ケンソルとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/12 09:57 UTC 版)
「アッピウス・クラウディウス・カエクス」の記事における「ケンソルとして」の解説
アッピウスは、第二次サムニウム戦争中の紀元前312年、ガイウス・プラウティウス・ウェノックスと共にケンソルに就任した。彼は下層階級の支持を得るために、いくつかの政策を打ち出した。まず、解放奴隷の息子をローマ市民とし、彼らが元老院に入れるようにした。さらに、土地を所有しない無産市民をトリブス民会に割り振り投票権を与えた。これらの政策は下層階級の不満を抑制し、戦争遂行のために必要な税金や労役を彼らに負担させることが可能になった。 しかしながら、これらの改革はアッピウスがプレブスと戦う上で支持者を増やすためとの考察もある。スエトニウスのティベリウス伝では、ドルススがクラウディウス氏族でイタリアを支配しようと画策したとの記述があるが、これは紀元前450年と紀元前249年の出来事の間に置かれており、ドルススではなくカエクスのケンスス(国勢調査)を指すものと考えられている。ディオドロスは、アッピウスが全市民に望み通りのトリブスとケントゥリアにおけるクラシス(階級)への登録を許可したとしているが、これに対する一般市民やパトリキの反感が相当のものであったことは、ディオドロスだけでなくリウィウスも記している。 リウィウスが「広場の徒党」と (苦々しく)呼ぶこれらの無産市民は、紀元前304年にケンソルを務めたファビウス・マクシムスによってローマ市内の4つの都市トリブスに押し込められる事になり、人々に非常に感謝されたファビウスはマクシムスの尊称を贈られたという。恐らくアッピウスは、ローマ市内だけでなく農村部に居住し、資産を蓄えつつあった解放奴隷を取り込むことで彼らの支持を集め、トリブス民会での影響力を増したが、彼らがケントゥリア民会や軍務の上で重要な地位を占めることはなかったと考えられている。 更にアッピウスの業績としては、ローマ帝国における全ての街道の模範であり「街道の女王」と称された、アッピア街道の敷設が挙げられる。加えて彼はローマ初の上水道であるアッピア水道をも建設しており、「インフラの父」と呼ばれるローマ人の中でも特筆されるべき偉大な人物といえる。ティトゥス・リウィウスによると、元老院議員の選出方法で恨まれたため同僚が辞職した後、一人で建設を成し遂げたという。 しかし、ユピテル神殿での儀式に欠かせない笛吹たちの権利を制限したため、彼らの怒りを買ってストライキに発展した事件も起こっている。
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