プロレス転身とは? わかりやすく解説

プロレス転身

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:59 UTC 版)

力道山」の記事における「プロレス転身」の解説

その後二所ノ関部屋後援者新田新作社長務め当時横浜市本牧本社があった新田建設資材部長として勤務次男の光雄によれば建築現場監督をしていた」という。ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身日系人レスラーハロルド坂田トシ東郷)と知り合い意気投合した(「プロレス修行」の項参照)。1951年9月30日から、アメリカフリーメイソン慈善団体シュライン英語版)(フリーメイソン#関連団体参照)」が、当時日本占領下置いていた連合国軍への慰問障害者チャリティー兼ねて母国からボビー・ブランズら6人のレスラー招きプロレス開催していたが、坂田もこの一員だった。力道山坂田勧め練習を見に行きプロレス転向決意し港区にあったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになった1952年2月アメリカ渡りホノルル日系人レスラー沖識名の下で猛特訓受けた翌年帰国して新田新作興行師永田貞雄助力得て日本プロレス設立するシャープ兄弟招聘し、1954年2月19日から全国14連戦した初興行は、1953年テレビ放送始まったことに追い風を受け、全国民支持受けてブームとなる。この興行シャープ兄弟組と戦う時の力道山タッグパートナーは、戦前戦中日本柔道史上最強謳われる木村政彦だった。しかし、木村相手の技を受ける等のプロレス独特のスタイル適応できず、シャープ兄弟との戦いでいつも負け役を担わされ、その木村力道山空手チョップ救いだし、相手レスラーを倒すという一連の展開に嫌気がさし、力道山との間に亀裂が入るようになった。 後に木村力道山とは袂を分かち自身団体興行を打つものの、観客動員芳しくなく、金銭的に窮地陥った木村朝日新聞記者に「力道山プロレスジェスチャーの多いショーだ。真剣勝負なら負けない」と挑戦表明した。この一連の流れが「昭和の巌流島といわれる謎の試合繋がっていった。 1954年12月22日力道山挑戦応じ相撲が勝つか柔道が勝つか」と騒がれプロレス日本ヘビー級王座決定戦が行われた。この試合は、力道山側によるレフェリーハロルド登喜」の選定木村側のみ当身禁止という力道山側に有利なルール行われた。しかし、木村側の証言によれば、本来この試合は、あくまで勝敗決まったプロレスであり、東京をはじめ、大会場で両者勝敗繰り返しながら全国巡業する予定であったという。しかし、初戦木村急所蹴り激怒した力道山突如殴りかかり、そのまま張り手執拗な蹴り連打で、戸惑ったままの木村政彦そのままKO倒れた木村大量の血を吐きマットには大きな血だまりができた。この通常のプロレスと違う顛末観客たちも驚き会場静まりかえったという。この力道山激怒したとされる急所蹴りについて、幾つかのスポーツ紙においては力道山木村の胴へ右足裏での飛び蹴り浴びせたことが由来とする報道もあり、鮮明な映像がない当時の記録では、事の詳細不明となっている。後日力道山木村試合前に渡したと言われる1試合目は引き分けと書かれた念書マスコミ公開し、この試合いわゆる八百長崩れであった証言する後年力道山木村仲介人得て和解するものの、21世紀になる今日でも当時試合舞台裏については謎が多く様々な憶測意見出されることで、この試合モチーフとし書かれ小説エッセー等が存在する近年では、ノンフィクション謳う増田俊也著の 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』が主に木村視点での綿密な取材行いヒットしたことで話題となった1955年キングコング破ってアジアヘビー級王座獲得同年横綱東富士プロレス転向した。この時期には、後援者であった新田氏力道山押さえ日本プロレス実質的に手中におさめようとする動き など、力道山とっていくつかの危機があった。特に厳しかったのは、第1次プロレスブームが去ったことである。1957年頃は客が入らず地方巡業では金の未払いもあった。そんななかで、1958年ロスアンゼルスルー・テーズ破ってインターナショナル・ヘビー級王座獲得。これによって下火になったプロレスブームに一気に火がついた。1959年には第1回ワールド大リーグ戦開催し優勝するワールド大リーグ戦その後1963年まで連続優勝1962年フレッド・ブラッシーのNAWA世界王座挑戦奪取とみられたが、その後クレーム付き保留新たに初代WWA世界ヘビー級王者と「追認」された(WWA世界ヘビー級王座は、当時NWA世界ヘビー級王座から分裂していた王座である)。力道山ルー・テーズパット・オコーナーカール・ゴッチのようなストロングタイプともジェス・オルテガフレッド・ブラッシーのような悪役怪物タイプとも名勝負残しているが、後者の方が手が合ったようである。 1958年4月力道山慕って韓国から密入国して横浜逮捕され金一を、後見人である自民党副総裁大野伴睦政治力日本在住認めさせ、門下生にし、大木金太郎リング名与えたが、大木には韓国名を用いることを厳禁した。 1963年1月韓国側招き韓国訪問し金浦空港体育協会レスリング関係者60人に出迎えられた。記者会見で「20年ぶりに母国訪問でき感無量です。長い間日本語ばかり使っているので、韓国語はさっぱり…」と言い最後にカムサ・ハムニダありがとう)」と付け加えた。その模様を『東京中日新聞』が「力道山二十年ぶりに母国へ」の見出し写真入り掲載したところ、これまで朝鮮半島出身であることを隠し続けていた力道山は、帰国後これを知り新聞激怒したという。 1963年5月24日東京体育館行われたWWA世界ヘビー級選手権ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64.0%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。なお、この試合では、「四の字固め完璧に決められ力道山が」ギブアップすることなく戦い続けたものの決着がつかず、「両者試合続行不可能と判断したレフェリーによって、引き分け」とされた。そして、「試合後、自らの力ではからみあった足を解けぬ両者リング・シューズヒモ」を若手レスラーハサミ切って引き離したという。 1963年12月8日午後10時30分に、遊興中の赤坂ナイトクラブニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家傘下大日本興業構成員であった村田勝志と、足を踏んだ踏まない、で口論になり、馬乗りになって殴打したところ、村田に下から登山ナイフ腹部刺された。だが、自ら持ちかけた喧嘩ということもあり警察沙汰にはせず、知り合い医師勤め山王病院入院手術無事に成功するが再び体調悪化し12月15日化膿性腹膜炎死去した39歳没(諸説あり)。戒名大光院力道日源居士墓所東京都大田区池上本門寺の他に、故郷長崎県大村市長安寺にある百田家の墓所分骨されている。

※この「プロレス転身」の解説は、「力道山」の解説の一部です。
「プロレス転身」を含む「力道山」の記事については、「力道山」の概要を参照ください。

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