幌内ダム決壊事故
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ダムは翌1939年1月より着工され、翌1940年(昭和15年)12月にわずか1年11ヶ月という工期で本体が完成する。しかし完成直前、発電所の運用開始前に行われる検査の直前に発電所施設が火災事故を起こして運用は延期。復旧工事を実施し翌1941年5月に施設は修復され、今度こそ運用が開始される手はずとなっていた。 ところが、再度の発電所施設事前点検が行われる直前の1941年6月6日、幌内川流域を集中豪雨が襲った。ダムは幌内川の下流に建設されており流域面積の大半はダムより上流であった。このため上流の広範囲に降った豪雨は一挙にダム湖へ押し寄せたが、同時におびただしい流木もダム湖に流入した。それら流木はダム中央部にあるゲートに大量に漂着したためダムは放流機能を喪失、行き場を失った洪水はダム本体より越流を開始、遂に6月6日午前9時30分頃ダム本体中央部が水圧に耐え切れず崩壊を開始し、決壊。ダム湖の水は濁流となって下流にある現在の雄武町幌内集落に押し寄せた。幌内集落では32戸が濁流によって家屋流失の被害を受け、死者60名・罹災者220名 という大惨事をひき起こすに至る。 この幌内ダム決壊事故は明治以降に発生したダム決壊事故としては1868年(明治元年)に愛知県で発生した入鹿池決壊事故(通称入鹿切れ。死者941名)、1928年(昭和3年)に長野県で発生した小諸発電所第一調整池決壊事故(死者7名)に次ぐ事故であり、死者数では入鹿池決壊事故、1953年(昭和28年)8月14日に京都府で発生した大正池決壊事故(死者105名)に次ぐ重大なダム事故であった。1968年(昭和43年)の第60回国会建設委員会と1971年(昭和46年)の国会でも話題になったダム事故であり、現在でもこのダム事故を知る住民がいるといわれている。原因としては施工時に劣悪なコンクリートを使用したことにより重力式コンクリートダムとしての利点が機能せず、莫大な水圧に耐えられなかった施工ミスに加え、大量の流木がダム放流機能を喪失させた相乗作用によると考えられているが、詳細な原因究明は戦時中ということもあって行われず、実態は不明である。 ダム決壊後、破壊されたダムと発電所はそのまま放棄された。当時は太平洋戦争に突入する直前であり、日本各地のダム事業も戦時体制維持最優先の観点から続々建設が中断されていた時期でもあり、再建は難しい時代背景であったことも考えられる。なおこの事故の慰霊碑が近傍に建立されている。
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