で魚を獲って暮らしていることを知らなかった為、羽田沖を航行する船を尽く捕まえ、蒲田警察署に連行した。その為、穴守稲荷神社の関係者が事情を説明しにゆき、釈放してもらったこともあったという。 こうした戦後の混乱の中、1946年(昭和21年)には早くも龍王院や自性院が再建され、地域の核のなる社寺の再建が少しずつ始まっていた。1947年(昭和22年)に入ると、ご神体を羽田神社にいつまでも預けてはおけないと有志が集い、「復興協議会」「神殿建設委員会」「穴守稲荷神社復興奉賛会」などさまざまな復興のための組織ができた。その復興への意気込みは大変なもので、羽田神社で行われた会議は連日連夜に及んだという。 7月には移転先となる稲荷橋駅(現:穴守稲荷駅)近くの現在の鎮座地に仮安置所を設け、8月にはその土地700坪(2310 m2)を有志の奉賛により購入、取得している。10月には、空港内に残されていた大鳥居を搬出しようと労務者を連れて出かけたが、駐留軍の許可がなく、搬出できなかった。また、まだまだ資材不足が続いており、飛行場内に残留された石材を搬出しようとしたが、それさえも叶わない状況であった。それでも、神社関係者と蒲田区職員が羽田神社に集まり、神社再建について懇談・協議した上で、10月26日には地鎮祭を斎行するまでに漕ぎつけた。 翌1948年(昭和23年)1月には仮拝殿の増築も決まり、2月には、ようよう待ちに待った仮社務所と本殿も落成。2月24日の夕刻、羽田神社よりご神体を御遷宮し、遷座式が挙行された。本殿の広さは僅か一坪半であったが、その遷座の様子を見ていた古老は「なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」と西行法師の御歌を引き、その日の感無量の気持ちを伝えている。 昭和二十年九月進駐軍による飛行場設営の爲遠く文化文政の昔より百数十年鎮座の地扇ヶ浦を疎開して暫く羽田神社境内に仮遷宮を余儀なくせられたる處崇敬者有志によりて穴守稲荷神社復興奉賛會の創立を見るに及び鋭意画策一致協力遂に稲荷橋畔に神域を卜して仮社殿を造営し昭和二十三年二月遷宮の式典を挙ぐること得たり 爾来星霜茲に十年境内漸く神寂ひて参詣の信徒絶ゆる暇なく復興の機運将に熟すると到る神德の廣大無偏(表記ママ)なること炳として日星の如し崇ぶべし 昭和三十二年丁酉二月 — 穴守稲荷神社境内の遷宮記念碑より この年の5月には、神社復興の中核となって働いた奉賛会を発展的に解消し、新たに世話人会を設け、世話人40名が委嘱された。 1949年(昭和24年)~1950年(昭和25年)には、仮拝殿の落成や奥之宮の復活などがあり、世情も復興の気配が濃厚となり、それにつれて参詣者数はもちろん奉納額も増加していった。1951年(昭和27年)には、遷座後はじめての節分祭が行われた。40人の年男・年女が神社近くの「梅月」や「すずめ屋」、「出川屋」などを宿として借り受け、其処から繰り出し、神社まで練り歩く姿が復活した。また、7月には神輿渡御も行われている。食料不足はまだ続いており、食料調達の苦労は常につきまとい、節分祭それ自は赤字であったり、神輿が毀れたりと、幾分の不具合もあったが、この頃より穴守稲荷神社の復興も本格化している様子が現れてきている。 羽田穴守町の旧境内を正式に政府が買い上げることが決まったのも、この年である。それまでは、旧境内地約9656坪の借り上げ地代が支払われていた。それをやめ、接収地買い上げが政府決定された。これにより、旧境内地は正式に羽田空港の一部となった。 1953年(昭和28年)には、神徳の高揚を目的に、新たな試みもはじまった。1月には、花月園競輪場へ6日間出輦したり、3月からは神前結婚式も執り行っている。4月に入ると、百万人講結成の気運が盛り上がり、その名称を「百万人講」とするか「奉賛会」とするかの討議がなされている。1954年(昭和29年)に入ると、3月には参集殿も無事落成した。 また、この頃に池上常仙院に穴守稲荷が祀られているという噂が流布し、崇敬者が参拝するという珍事もおこった。戦後、穴守稲荷のご神体は羽田神社に遷座していたので、常仙院への参拝はおかしなことであったが、常仙院の庫裡を再建した時、穴守稲荷神社の拝殿に使われていた古材を使ったことが、この誤解のもとであったらしい。 1955年(昭和30年)5月17日には、羽田空港内のターミナルビルが、穴守稲荷神社の旧鎮座地に建設され、社屋屋上に分社を奉斎することになった。ターミナルビルの篤い崇敬もあり、17日には大祭が挙行され、それ以降毎月17日には月次祭を奉仕するようになった。その後、平成時代に羽田空港の沖合展開がはじまり、同ビルが撤去され、遷座されるまでの40年間、羽田空港の安全と繁栄を見守る空港分社が鎮座していた。 1956年(昭和31年)4月20日 には、稲荷橋駅が穴守稲荷駅に改称され、さらには1958年(昭和33年)の正月より、京浜急行穴守線が終夜運転をはじめ、参拝者に歓迎された。また、節分祭に1回15人ほどで十囲修行を行ったのもこの年からであり、話題になった。
※この「強制遷座と戦後復興」の解説は、「穴守稲荷神社」の解説の一部です。
「強制遷座と戦後復興」を含む「穴守稲荷神社」の記事については、「穴守稲荷神社」の概要を参照ください。
- 強制遷座と戦後復興のページへのリンク