展示と反応
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「メキシコ湾流 (美術)」の記事における「展示と反応」の解説
1900年にホーマーは『メキシコ湾流』をペンシルヴェニア美術アカデミー(Pennsylvania Academy of the Fine Arts)で展示するためにフィラデルフィアに送り、そしてのちにその年に返却されたのち、彼は「わたしはそれがペンシルヴェニアにあったとき以来、絵に描いてきて、そしてたいへんよくそれを改良した(いぜんよりも深海水についてはさらに)。」と書いた。それどころか、絵の初期の写真との比較でわかるが、ホーマーは海洋を描き直したのみならず、右舷の舷縁をこわすことで変え、帆と喫水線ちかくに赤をさっとひと筆、付け加え、ボートの名(「アンナ - キー・ウェスト」、Anna – Key West)をはっきりと判読可能にし、そして上左の水平線に船を描いた - これは作品の荒廃感をやわらげるためかもしれない。彼はそれからピッツバーグのカーネギー博物館(Carnegie Museums of Pittsburgh)で絵を展示し、そしてそのかわりに4000ドルを求めた。 1906年に『メキシコ湾流』はナショナル・アカデミー・オブ・デザイン(National Academy of Design)で展示され、そしてアカデミーの審査委員全員はメトロポリタン美術館に絵を購入するように嘆願した。作品の新聞時評は、さまざまであった。それは、ホーマーのいつもの作品以上にメロドラマチックであると見られた。フィラデルフィアの時評者は、見る者が絵を笑っていたことに注意し、場面を「サメの群れがこっけいなかんじで自分のまわりでワルツを踊っているいっぽうでボートに横たわる裸の黒人」と評して、絵を「微笑んでいるサメら」("Smiling Sharks")と呼んだ。べつの同時代の批評家は、『メキシコ湾流』は「[ホーマーの]最高のキャンバスにはめったに見られない、関心の或る散漫を表現している」と書いた。同美術館は絵を、同年に買った。
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展示と反応
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『メデューズ号の筏』が最初に展示されたのは、1819年のサロン・ド・パリであった。絵の本当の主題は、当時の鑑賞者の目にも明らかだったが、作品名は『難破 Scène de Naufrage 』とされた。ジェリコーの『筏』は「すべての目を撃ち、惹きつける」(Le Journal de Paris)と評され、1819年のサロンで注目の的だった。批評家は二分した。主題の恐怖「terribilità」は魅惑的だが、古典主義礼讃派は「積み重ねた死体の山」に嫌悪を示し、そのリアリズムは「理想の美」からは程遠いと考えていた。彼らの考える「美」とは、『筏』と同年に描かれたジロデ・トリオゾンの『ピグマリオンとガラテイア』によって、具体化されるような美であった。ジェリコーの作品には、矛盾が表現されていた。すなわち、「不愉快な主題をいかにして力強さに満ちた絵に変換するのか?」「画家はいかにして芸術と現実とを融合させるのか?」ということである。ジェリコーと同時代のフランス人画家、マリ=フィリップ・クーパン・ド・ラ・クーペリーの批判は痛烈だった。「ムッシュ・ジェリコーは失敗したように思う。絵画の到達点は、魂と目に語りかけることであって、撃退することではない」。『筏』の絵は、フランスの作家であり芸術評論家のオーギュスト・ジャルのような熱心なファンをも獲得した。彼は絵の政治的テーマ、自由主義的立場(「ニグロ」の進歩、超王党主義の批評)、現代性を礼讃した。フランスの歴史家ジュール・ミシュレは「我々の社会全体が、メデューズ号の筏に乗っている・・・」と表現した。 展示はルイ18世の後援を受け、1300点近くの絵画、208点の彫刻、その他多くの版画や建築デザインなどを扱っていた。現代の批評家フランク・アンダーソン・トラップは、作品の量やイベントの大きさに、展示後を狙った野心が伺えるとする。トラップが注目する事実は、「その中には壮大な歴史絵画が100点含まれており、政府の惜しみない後援を受けていた」が、ジェリコーのように裕福な出品者数人を除いては、時間、エネルギー、必要経費の都合をつけることができたのは、メジャーな代理人に支持された出品者だけだった、というものである。 ジェリコーは政治的にも芸術的にも、敢えて対決することを決めた。批評家も彼の攻撃的アプローチに、嫌悪もしくは賞賛で応えた。著述家の共感が得られるかどうかは、王党派か自由党派かに左右された。『メデューズ号の筏』は筏に乗り合わせた人々に対して大いに同情的な作品であると受け止められたが、それゆえ、生存者であるサヴィニーとコルレアールの反帝政的な政治意識を反映しているとも見なされた。頂点に黒人を配置した構成は、ジェリコーの奴隷制廃止論の表現であり、論争の的になった。芸術評論家のクリスティン・ライディングは、続いてロンドンで絵を展示したのは、そこでの反奴隷制運動に同調するつもりだったのではないかと推測している。『メデューズ号の筏』は、無能な艦長は未熟な水夫だが、政治的には反ボナパルティストだという、政治的な声明となった。現代美術の評論家でありキュレーターであるカレン・ウィルキンによれば、「ジェリコーの絵が冷笑的に告発したのは、フランスにおけるポスト・ナポレオン官僚のぶざまな不正行為であり、その官僚の多くを輩出した家柄は「アンシャン・レジーム」の生き残りなのだ」ということである。 『メデューズ号の筏』は、絵を見た市民に広く、強い印象を残したが、その主題は多くの人々を不快にした。ジェリコーが望んだような一般民衆からの賞賛は得られなかった。展覧会の終了時に、『メデューズ号の筏』は金賞を獲得した。しかし審査員団は、作品をルーヴル美術館の国家コレクションに加えただけで、それ以上の名声を与えることはしなかった。代わりにジェリコーはサクレ・クールの委員に任命されたが、その完成作品にドラクロワ自身のサインをさせ、彼に金を払ってその任命を秘密の内に譲ってしまった。ジェリコーは田舎に退き、そこで過労で倒れた。彼の作品には買い手がつかず、枠から外して巻いた状態で、友人のアトリエに保管された。 ジェリコーは1820年、『メデューズ号の筏』をロンドンで展示するよう手配した。ロンドンでの展示は、6月10日からその年の終わりまで、ピカデリーにあるウィリアム・ブロックのエジプシャン・ホールで行われ、約40,000人の観賞者が訪れた。ロンドンにおける評価は、パリのものよりもおおむね肯定的で、作品はフランス絵画の新しい方向を示すものとして受け止められた。これは1つには、絵の展示方法によるところもある。パリでのサロン・カレでは最初、作品は高い位置に吊るされていた。ジェリコーは作品が展示された様子を見て、その配置が失敗だったと認めている。しかしロンドンでは、作品は地面近くに配置され、そのスケールの雄大さを強く印象付けた。イギリスで作品が受け入れられた理由は他にもある。すなわち「わずかながらの愛国的自己満足」、不気味なエンターテイメントとしての作品の魅力、筏の上で起きた事件に基づいて作られた2つの演劇が展示と同時進行で上演され、ジェリコーの描写によるところが大きかったこと 、などである。 ロンドンでの展示で、客が支払った観覧料から得たジェリコーの取り分は、約20,000フランにもなった。これは、フランス政府が作品買い取りの際に彼に支払った額を、かなり上回るものであった。ロンドン展示後の1821年始め、ブロックは作品をダブリンに持ち込んだが、そこでの展示は成功には程遠かった。その大きな理由としては、回転パノラマ画の『メデューズ号の難破』の展示と、競合してしまったことによる。回転パノラマ画『メデューズ号の海難』はマーシャル兄弟の会社による製作で、漂流の生存者の1人の指導のもと、彩色されたといわれる。 『メデューズ号の筏』は、ルーヴル美術館のキュレーター、ルイ・ニコラ・フィリップ・オーギュスト・ド・フォルバン伯爵により支持され、ジェリコー死後の1824年、相続人から買い取って美術館に納めた。作品は現在も、ギャラリーにそびえたっている。その展示説明文には、「この痛烈な物語のただ一人の英雄は、人類である」と書かれている。 1826年から1830年にかけての一時期、アメリカの画家ジョージ・クック(1793–1849)が『メデューズ号の筏』を小さいサイズ(130.5 x 196.2 cm )で模写したものが、ボストン、フィラデルフィア、ニューヨーク、ワシントンD.C.で、難破をめぐる論争を知る人々に展示された。絵は論評で支持され、脚本、詩、演奏、児童書にも取り入れられた。この絵は前海軍大将ユーライア・フィリップに購入された。ユーライアは1862年にその絵をニューヨーク歴史学会に遺贈したが、その際、目録のミスでジルベール・スチュワート作とされたままだった。2006年に、デラウェア大学の芸術歴史教授、ニナ・アタナソグロウ・カールマイヤーの問い合わせをきっかけに、訂正された。大学の管理部門が、作品の修復を行った。 ジェリコーのオリジナル作品の状態が悪化したため、1859〜60年、ルーヴル美術館は2人のフランス人画家、ピエール=デジレ・ギユメ、エティエンヌ=アントワーヌ=ユージェーヌ・ロジャに依頼して、オリジナルと同サイズの模写を作成し、貸出展示用とした。 1939年秋、戦争の気配を察知したルーヴルは、『メデューズ号の筏』を疎開させるために荷造りした。9月3日の夜、舞台道具のトラックがコメディ・フランセーズを発ち、ヴェルサイユへと『メデューズ号の筏』を運んだ。しばらくすると、『メデューズ号の筏』はシャンボール城に移され、そこで第二次世界大戦が終結するまで保管された。
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