仮処分申請までの経緯
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「千日デパートビル火災民事訴訟」の記事における「仮処分申請までの経緯」の解説
千日デパートは火災発生翌日の14日から全館で休業状態になった。同デパートの罹災した171店舗のテナントは、早期の営業再開を実現するために同日「千日デパート罹災業者復興対策委員会(以下「復興対策委員会または復興委」と記す)」を結成した。復興委は営業再開へ向けた準備のために役所や金融機関を回って陳情した。15日の復興対策委員会総会に千日デパートの経営会社である日本ドリーム観光・常務取締役を兼務するデパート店長が出席し「デパートビルの復興に全力で取り組み、一日でも早い営業再開を目指す」という意向を表明した。しかし、それからわずか3日後の18日の復興委メンバーとの面会でデパート店長は態度を一変させた。復興委との交渉において日本ドリーム観光は「テナント(ニチイ千日前店)が火災を起こしたのだから我々こそが被害者である」と主張した。また失火元のニチイ千日前店店長も17日の復興委総会に出席して挨拶したが「火災は工事業者(O電気商会)の失火である」ことを強調し、自社の責任を否定した。ニチイは、復興委と合同で「特別合同委員会」を設立し「店舗の復興とその方法を考えたい」とする見解を示した。またニチイは20日の復興委総会において道義的責任から「見舞金5,000万円」を提示したが、復興委側は提案を拒否し、金額については引き続き交渉するとした。日本ドリーム観光の態度が協力的姿勢から対立姿勢へ変化した理由は、火災発生の責任が自社に及ぶことを警戒し始めたからだと考えられた。 復興対策委員会は日本ドリーム観光に対し、団体交渉などを通じて早期営業再開の度重なる要望をおこなった。しかし同社は、当初表明していた早期営業再開の方針を大きく変えようとしていた。6月下旬、デパートの営業再開に向けて「首相官邸」や「関係省庁」、大阪府や大阪市の各役所、大阪市消防局、大阪府警などに陳情する復興委の行動を知った日本ドリーム観光・代表取締役社長の松尾國三は「そのような行動があるならデパートの営業再開はしない」と方針を一変させ、デパート店長は社長の方針転換を復興委メンバーに告げた。その方針に対して一部の復興委メンバーは反発し、7月1日深夜にデパート店長を自宅近くで待ち伏せ、日本刀を片手に店長を脅して拉致した。そして千日デパートから程近い喫茶店内に設置された復興委本部で約8時間にわたり店長を監禁状態にして休業補償を要求し、書類に署名するよう強要した。「店長監禁事件」をきっかけに、日本ドリーム観光側の態度が硬化し、復興委内部の足並みが乱れ始めた。復興対策委員会は、早期営業再開を求めるのと同時に休業期間中の補償を求めていたが、日本ドリーム観光の回答は「当社に失火責任は無く、ビルが使用できるかは調査中であり、その目途は立っていない。補償交渉には当分応じない」というものだった。これに対し復興委は反発し「民法上もビル所有者の責任は当然ある」として早期営業再開と休業補償に応じなければ街頭などで抗議行動を起こすと表明した。 話し合いにも説明にも応じない日本ドリーム観光に業を煮やした復興対策委員会は、7月10日午前に集会を開いた後、午後から340人の参加者が主張や要求が書かれた「むしろ旗」150本を掲げ、御堂筋ミナミ界隈を3時間に亘りデモ行進した。一行の代表は新歌舞伎座(1958年竣工・難波新地5番町)の中にある日本ドリーム観光本社で幹部に面会を申し入れたが叶わず、その後に新歌舞伎座の前で抗議活動をおこなった。デモ行進翌日の午後、千日デパートビルの1階南側外周部に入店している13店舗が営業を再開した。ビルの使用許可が大阪市から下りていない中での強硬再開だった。これに対して日本ドリーム観光は営業中止を勧告したが、テナント側は「死活問題だ」として拒否した。復興対策委員会は、早期営業再開要求などの長期闘争に備えて日本ドリーム観光の保有株の一部を取得し「一株運動」を展開した。7月17日までに総株数1億5,200万株のうちの1万5,000株を取得したうえで名義変更をおこない、9月末の株主総会に出席し、日本ドリーム観光側の責任を追及すると表明した。 店長監禁事件とデモ行進後の7月中旬に日本ドリーム観光は、罹災テナントに対して話し合いで解決したい旨を申し入れてきた。右同社は社長の松尾國三との会談をおこなうにあたり、テナント側の出席者を一方的に指名した。復興対策委員会メンバーは、いくつものテナント団体が集結して結成されていたが、主要な各団体からはそれぞれ代表者1名のみが指名された。ところが「店長監禁事件」を起こしたメンバーが所属するテナント団体と復興委は代表者が指名されなかった。これに激怒した復興委側は、各テナント団体を解散させ、店長監禁事件を起こしたメンバーが率いる団体へ一本化するために各会員らを強制加入させようとした。その動きに対してテナント団体の一つである「松和会(しょうわかい)(37名)」は解散要求に応じず、テナント団体同士の対立は深まっていった。松和会は8月20日に総会を開き、復興委から再三にわたり解散要求を突きつけられたことから、この出来事を機に復興対策委員会を正式に脱会することを決議した。松和会役員は、非公式ながらデパート店長に面会し、独自に日本ドリーム観光と交渉する承諾を得ることに成功した。松和会が脱会した後に復興対策委員会は二つのグループ「旧千日デパート罹災業者復興対策委員会(62名)」と「新千日テナント会(61名)」に分裂した。 9月28日に日本ドリーム観光の「第百回定時株主総会」が大阪府立体育館で開かれた。総会には旧復興対策委員会メンバーの「一株株主」約300人が出席した。総会で発言した代表取締役社長の松尾國三は、遺族補償について「ニチイとO電機商会が中心になり、火災関係4社で補償について折衝してきた」ことを報告したあと、ニチイを批判したうえで「ビルの所有者だからといって被災したテナントに休業補償する考えはない。全国のビル業者のためにも譲れない。たとえ裁判に持ち込まれても最高裁まで徹底的に争う方針だ」と述べた。またデパートビルの復旧については「ビルの耐力診断を建設省建築研究所に依頼しており、その結果が今月末(9月末)にも判ることから、それを待って復旧対策を立てる」と述べた。テナントに対する休業補償については、社長の口からはっきりと拒否の姿勢が示されたことで「一株株主」たちは激しく抗議したが発言は封じ込められ、総会は1時間ほどで終了した。株主総会に出席した旧復興対策委員会メンバー代表は、日本ドリーム観光との営業再開の交渉が進展しない中で今後の方針として「これ以上交渉しても望みはないので民事訴訟を起こすつもりだ」と表明し、争点を法廷に持ち込む構えを見せ始めた。ニチイに対しては「ビル復興後に補償交渉に入る約束だったが、復興の目途が立たないので早急に交渉に入りたい」と述べた。一方、松和会はあくまでも話し合いによる解決を模索した。 火災発生から5か月、株主総会から1か月が経った10月下旬、日本ドリーム観光から各テナントの経営者に対して一通の内容証明郵便が送られてきた。その内容を要約すると、おおよそ以下のようなことが書かれていた。 (要約)大阪市建設局の指示に従って千日デパートビルの体力診断を「建設省建築研究所」に依頼したところ、火災の影響によって建物の耐用年数が非常に短縮されたという結果が出た。同ビルを改修または補強するなどして再使用するとなれば、新築するのに等しい工期と資金を要するにもかかわらず、経営面からみれば売場減少による収益の悪化は避けられず、莫大な資本を投下しても資金を回収することは明らかに不可能であり、したがって同ビルは物理的または経済的に滅失したと判断できる。よって同ビルを新しく建て替えることになったので、従来の各テナントの賃貸借契約は火災当日で終了した。契約が終了したので入店時に与った保証金と振興協力金は清算したうえで各テナントに返却する。新ビルが落成した際には、保証金と振興協力金持参で入店申込できる。ただし、建物の設計ができていないので場所や坪数、新賃貸条件をまだ明示できない。このような事態になったのは第三者による重失火の結果である —日本ドリーム観光株式会社 代表取締役社長 松尾國三、現場に神宿る2006 日本ドリーム観光は、千日デパートビルを営業再開するにあたり大阪市建設局から「公的機関にデパートビルの耐力診断の調査を依頼し、補修するか改築するかを決定せよ」と命令され、それに従い「建設省建築研究所」に調査を依頼していた。調査の結果は「受託試験研究報告書」にまとめられ、その結果を基に日本ドリーム観光が示した判断は「火災によって建物は火害を受け、物理的にも経済的にも滅失した」というもので、千日デパートビルを建て替える決断が下された。そのことによって各テナント経営者に対して「契約解除」を通告する内容証明郵便が送られてきたのだった。罹災テナントは、家主からの一方的な通告によって千日デパートビルの賃借権を失い、早期営業再開の望みが絶たれてしまった。キーテナントであるニチイ千日前店も「火災の責任は、右同社の防災上の不注意によるものである」とする日本ドリーム観光の主張により、保証金4億円の返済無しで賃貸借契約解除を通告された。 1972年11月15日、デパートビル建て替え計画による賃借権喪失の事態を受けて、二つに分裂した復興対策委員会のうち、旧復興委グループに所属する一部会員が日本ドリーム観光を相手取って賃借権確認の訴訟を起こした。復興委から分裂した新千日テナント会は、日本ドリーム観光との交渉で千日デパートビルの建て替え計画に同意した。一方の松和会は、弁護士の中坊公平によって内容証明郵便に対する回答文を作成し、差出人を松和会会員の各個人名にして日本ドリーム観光に返信した。以後、日本ドリーム観光と交渉するにあたり、中坊弁護士が松和会の代理人を務めることになった。 松和会は、社長の松尾國三と直接交渉する際、いくつかの要求を提示した。 新ビル建設の場合は、松和会会員に賃借権を保証すること。 新ビル入店後の賃料は他店と同額で良いが、休業損害分を家賃から控除し、その割合を話し合うこと。 商品などの損害を即時弁償すること。 しかし日本ドリーム観光側は、保安管理契約の存在および保安管理契約に基づく債務不履行の責任と損害賠償責任について認めようとせず、交渉は進展しなかった。松和会側が右同社の求めに応じて保安管理責任の根拠を具体的に示したところ、同社常務取締役のデパート店長は交渉を中断して席を立ってしまい、交渉は決裂した。それ以降、同社の態度は更に硬化した。日本ドリーム観光は松和会に対して何度か和解案を提示してきたものの、同会としては、自分たちの要求を無視するかのような内容で到底応じることができないものだった。この頃、日本ドリーム観光に対しては、旧復興対策委員会の一部メンバーが提起した賃借権確認訴訟のほかに、ニチイは賃借権妨害予防に関する仮処分申請を出していた。仮処分申請を受けて日本ドリーム観光はニチイに対して損害賠償訴訟を提起し、ニチイは反訴で日本ドリーム観光を提訴した。また火災被害者遺族が日本ドリーム観光を含む火災関係4社を相手取って損害賠償請求訴訟を提起していた。千日デパートビル火災を巡る民事訴訟は、徐々に「訴訟合戦」の様相を見せ始めた。日本ドリーム観光は、1973年に入ってからニチイや被害者遺族、旧復興委メンバーから損害賠償請求訴訟を提起されて既に被告となっていたが、その最中にも千日デパートビルの再建計画を着々と進めていた。右同社は、1973年4月から工事に取り掛かり、1975年春までには新ビルを完成させる方針を明らかにした。総工費は50億円で地下3階、地上9階から10階建ての賃貸形式の商業ビルを新たに建設し、旧テナントは基本的に全て新ビルに入店させる計画とした。ただし「ニチイ千日前店」については、訴訟係属中であることや火災責任の問題、感情的なわだかまりがあることなどから「新ビルへの入居を認めるのは難しい」とする見解を示した。また同社は「プレイタウン」などの風俗営業店を新ビル内で営業することは取り止めるとした。日本ドリーム観光から持ち上がった「デパートビル再建計画」の動きに対して被害者遺族で結成した「千日デパートビル火災遺族の会」52遺族135名は、千日デパートビルの証拠保全を大阪地裁に申し立てた。これにより、千日デパートビルの取り壊しは、当面の間できなくなった。 松和会は、本件火災によって店舗が被災し、営業再開の目途が立たない状態で交渉が長引けば、収入も無くなり各会員の生活が困窮するのは明らかであったため、中坊弁護士を団長とする6名の弁護士で構成される弁護団を結成した。そこで松和会は、和解交渉を有利にする切り札として1973年6月1日、日本ドリーム観光に対して会員1人当たり毎月10万円の生活費の支払を要求する仮処分を大阪地裁に申請した。毎月合計約360万円の支払い要求だった。ところが仮処分申請は緊急性がないと判断されて認められず、弁護団は同年9月14日に申請を取り下げた。松和会各会員の窮状を救う目的での申請だったが、一部の会員は千日デパート以外の店舗でも営業活動を続けており、そちらの収益があるだろう、と裁判所に判断された結果だった。
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