プロレタリア作家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 04:12 UTC 版)
「宮本百合子」の記事における「プロレタリア作家として」の解説
1927年12月から湯浅と共にソ連へ向かう。共産主義への傾倒をますます深めた。映画監督のセルゲイ・エイゼンシュテインらと親交をもった。この時期にソ連やヨーロッパを訪れていた映画監督の衣笠貞之助や帰国後前進座を旗揚げする四代目河原崎長十郎らとも親交をもつ。西欧旅行などを経て1930年11月帰国。翌月日本プロレタリア作家同盟に加入、プロレタリア文学運動に参加し、1931年、日本共産党に入党。翌年、文芸評論家で共産党員でもあった9歳年下の宮本顕治と結婚したが、まもなくプロレタリア文化運動に加えられた弾圧のために顕治は非合法活動に従事することとなり、夫婦での生活期間は短かった。1933年、顕治が検挙され、スパイ査問事件の主犯であるとして裁判にかかることになった。『文芸』1934年12月に評論「冬を越す蕾」、『文学評論』1934年12月に「1934年度におけるブルジョア文学の動向」を発表。百合子は翌年正式に顕治と入籍して、中條から宮本へ改姓。1937年、獄中の顕治から筆名も宮本姓に変えるよう提案され、考えた末数ヵ月後、日中全面戦争開始後に獄中との連帯の意味もこめて宮本百合子に筆名を変えた。
※この「プロレタリア作家として」の解説は、「宮本百合子」の解説の一部です。
「プロレタリア作家として」を含む「宮本百合子」の記事については、「宮本百合子」の概要を参照ください。
- プロレタリア作家としてのページへのリンク