幌内鉄道の開業
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建設工事は、1880年(明治13年)1月、小樽市内の若竹第3隧道から着工された。同年10月24日には手宮桟橋 - 熊碓第4隧道間で蒸気機関車「弁慶号」による試運転を行い、同年11月28日には手宮 - 札幌間の22マイル25チェーン(約35.9km)が開通した。 先行して開業した京浜間鉄道や阪神間鉄道などがイギリス様式で建設されたのに対し、本鉄道はアメリカ様式で建設された。建設経費の節約や、アメリカの流儀からいけば、この鉄道は914 mm(3 ft)軌間で建設されたであろうが、将来、敷設されるであろう他の鉄道との接続を考慮した黒田の方針により、本州の鉄道と同じ1,067 mm(3 ft 6 in)軌間が採用された。結果的にこの判断は、後に青函連絡船による車両航送や、青函トンネルを利用した本州・北海道間の直通運転の実現に功を奏すこととなる。 レールは15 kg(30ポンド/ヤード)の錬鉄製、枕木の本数は少なく道床も薄かった。手宮に機関庫と工場が設けられたが、小樽駅(現在の南小樽駅)や札幌駅は仮駅で、途中の朝里、軽川、琴似の各駅は、「フラグストップステーション」というアメリカ式の駅であった。 開業に当たっては、アメリカのH.K.ポーター社から蒸気機関車2両、ハーラン・アンド・ホリングスワース社から2軸ボギー客車8両が輸入された。蒸気機関車(後の鉄道院7100形)は、1、2と付番されたほか「義経」、「弁慶」と命名された。いずれもアメリカの西部開拓期を思わせるようなスタイルの車両である。1881年(明治14年)8月、明治天皇の北海道巡幸があり、これらの車両を使用して、小樽 - 札幌間で北海道初のお召列車が運転された。天皇の御乗用としては最上級の客車であった「開拓使号」が使用され、「義経」が9両編成の列車を牽引した(異説もある)。 1882年(明治15年)2月8日を以って開拓使は廃止され、鉄道と炭鉱は工部省の所管となった。同年6月25日には札幌 - 江別間が仮開業し、11月13日には手宮 - 幌内間が全通した。翌1883年(明治16年)9月17日には、手宮 - 幌内間鉄道の開業式が札幌で開催され、皇族や陸軍卿のほか、鉄道局長井上勝も列席している。この日は、市民の鉄道への理解を深めるため、終日無料で開放されたという。
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