無産運動の旗手として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/13 00:27 UTC 版)
帰国後の1919年に日本交通労働組合へ入り、同組合理事長として東京市電争議を主導するが、治安警察法違反により検挙投獄となる。労働関係ではこの他、東京市電従業員交通労働組合委員長や大阪市電従業員交通労働同盟組織顧問などを歴任。 1922年2月、新聞記者時代に投獄された際の体験を綴った小説『赭土に芽ぐむもの』を改造社より上梓し、文壇デビューも果たす。以後も精力的に健筆を振るい、プロレタリア作家としての地位も確立。「種蒔く人」の同人でもあった。 1930年2月に行われた衆院選に東京6区(東京無産党公認)から、1937年の東京市会議員選挙で世田谷区(労農無産協議会)からそれぞれ立候補するが、いずれも落選。市会議員選落選の翌年12月には、労農派第1次人民戦線事件で検挙され、約2年間の留置場生活を余儀なくされる。こうして、戦前は計3度投獄されたものの非転向を貫き、戦時中も時局に迎合する作品を発表することは無かった。
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