ロリコン漫画から美少女コミックへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 16:14 UTC 版)
「ロリコン漫画」の記事における「ロリコン漫画から美少女コミックへ」の解説
漫画評論家の永山薫は、ロリコン漫画の隆盛と三流劇画の敗北について、その形成要因と歴史的な意義について次のように語っている。 最初は全部ロリコン漫画だった。ロリコン漫画を語る上で、まず二〇〇五年に『失踪日記』(イースト・プレス)でカムバックした吾妻ひでおの名を挙げておかなければならない。吾妻が画期的だったのは、それまではつげ義春、宮谷一彦といった劇画作家が得意とした不条理文学的な表現や、三流劇画の専売状態だったエロティシズムを、児童漫画の丸っこい絵で描いてしまったことだ。当時はそれだけで強烈な異化効果があり、「児童漫画のエロパロディ」として誤読することも可能だった。 欲望の細分化はすでにこの時期から進行しており、それこそ一人一派ともいえそうなほどだった。八〇年代前半の『レモンピープル』と『漫画ブリッコ』のラインナップをざっと眺めるだけでも〔……〕それぞれの作家の属性はバラバラで、初期のロリコン漫画は「美少女さえ出てくれば何をやってもロリコン」と認証されていたわけだ。エロス以上に「可愛い少女キャラ」が最優先で、エロスは主に内山、村祖、中島史雄らの三流劇画経験者が担当していたが、それとても具体的で露骨な性的行為描写は抑えられており、現在の目で見れば一般青年誌の方がよほどセクシャルに映るだろう。なにしろ当時はレイプやハードなセックス場面があると読者から「ひどいことをしないで下さい」という抗議が来たほどで、読者の側が求めていたのも実はセックスシーン満載のエロ漫画ではなく、可愛くてエッチな漫画だったわけだ。 そもそも初期のロリコン漫画の中核にあったのは手塚ミームの「かわいい」と「エロティシズム」であり、「セックス」は「かわいいエロティシズム」に奉仕する構成要素の一つでしかなかったのだ。 セックス志向であれば三流劇画を読めばいい。しかし、三流劇画は結果的にポスト団塊/ポスト全共闘世代のスタンダードにはなれなかった。端的にいえば、劇画は漫画じゃなかったからだ。アニメ絵っぽくなかったからだ。可愛くなかったからだ。 後にオタクと呼ばれることになる六〇年代生まれの世代は劇画のエロティシズムに官能するような「大人」にはならなかった。セックスそのものではない、セックスの周辺にもやもやと甘く切なく愛らしく漂うなにものかを求めていた。 エロ漫画におけるネオテニー(幼形成熟)と呼んでもいい。手塚漫画やアニメ絵の、つまり「幼児形態」を保ちつつ、性的刺激をもたらすこと。倒錯した表現になるが、初期ロリコン漫画の登場こそが、真の意味で「大人が漫画を読む時代」を確定したともいえるだろう。 しかし、その一方でロリコン漫画から派生した美少女コミックが80年代後半以降、急速に大衆化・商業化・肥大化して行く過程で森山塔などセックスに特化した次世代のエロ漫画が人気を博すようになり、美少女漫画の始祖的存在であった吾妻ひでおは読者からのプレッシャーに耐えきれず、二度の失踪事件や自殺未遂を私生活で起こすなど初期のロリコン漫画を支えた先駆的作家の多くは世代交代の波に揉まれるなどして消えていくことを余儀なくされた。 「夜の魚」および「失踪日記」も参照 ロリコン漫画界では最古参の谷口敬も「まあ、これで谷口敬の役目は終わったのでありましょう。もはや初期のロリコン漫画の実験的な雰囲気は薄れ、マイナーなものがメジャーへと躍り出るとき、どうしても数の多い方へと移行せざるを得ないのは自然なことであります。『ロリコン漫画』がエロ主体の『美少女コミック』に変質していった、そんな時代でありました…」と行き場を失った当時の状況を述懐している。 美少女コミックとは、1980年代にロリコン漫画から派生した漫画のジャンル。美少女コミック研究家の稀見理都は「時代と共に変化する不定系の言葉」と前置きをしたうえで「美少女キャラクターをストーリーの中心に据え、彼女たちの美しさ、愛らしさ、健気さ、たくましさ、などの活躍を描くマンガの総称」と定義している。ちなみに「美少女コミック」という名称の名付け親は吾妻ひでおとされ、日本初の美少女コミック誌『レモンピープル』(あまとりあ社)1982年6月号から用いられるようになった。なお同誌は創刊当初「ロリコン・コミック」を自称していたが、この名称が気に入らなかった吾妻が「美少女コミック」と言う名称を提案し、採用されたと言われている。 大塚英志は「吾妻ひでおが忘れられた理由」について1992年に太田出版から刊行された『夜の魚』の解説で以下のように述べている。 吾妻ひでおは私たちが置き去りにしてきた作家である。いや、置き去りにされることの望んだのは吾妻ひでおのほうかもしれない。どちらにせよ私たちは吾妻ひでおを忘れることで八〇年代のあの狂おしくもばかばかしい狂騒を生きていたことだけは確かだ。誰もが気づいていたことだが、ただ一人、吾妻ひでおだけが八〇年代の不毛と不可能性をあらかじめ体現し、そして黙って時代から降りていったのである。〔……〕もっと器用に気軽に全てやりすごしていいはずなのに吾妻ひでおは行き詰まり、私たちはそんな彼から目をそむけ、そして忘れた。〔……〕多くの人々がそうであったようにこの種の流行にさりげなく身をゆだねれば吾妻は八〇年代をそれなりの「カルト作家」として生きられたはずである。しかし吾妻が不幸だったのはこれらの不毛な諸現象が自分の中のどこから立ちあらわれるのかを彼が知っていた点にある。ただ不毛と気軽に戯れることに終始した時代にあって、その不毛の出自を知っている作家はやはり忘れなれなくてならなかったのである。本書の表題となった『夜の魚』は吾妻が見てしまい私たちが顔をそむけたものをめぐって描かれている。そして吾妻しかそれを描き得なかった以上、そんなことは免罪符にならないが、八〇年代の不毛と未だ地続きのこの時代に編集者であり続けるぼくは自分で始めて持つレーベルの最初の配本として『夜の魚』を流通させる。 — 大塚英志「吾妻ひでおを再び「流通」させる理由」より抜粋 やがて『シベール』が蒔いたロリコン漫画の種はアニメ調の明るくポップな絵柄で描かれる実用的な「美少女コミック」へと一般化する過程で拡散・消滅し、コミケにおける男性向け同人誌の主流ジャンルなども「ロリータ」の範疇から大きく外れた「美少女もの」や「アニパロ」などになっていく。明治大学准教授の森川嘉一郎によれば『シベール』を起点とするこの潮流と併行してコミケの規模拡大とともに、それまで継続的に展開されていたエロパロ系の同人誌から美少女コミック誌やエロゲーメーカーへの描き手の供給が拡大していき、次第に一般誌のみならず秋葉原の屋外広告物といった街の景観レベルで美少女(萌え)キャラが露出・展開されるようになっていったという。 永山薫はロリコン漫画ブームの顛末について、のちに人口に膾炙して大衆化する「おたく文化」「萌え文化」の前哨戦として位置づけている。 学園祭でテーマをでっち上げて、盛り上がるのと似た構造だが、違うのは「ロリコン祭」を支え、展開した初期オタクたちの背後には、巨大なマーケットとなるオタク世代が控えていたことだ。オタク世代が大学生となり、あるいは社会人となって可処分所得が増加するのと並行してマーケットは倍々ゲームで膨らんでいく。文字通り「終わりなき学園祭」の時代が始まったのだ。 ロリコン漫画は起爆剤として有効だったが、ありがたいことに偏狭なロリコン原理主義はほとんど存在しなかった。元々、「ロリコン」は「お祭りのテーマ」にすぎなかったからだ。祭りが終われば、神輿は倉庫に収納される。ロリコン漫画ブームはたかだか二年も続かずに下火になってしまう。とはいえ、ロリコンは充分に役目を果たした。漫画読者の注目を集め、新しいエロ漫画の可能性をプレゼンテーションすることができた。雑誌が増え、作者が増え、読者が増えれば、ありとあらゆるものが拡大していく。 元々ペドファイルでもなんでもなかった読者の九九・九%は、あっさりと次の波に乗る。〔……〕エロ漫画の歴史ということを考える上で、重要なのは「一度生まれたモード、スタイル、テーマ、モチーフ、趣味趣向、傾向は盛衰があっても決してなくならない」ということだ。どんなに時代が進んでも、相変わらずベタなロリコン漫画は存在するし、明朗な巨乳ラブコメもなくならない。年を追うごとに、エロ漫画は多様化し、細分化し、幅と奥行きが拡がり、交雑し、越境し、浸透し、拡散することを繰り返すことによって豊穣な土壌を形作っていく。
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