無産政党の象徴とは? わかりやすく解説

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無産政党の象徴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 04:20 UTC 版)

無産政党」の記事における「無産政党の象徴」の解説

日本無産政党は、明治中頃車会党東洋社会党など、社会主義思想自覚的に掲げてはいなかった政治結社存在した。そのため本格的な無産政党は、片山潜らを中心とする社会主義者によって結成され社会民主党により濫觴とする(1901年5月)。 社会民主党ははじめて社会主義的宣言をしたことで知られているが、時の第4次伊藤内閣即日結社禁止とした。その後社会主義者日本社会党結党などを模索したが(1906年2月)、解散余儀なくされた。加えて大逆事件」が起って社会主義集団壊滅状態となり、冬の時代称される閉塞状態に陥った第一次世界大戦欧洲大戦)による日本資本主義本格的勃興は、日本労資間の対立尖鋭化した。それを承け社会主義者の間に再び結党動き起こり1920年12月日本社会主義同盟成立して統一戦線気運高まった同盟そのもの直ぐに禁止となるが、農民労働党即日禁止)を経て労働農民党労農党)の樹立成功した。 しかし全国的単一であった労働農民党は、指導者層の対立支持母体ある日労働総同盟左右への分解とが問題となり(左派日本労働組合評議会結成)、最右派日本農民党右派社会民衆党社民党)、中道日本労農党(日労党)が分裂し、この結果労農党左派無産政党改組された(1926年)。 1928年普通選挙実施により、各無産政党ははじめて公然と帝国議会議席得たが、その直後三・一五事件によって、労農党指導者失い1928年)、治安警察法より政府から解散を命ぜられた。その結果一部は最左派新労農党となり、また一部非合法日本共産党1922年創立)に合流して地下潜行甘んじた他方旧労党内部の労農派中心として、最左派を〈非現実的〉と指弾無産大衆党組織するものが現れた。 労働農民党分裂以後無産政党各派全国的政党たる三派と、無数の地方的政党分裂したが、普通選挙普選実施による統一戦線必要などから、再び全国的単一党の形成模索し始めたその結果、日労党を中核とし、日本農民党無産大衆党などの都合7党による結党が行われ、日本大衆党生れた。(1928年12月日本大衆党内部分裂絶えなかったが、同党は再び(新)労農党、旧無産大衆党社民党系と合同し、ここに戦前単一無産政党たる社会大衆党社大党)が生れた(1932年7月)。 社会大衆党は、戦前無産政党統一政党であり、また無産政党中の最大政党でもあった。その後行われた総選挙では勢力増やし戦前最後となる第20回総選挙において36議席定数468)を獲得帝国議会第3党に躍り出た1937年4月)。 しかし、時勢難局は同党に日中戦争肯定立場取らせ次いで起った近衛文麿新体制運動積極参加をさせ、大政翼賛会没入することになった1937年3月には労農派流れを引く合法左派日本無産党日無党)が成立し加藤勘十総選挙当選もするが、同年12月人民戦線事件で、系列労組日本労働組合全国評議会とともに幹部検挙結社禁止となり解散

※この「無産政党の象徴」の解説は、「無産政党」の解説の一部です。
「無産政党の象徴」を含む「無産政党」の記事については、「無産政党」の概要を参照ください。

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