入鹿六人衆とは? わかりやすく解説

入鹿池

(入鹿六人衆 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/02 04:44 UTC 版)

入鹿池(いるかいけ)は、愛知県犬山市の入鹿、飛騨木曽川国定公園内にある人工の農業ため池2010年(平成22年)3月25日農林水産省ため池百選に選定され[1]2015年(平成27年)には国際かんがい排水委員会による世界かんがい施設遺産にも登録された。


  1. ^ 入鹿池 - 農林水産省 - ため池百選
  2. ^ 入鹿池は五条川の一部とみなすこともできる。五条川は岐阜県多治見市の高社山を源流とする庄内川水系・新川水系の一級河川で、八曽山の南方を経由し入鹿池に一旦流入し、再び流れ出た後、清須市とあま市の境界付近で新川に合流するためである。
  3. ^ 入鹿池史、P.374 - 375
  4. ^ 入鹿池史、P.363 - 364
  5. ^ “愛知の「入鹿池」を見学”. 毎日新聞. (2016年11月16日). https://mainichi.jp/articles/20161117/k00/00m/040/091000c 2022年2月20日閲覧。 
  6. ^ やっぱり来犬されてた!『天皇陛下美智子皇后様』in犬山市入鹿池” (2019年5月9日). 2022年2月20日閲覧。


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入鹿六人衆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 00:46 UTC 版)

入鹿池」の記事における「入鹿六人衆」の解説

入鹿六人衆は、江戸時代初期尾張東北部農民中心人物まとめ役であった。彼らはそれぞれ新田頭に任命され、その役は世襲となった江崎善左衛門了也 江崎 善左衛門 了也(えさき ぜんざえもん、文禄2年1593年) - 延宝3年1675年))は、春日井郡小牧生まれ浪人幼名四郎。父江崎善左衛門宗度(享禄3年1530年) - 寛永4年1627年))、寛永元年1624年)に善左衛門はその跡を継いだ寛永5年発起人となり、入鹿池造成尽力入鹿池完成後は入鹿新田頭に任命され新田開発勤しんだ。寛永17年1640年)この功により、尾張藩より小牧原上原新田内の10石の除地苗字帯刀権利頂戴した除地とは税の支払い義務負わない土地のことである。入鹿池以外に更に用水が必要となり、慶安元年1648年)から慶安4年1651年)に木津用水(今の合瀬川)を開鑿工事をし、完成させた。また、寛文4年1664年)、春日井原開墾する計画立てて実行し10開いた戒名は「至心院誉了也居士」。父江崎善左衛門宗度の墓は小牧市川西にある。 落合新八郎宗親 落合 新八郎 宗親おちあい しんぱちろう、 - 承応元年1652年))は、春日井郡上末生まれ浪人祖父豊臣秀吉仕え小牧・長久手の戦い活躍した落合安親である。宗親長男右衛門頼親が跡を継ぎ父と共に新田開発従事貢献大井堀の工事にも参加している。 入鹿六人衆として、寛永5年からの入鹿池築造工事尽力した。その功績により、寛永11年1634年尾張藩より新田頭に任命されたが、寛永17年には更に、苗字帯刀許しも得、除地として小牧原上原新田10石を授けられた。後には、落合親子土地3畝が贈られている。戒名一宗快心居士鈴木作右衛門 鈴木 作右衛門すずき さくえもん、生没年不詳)は、春日井郡田楽村(たらがむら、現・春日井市生まれ浪人曽祖父の代から田楽住していたが、曽祖父鈴木九兵衛尚方寛永5年より、入鹿池築造を入鹿六人衆として、尽力した寛永11年新田頭となり、寛永17年には苗字帯刀許しと、小牧原上原新田除地10石を得たその後病弱から活躍出来ず歿年不明である。 鈴木久兵衛 鈴木 久兵衛すずき きゅうべえ、生没年不詳)は春日井郡上末(現・小牧市生まれ浪人寛永5年より、入鹿六人衆として入鹿池造成努力した。のちに新田頭となり、新田開発親子二代従事した寛永17年には苗字帯刀、更に村中下原新田除地10石を得た慶安元年大井工事も、子の久三郎とともにあたった丹羽又助 丹羽 又助(にわ またすけ、- 寛文5年1665年))は、春日井郡村中(現・小牧市生まれ農民。または丹羽又兵衛(- またべえ)ともいう。素封家の出。 寛永5年からの入鹿池築造工事尽くし、その功績より、入鹿六人衆の1人として数えられている。後に新田頭として、村中原新田耕した寛永17年に、尾張藩主徳川義直より苗字帯刀10石の除地を又助新田内に得ている。また、慶安元年大井掘鑿にも貢献したまた、これら農事以外にも、村中玉林寺開いた功績がある。 船橋七兵衛 船橋 七兵衛(ふなはし しちべえ、 - 明暦3年1657年))は、丹羽郡外坪(現丹羽郡大口町生まれ浪人仁左衛門にざえもん)ともいう。祖父船橋文平小口城織田家仕えていた小者である。文平永禄4年1561年)に小口城離れたため、3年後永禄7年1564年)の織田信長生駒氏による小口城落城には関わらなかった。 寛永5年始まった入鹿池築造に入鹿六人衆として尽力した。後に新田頭となり、この地方開墾勤しんだ。寛永17年には苗字帯刀更には河内屋新田10石を除地として与えられた。尾張藩付家老竹腰正信覚えもよく、別に褒賞があった。その他、慶安元年大井堀の工事春日井原開拓にも務めた戒名は釋浄念。

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