わび・さび
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わび・さび(侘《び》・寂《び》)は、慎ましく、質素なものの中に、奥深さや豊かさなど「趣」を感じる心、日本の美意識。美学の領域では、狭義に用いられて「美的性格」を規定する概念とみる場合と、広義に用いられて「理想概念」とみる場合とに大別されることもあるが[1]、一般的に、陰性、質素で静かなものを基調とする[2]。本来は侘(わび)と寂(さび)は別の意味だが、現代ではひとまとめにして語られることが多い[3]。茶の湯の寂は、静寂よりも広く、仏典では、死、涅槃を指し、貧困、単純化、孤絶に近く、さび(寂)はわびと同意語となる[4]。人の世の儚(はか)なさ、無常であることを美しいと感じる美意識であり、悟りの概念に近い、日本文化の中心思想であると云われている[5]。
- ^ 大西克禮『美學 下巻 美的範疇論 11版』(弘文堂、1981年発行)p.422 ISBN 4-335-85002-6
- ^ a b c d e f g 森神逍遥 『侘び然び幽玄のこころ』桜の花出版、2015年 ISBN 978-4434201424
- ^ 鈴木大拙『禅と日本文化』 岩波書店、1940年 ISBN 978-4004000204
- ^ 鈴木大拙『禅と日本文化』136頁)
- ^ 吉村耕治・ 山田有子「侘び・寂びの色彩美とその背景―和の伝統的色彩美の特性を求めて」『日本色彩学会誌』 41巻 3号、2017年 p.40-43、 doi:10.15048/jcsaj.41.3__40、 日本色彩学会
- ^ a b c d 『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館
- ^ 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典』第二版、小学館、14巻15冊、2000年12月 - 2002年12月
- ^ a b 編纂代表者千宗室『茶道古典全集第六巻』「山上宗二記」淡交社、1977
- ^ 井口海仙 『利休百首』p.33「点前こそ薄茶にあれと聞くものを 麁相になせし人はあやまり」淡交社、1973年 ISBN 978-4473000484
- ^ 倉澤行洋『珠光―茶道形成期の精神』p.43「心の文」より淡交社、2002年 ISBN 978-4473019042
- ^ a b c d e 熊倉功夫『現代語訳 南方録』中央公論社、2009年 ISBN 978-4120040276
- ^ 武野宗延『利休の師 武野紹鴎』p.127 宮帯出版社、2010年 ISBN 978-4863660571
- ^ 柳宗悦『民藝の趣旨』『柳宗悦全集著作篇第八巻』筑摩書房、1980年 「それ故民藝とは、生活に忠實な健康な工藝品を指すわけです。・・・その美は用途への誠から湧いて來るのです。」
- ^ 桑田忠親『日本茶道史』p.129-130「紹鴎侘びの文」より 河原書店、1975年 ISBN 978-4761100575
- ^ 岡倉天心『茶の本 The Book of Tea』p.16 IBCパブリッシング、2008年 ISBN 978-4896846850
- ^ 久松真一『わびの茶道』(昭和23年講演筆録)一燈園燈影舎、1987年 ISBN 978-4924520219 「・・・また今日名器として残っている朝鮮の茶碗なんか、ことに向こうでは何もお茶に使ったものではない、 ただ民間の食器であったものを択んだ。それが大した名器になって今日まで残っているのです。そういうものを好んで、 択び採ったその精神というものは、とりもなおさずこの侘数奇の精神であって、侘数奇の体系の中に包括したのであります。」
- ^ 河野喜雄 『さび・わび・しをり その美学と語源的意義』ぺりかん社、1983年 ISBN 978-4831503183
- ^ 進士五十八 ランドスケープの方法~土木家への提案~ JICE REPORT vol.24 2013.12
- ^ a b c d 復本一郎『さび 俊成より芭蕉への展開』塙親書57、1983年 ISBN 978-4827340570
- ^ 渡辺誠一『侘びの世界』p.13 論創社、2001年 ISBN 978-4846002985
- ^ a b c d 『芭蕉文集』「笈の小文」p.52 日本古典文学大系46 岩波書店、1959年 ISBN 978-4000600460
- ^ 潁原退藏『芭蕉研究論稿集成』第一巻 「さび・しをり・ほそみ」p.428 クレス出版、1999年 ISBN 4877330771
- ^ 藤村庸軒 『茶話指月集 2巻』今井重左衛門、1697 「いかにもさびている狐戸だけれども、遠くの山寺から人手をかけてもらってきたものだろう。侘びの心なら、麁相な猿戸が欲しいと戸屋に行って、松杉のを継ぎ合わせたものをそのまま釣りてこそさびて面白し。」
- ^ 復本一郎『芭蕉における「さび」の構造』p.49 塙選書77、1973
- ^ 松尾芭蕉『幻住庵記』「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛離(ぶつり)祖室の扉(とばそ)に入らむとせしも」
- ^ a b c 寺田寅彦「俳諧の本質的概論」『寺田寅彦全集』第十二巻 岩波書店、1997年 ISBN 4000920820
- ^ 寺田寅彦「俳句の精神」『寺田寅彦全集』第十二巻 岩波書店、1997年 ISBN 4000920820
- ^ Bernard Leach (Adapter), Soetsu Yanagi (著) (1972) The Unknown Craftsman- Japanese Insight into Beauty. Kodansha International
- ^ Boye Lafayette De Mente "Elements of Japanese design : key terms for understanding & using Japan's classic wabi-sabi-shibui concepts" Tuttle Pub 2006
侘
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侘(わび、侘びとも)とは、辞典の定義によれば、「貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識」を言い、動詞「わぶ」の名詞形である。「わぶ」には、「気落ちする」「迷惑がる」「心細く思う」「おちぶれた生活を送る」「閑寂を楽しむ」「困って嘆願する」「あやまる」「・・・しあぐむ」といった意味がある。 本来、侘とは厭う(いとう)べき心身の状態を表すことばだったが、中世に近づくにつれて、いとうべき不十分なあり方に美が見出されるようになり、不足の美を表現する新しい美意識へと変化していった。室町時代後期には茶の湯と結び付いて侘の理解は急速に発達し、江戸時代の松尾芭蕉が侘の美を徹底したというのが従来の説である。しかし、歴史に記載されてこなかった庶民、特に百姓の美意識の中にこそ侘が見出されるとする説が発表されている。 侘に関する記述は古く『万葉集』の時代からあると言われている。『万葉集』では、恋愛におけるわびしさを表す意味で用いられる場合が多い。(「わび・さびの語源と用例」参照) 「侘」を美意識を表す概念として名詞形で用いる例は、江戸時代の茶書『南方録』が初出と言われる。これ以前では「麁相」(そそう)という表現が美意識の侘に近く、例えば、茶人の山上宗二(1544-1590)は「上をそそうに、下を律儀に(表面は粗相であっても内面は丁寧に)」(『山上宗二記』)と言っていた。もっとも、千利休(1522-1591)などは「麁相」であることを嫌っていたから必ずしも同義とは言い難い。しかしこの時代の茶の湯では、わびしさが単に粗末であるというだけではなく、美的に優れたものであることに注目するようになっていった。 侘の語は、先ず「侘び数寄」という熟語として現れた。これは「侘び茶人」つまり「一物も持たざる者、胸の覚悟一つ、作分一つ、手柄一つ、この三ヶ条整うる者」(『宗二記』)のことを指していた。「貧乏茶人」のことである。宗二は「侘び数寄」を評価していたので、侘び茶人すなわち貧乏茶人が茶に親しむ境地を評価していたといえる。千宗旦(1578-1658)の頃になると侘の一字で無一物の茶人を言い表すようになり、やがて茶の湯の精神を支える支柱として侘が醸成されていったのである。 ここで宗二記の「侘び」についての評価を引用しておこう。「宗易愚拙ニ密伝‥、コヒタ、タケタ、侘タ、愁タ、トウケタ、花ヤカニ、物知、作者、花車ニ、ツヨク、右十ヶ条ノ内、能意得タル仁ヲ上手ト云、但口五ヶ条ハ悪シ業初心ト如何」とあるから「侘タ」は、数ある茶の湯のキーワードの一つに過ぎなかったし、初心者が目指すべき境地ではなく一通り茶を習い身に着けて初めて目指しうる境地とされていた。この時期、侘びは茶の湯の代名詞としてまだ認知されていない。 一般に「わび茶」の創始者と言われる室町時代の村田珠光(1422-1502)は、当時の高価な「唐物」を尊ぶ風潮に対して、より粗末なありふれた道具を用いる方向に茶の湯をかえていった。珠光は浄土宗の僧侶であり、臨済宗の僧一休宗純(1394-1481)の下に参禅し禅の思想に触れた。そして、禅と同様、「茶の湯を学ぶ上で一番悪いことは、我慢(慢心)我執の心を持つことである」(倉澤行洋『珠光―茶道形成期の精神』p.43「心の文」より 淡交社 2002)として、禅と茶の一致を説いた。いわゆる茶禅一味である。その方向を、武野紹鴎(1502-1555)や千利休に代表される堺の町衆が深化させたのである。彼らが侘について言及したものが残っていないため、侘に関しては、彼らが好んだものから探るより他はない。茶室はどんどん侘びた風情を強め、「床壁の張付を取り去って土壁とし、木格子を竹の格子とし、障子の腰板も取り去り、床のかまちが真の漆塗りであったのを木目の見える程度の薄塗りにするとか、またはまったく漆を塗らずに白木のままにした。」(『現代語訳 南方録』「棚 一茶室の発達」p.225-226熊倉功夫 中央公論社 2009)張付けだった壁は民家に倣って土壁」『南方録』)になり藁すさを見せた。茶室の広さは「4畳半から3畳半、2畳半に」、6尺の床の間は5尺、4尺へと小さくなり、塗りだった床ガマチも節つきの素木になった。紹鴎は日常品である備前焼や信楽焼きを好み、日常雑器の中に新たな美を見つけて茶の湯に取り込もうとした。このような態度は、後に柳宗悦(1889-1961)等によって始められた「民芸」の思想にも一脈通ずるところがある。 一方、 利休は自然で無駄のない楽茶碗を新たに創出させた。 侘は茶の湯の中で理論化されていったが、「わび茶」という言葉が出来るのも江戸時代である。江戸時代には多くの茶書が著され、それらによって、茶道の根本美意識として侘が位置付けられるようになった。武野紹鴎は侘を「正直に慎み深くおごらぬ様」と規定している。(桑田忠親『日本茶道史』p.129-130「紹鴎侘びの文」より 河原書店、1975) 一時千利休の秘伝書と目された『南方録』では、侘が「清浄無垢の仏世界」(前出『現代語訳 南方録』「滅後 二茶の湯の将来」p.650)と示されるまでになる。『南方録』は全篇で「わび茶の心」(同書「はじめに」p.1)が語り続けられているが、その冒頭には、「小座敷の茶の湯は第一に仏教の教えをもって修行し悟りをひらくものである。…こういうことは全て釈迦や祖師のやってきた修行であり、そのあとをわれわれが学ぶことである」(同書「覚書 一わび茶の精神」p.15)との利休の言葉が記される。 岡倉覚三(天心)(1863-1963)の著書『The Book of Tea(茶の本)』の中では「茶道の根本は‘不完全なもの’を敬う心にあり」と記されている。この“imperfect(不完全なもの)”という表現が侘をよく表していると言える。英語で書かれた同書を通じて侘は世界へと広められ、その結果、日本を代表する美意識として確立されていった。 大正・昭和時代には茶道具が美術作品として評価されるようになり、それに伴って、侘という表現がその造形美を表す言葉として普及した。柳宗悦(1889-1961)や久松真一(1889-1980)などは高麗茶碗などの美を誉める際に侘という言葉をたびたび用いている。
※この「侘」の解説は、「わび・さび」の解説の一部です。
「侘」を含む「わび・さび」の記事については、「わび・さび」の概要を参照ください。
侘
「侘」の例文・使い方・用例・文例
- 私はそこに侘び寂びを感じました。
- なるべく考えまいとは思っていたのだが、自覚をしてしまうと途端に侘しいような気持ちにもなってくる。
- あなたがいなくなったら、この世は本当に侘びしくなるわ。
- 侘しき思い
- 侘びしき住居
- 侘しき暮らし
- 侘しく暮らす
- 侘しい住居
- 侘しく思って嘆く
- 侘びしげな事柄
- 侘びしそうな印象を与える言葉
- 侘助という植物
- 貧しくて侘しい暮らし
- 俗世間を離れた侘しい暮らし
- 俗世間を離れた侘しい家
- 侘び茶という,佗の境地に重きを置いた茶道
- 一人侘びしく寝ること
- 侘びしくつつましやかに暮らす人
侘と同じ種類の言葉
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