幌内ダム決壊事故とは? わかりやすく解説

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幌内ダム決壊事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/22 16:16 UTC 版)

幌内ダム」の記事における「幌内ダム決壊事故」の解説

ダムは翌1939年1月より着工され、翌1940年昭和15年12月にわずか1年11ヶ月という工期本体完成する。しかし完成直前発電所運用開始前に行われる検査直前発電所施設火災事故起こして運用延期復旧工事実施し1941年5月施設修復され今度こそ運用開始される手はずとなっていた。 ところが、再度発電所施設事前点検が行われる直前1941年6月6日幌内川流域集中豪雨襲ったダム幌内川下流建設されており流域面積大半ダムより上流であったこのため上流広範囲降った豪雨一挙にダム湖押し寄せたが、同時におびただしい流木ダム湖流入した。それら流木ダム中央部にあるゲート大量に漂着したためダム放流機能喪失行き場失った洪水ダム本体より越流開始遂に6月6日午前9時30分頃ダム本体中央部水圧に耐え切れず崩壊開始し決壊ダム湖濁流となって下流にある現在の雄武町幌内集落押し寄せた幌内集落では32戸が濁流によって家屋流失被害を受け、死者60名・罹災者220名 という大惨事ひき起こすに至る。 この幌内ダム決壊事故は明治以降発生したダム決壊事故としては1868年明治元年)に愛知県発生した入鹿池決壊事故通称入鹿切れ死者941名)、1928年昭和3年)に長野県発生した小諸発電所第一調整池決壊事故死者7名)に次ぐ事故であり、死者数では入鹿池決壊事故1953年昭和28年8月14日京都府発生した大正池決壊事故死者105名)に次ぐ重大なダム事故であった1968年昭和43年)の第60回国会建設委員会1971年昭和46年)の国会で話題になったダム事故であり、現在でもこのダム事故を知る住民がいるといわれている。原因としては施工時に劣悪なコンクリート使用したことにより重力式コンクリートダムとしての利点機能せず、莫大な水圧に耐えられなかった施工ミス加え大量流木ダム放流機能喪失させた相乗作用によると考えられているが、詳細な原因究明戦時中ということもあって行われず実態不明である。 ダム決壊後、破壊されダム発電所そのまま放棄された。当時太平洋戦争突入する直前であり、日本各地ダム事業戦時体制維持最優先観点から続々建設中断されていた時期でもあり、再建難し時代背景であったことも考えられる。なおこの事故慰霊碑近傍建立されている。

※この「幌内ダム決壊事故」の解説は、「幌内ダム」の解説の一部です。
「幌内ダム決壊事故」を含む「幌内ダム」の記事については、「幌内ダム」の概要を参照ください。

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