入鹿切れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 00:46 UTC 版)
完成より235年、それまで一度も大きな災害を起こさなかった入鹿池も、明治元年(慶応4年、1868年)4月終わり頃からの大雨には耐えられなかった。5月13日の七ツ(午前2時ごろ)に百間堤が決壊し、入鹿池一杯に貯まった水は下流に溢れ、多大な被害を出した。これを明治元年の「入鹿切れ」(いるかぎれ)と呼ぶ。被害については幾つかの記録があるが、「入鹿切ニ付溺死人ノ調」によれば死者774人とされる。また、楽田村の鈴木三郎正久家による「入鹿池堤防決潰」によれば浸水は丹羽・中島、春日井、海部の4郡に及んだといい、記された被害は以下の通りである。 死者 - 941人 負傷者 - 1,471人 被害にあった町村 - 133町村 建物への被害 - 流失家屋807戸、浸水家屋11,709戸 流失耕地 - 8,480町5段歩 特に羽黒村の被害は酷く、家屋の屋根に避難しても逃れられず、多くが濁流に流された。下流の布袋(ほてい、現在の江南市布袋町)では、水が引いた後に、腐乱死体がそこら中に転がっている有様であったという。これらの死体は、穴を拵えてそこに埋め、塚とした。また、ある者は犬山へ逃げようとしたが、川の橋は既に落ちた後で、誤って川に転落する者が続出した。下流でも死者こそ出なかったものの、被害はあった。流れてきた水の量は少なかったが、田に泥が被り、稲が駄目になってしまったという。 また、後にこの事が原因となって、入鹿池を干拓してこの地域の主水源を木曾川に求める計画が持ち上がったが、結局これは取りやめとなった。入鹿池は確かにこの様な大災害を起こしたが、防災の面での貢献も大きい。特に、8月から9月にかけての暴風雨による出水の貯水は、洪水防止に大きく役立っている。入鹿池に流れ込む川の上流は、山が荒れている所が多く、その保水力が望めない。その突発な出水を底水の入鹿池にため込める事から、洪水が防がれている。よって、入鹿池を干拓する事は利が少なく、逆に、池の治水能力を増大させた方が、防災の効果は高い。 1977年(昭和52年)、永年の懸案であった入鹿池の防災ダム事業計画が始まり、1991年(平成3年)、工事は完了した。
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