無産市民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 04:37 UTC 版)
紀元前312年には、これまで土地を持っていた市民のみを登録していたトリブスに、土地を持たない解放奴隷などの無産市民も登録することを決定したが、紀元前304年に、無産市民は4つの都市トリブスのみに登録されるように変更される。この方針は紀元前220年に再確認されたが、紀元前2世紀にはケントゥリアの第1・第2クラシスに相当する資産を持った解放奴隷は農村トリブスへの登録が認められるようになっていた。しかし紀元前168年には、ケンソルの一人が解放奴隷・無産市民のトリブスからの追放を主張し、結果として解放奴隷や無産市民はくじ引きで決定した都市トリブスのうちのひとつに登録されるようになる。そうしたことから、農村トリブスに比べ都市トリブスは劣ったものという認識がなされるようになっていった。ただ、都市トリブスでも解放奴隷や非嫡出子が多く登録されていたコッリナ区とパラティナ区には、同時にエクィテスや元老院議員、果てはパトリキの家系も登録されていたという指摘もある。 その後も解放奴隷に市民権を与えることで自己の権力の源にしようという扇動政治家は現れるが、特に激しくなるのは内乱の一世紀に入ってからで、紀元前130年頃に無記名投票が導入されると解放奴隷の票のコントロールが効かなくなり、また紀元前58年に小麦の支給が無料化されたことによって、奴隷を解放して彼らに支給される小麦を差し出させる主人が続出した。穀物供給担当官だったポンペイウスは、激増した解放奴隷を把握するために調査を行う必要があったほどで、解放奴隷を煽り、市民権を与えることを約束して味方につけようとする護民官、ガイウス・マニリウスは、解放奴隷をその元主人と同じトリブスに登録することで都市トリブスでの票読みを激変させようとしたり、プブリウス・クロディウス・プルケルは一度は元老院によって解散させられた解放奴隷のギルドを復活させ、パラティナ区やコッリナ区の支持者からなる暴徒を政治に利用した。 スエトニウスによれば、カエサルは穀物無償受給者を32万人から15万人まで減らし、ギルドを解散して8万人の解放奴隷を海外の植民地へ送ったという。
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