入鹿池
入鹿六人衆
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入鹿六人衆は、江戸時代初期、尾張東北部の農民の中心人物、まとめ役であった。彼らはそれぞれ新田頭に任命され、その役は世襲となった。 江崎善左衛門了也 江崎 善左衛門 了也(えさき ぜんざえもん、文禄2年(1593年) - 延宝3年(1675年))は、春日井郡小牧村生まれの浪人。幼名新四郎。父江崎善左衛門宗度(享禄3年(1530年) - 寛永4年(1627年))、寛永元年(1624年)に善左衛門はその跡を継いだ。 寛永5年に発起人となり、入鹿池の造成に尽力、入鹿池完成後は入鹿新田頭に任命され、新田開発に勤しんだ。寛永17年(1640年)この功により、尾張藩より小牧原上原新田の内の10石の除地、苗字帯刀の権利を頂戴した。除地とは税の支払いの義務を負わない土地のことである。入鹿池以外に更に用水が必要となり、慶安元年(1648年)から慶安4年(1651年)に木津用水(今の合瀬川)を開鑿工事をし、完成させた。また、寛文4年(1664年)、春日井原を開墾する計画を立てて実行し、10か村を開いた。戒名は「至心院蓮誉了也居士」。父江崎善左衛門宗度の墓は小牧市川西にある。 落合新八郎宗親 落合 新八郎 宗親(おちあい しんぱちろう、 - 承応元年(1652年))は、春日井郡上末村生まれの浪人。祖父は豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いで活躍した落合安親である。宗親の長男徳右衛門頼親が跡を継ぎ、父と共に新田開発に従事・貢献、大井堀の工事にも参加している。 入鹿六人衆として、寛永5年からの入鹿池築造工事に尽力した。その功績により、寛永11年(1634年)尾張藩より新田頭に任命されたが、寛永17年には更に、苗字帯刀の許しも得、除地として小牧原上原新田内10石を授けられた。後には、落合親子に土地3畝が贈られている。戒名は一宗快心居士。 鈴木作右衛門 鈴木 作右衛門(すずき さくえもん、生没年不詳)は、春日井郡田楽村(たらがむら、現・春日井市)生まれの浪人。曽祖父の代から田楽に住していたが、曽祖父鈴木九兵衛尚方。 寛永5年より、入鹿池の築造を入鹿六人衆として、尽力した。寛永11年に新田頭となり、寛永17年には苗字帯刀の許しと、小牧原上原新田に除地10石を得た。その後は病弱から活躍出来ず、歿年も不明である。 鈴木久兵衛 鈴木 久兵衛(すずき きゅうべえ、生没年不詳)は春日井郡上末村(現・小牧市)生まれの浪人。 寛永5年より、入鹿六人衆として入鹿池の造成に努力した。のちに新田頭となり、新田開発に親子二代で従事した。寛永17年には苗字帯刀、更に村中原下原新田に除地10石を得た。慶安元年の大井堀工事も、子の久三郎とともにあたった。 丹羽又助 丹羽 又助(にわ またすけ、- 寛文5年(1665年))は、春日井郡村中村(現・小牧市)生まれの農民。または丹羽又兵衛(- またべえ)ともいう。素封家の出。 寛永5年からの入鹿池築造工事に尽くし、その功績より、入鹿六人衆の1人として数えられている。後に新田頭として、村中原新田を耕した。寛永17年に、尾張藩主徳川義直より苗字帯刀と10石の除地を又助新田内に得ている。また、慶安元年の大井堀掘鑿にも貢献した。また、これら農事以外にも、村中に玉林寺を開いた功績がある。 船橋七兵衛 船橋 七兵衛(ふなはし しちべえ、 - 明暦3年(1657年))は、丹羽郡外坪村(現丹羽郡大口町)生まれの浪人。仁左衛門(にざえもん)ともいう。祖父船橋文平は小口城主織田家に仕えていた小者である。文平は永禄4年(1561年)に小口城を離れたため、3年後、永禄7年(1564年)の織田信長・生駒氏による小口城落城には関わらなかった。 寛永5年に始まった入鹿池築造に入鹿六人衆として尽力した。後に新田頭となり、この地方の開墾に勤しんだ。寛永17年には苗字帯刀、更には河内屋新田の10石を除地として与えられた。尾張藩付家老竹腰正信の覚えもよく、別に褒賞があった。その他、慶安元年の大井堀の工事、春日井原の開拓にも務めた。戒名は釋浄念。
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