ロリコンブーム到来
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1981年10月、『突然変異』2号掲載の「六年四組学級新聞」を見た高取英の紹介 で白夜書房の男性向け総合月刊誌『ヘイ!バディー』の高桑常寿編集長 から原稿依頼があり、同誌12月号の特集「少女の時代」にロリータ記事「HOW TO LOLITA」を寄稿、これが商業誌デビューとなる。 同誌1982年2月号からは『突然変異』編集部の谷地淳平と共同で「6年4組学級新聞」の連載を始める。連載中に同誌もロリータ総合情報誌に路線変更し、ロリコンブームの主翼を担うことになる。この連載は1982年9月号まで続き、10月号からは「Flesh Paper」(肉新聞)に改題する。内容もロリータから大きく外れ、ドラッグやフリークス、カルトムービーの紹介など青山独自の路線となった。また本誌以外にも『ロリコン大全集』『ぺぴ』『VIDEOロリータ』『ロリータスナイパー』『ロリータスクランブル』『にんふらばあ』『なおこちゃん』など各ロリコン誌で執筆活動を行う。 1982年8月に発売された日本初のロリータビデオ『あゆみ11歳 小さな誘惑』ではヒロインに懸想する青年役として出演する。青山によると、3万円という高額なビデオにも関わらず4000本が即完売したという。 大学卒業後は自然食品メーカーやソフトウェア会社でプログラマーとして働くなど転々とするが、1984年11月よりフリーライターとして独立する。 その後はスーパー変態マガジン『Billy』(白夜書房)や『にんふらばあ』(麻布書店)などに原稿を書きながら、1985年春創刊のスカトロ系エロ雑誌『フィリアック』(求龍社)で編集長を務めたほか、『スカトピア』『スカトロスペシャル』『コプロラビア』『フィーメール』『MASPET』など各スカトロ誌でも執筆活動を行う。 しかし、主な活躍の場であった『ヘイ!バディー』が1985年11月号をもって廃刊となり、青山もロリコンライターを事実上廃業する。なお『ヘイ!バディー』廃刊の原因は増刊『ロリコンランド8』に掲載された少女の無修正ワレメ写真がわいせつ物と判断され発禁回収処分となり、性器の露出が許されなくなった為である。1987年には児童エロチカの最後の砦であった少女ヌード写真集『プチトマト42』が警視庁から摘発され発禁となり、第1次ロリコンブームは終焉を迎えた。
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