トーンにまつわる伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 00:04 UTC 版)
「ウルフ・トーン」の記事における「トーンにまつわる伝説」の解説
19世紀の歴史家、ウィリアム・レッキーは「彼はこれまでのアイルランドでの退屈な陰謀をはるかに超えて鮮烈に立ち上がった。これまでの反乱のような安っぽく誇張されたレトリック、つまらない虚栄心や嫉妬、弱々しいセンチメンタリズム、全く釣り合わない手段と目的、それから現実を把握する能力の欠如は彼には全く無縁のものだった。彼の人物、それから物事についての判断は明快かつ熱意にあふれ、男らしかった。そして彼はまた判断力に優れ勇敢に活動した。」と評した。 彼の親しい友人や家族に向けた彼の日記は息子であるウィリアム・シオボルド・トーン(1791年 - 1828年)によって彼の死後に出版された。 トーンは1840年代ヤング・アイルランド(英語版)運動に「アイルランド共和主義の父」として中心的な人物に選ばれた。近代の共和主義者は次のような彼の言葉を引用する。 「私たちの忌まわしい政府の恐怖を打ち砕き、イングランドとのつながりや、すべての我々の政治的な害悪の源を断ち、我々の国が独立していることを主張すること、これが私の狙いだ。アイルランドの人々が団結し、過去のすべてのいざこざの記憶を捨て、プロテスタントや、カトリック、非国教徒の支配に代わってアイルランド人という旗のもとで集まるのが私のとる手段である」 「イングランドとの繋がりや、我々の政治的な害悪を断つためにプロテスタントやカトリック、非英国国教徒がイングランド人という名のもとで団結すること、これが私の目標である。」 「もし裕福な者が我々を支援しなかったら彼らは衰えるだろう。我々の強さは無産市民という偉大で尊敬に値する階級によるものなのだ」 毎年夏、様々な政党、非合法軍事組織のアイルランド共和国支持者らはキルデア県のボーデンストーンにあるトーンの墓で記念式典を開いている。1934年6月17日のベルファストからきたプロテスタントの共和国支持の会議のメンバーがこの式典の行進に参加しようとしたところIRAの管理者に妨害された。行進に参加したものは石を投げられ小競り合いが発生した。この争いは後に評論家に派閥主義的だと評され、共和国支持者らは、信教の別なくアイルランド人を団結させようとするトーンの目的を捨てただ自分自身の反英、共和主義感情を満足させるためにすぎない行為だと評した。しかし、ブライアン・ハンレーによるIRAの1926年から1936年までの歴史によると、この争いが起きたのは派閥主義的な理由からではなく、彼らが共産主義者に見えたからであるとしている。
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