「エカチェリーナ改革」と農奴制
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「ロシアの農奴制」の記事における「「エカチェリーナ改革」と農奴制」の解説
18世紀中葉から後葉にかけてのエカチェリーナ2世統治時代は、「貴族の天国、農民の地獄」と形容されることさえある、両者の懸隔の最も甚だしい時代であった。 「本とペンの皇帝」として知られる、学識豊かな啓蒙専制君主エカチェリーナ2世は、治世初期の1766年に「訓令(ナカース)(英語版、ロシア語版)」を発し、そこでは古代の奴隷制の弊害を論じて農奴制の緩和に言及したが、立法委員会では貴族の猛反対にあっている。同じ1766年、エカチェリーナ2世はイギリスとのあいだに英露通商条約を結び、原材料の輸出関税を引き下げた。これは、産業革命期のイギリス工業にとっては大きな利益となったが、国内的には労働力の抑圧強化をもたらし、農民たちはヴォルガ川を越え、あるいはまたウラル山脈、さらにはシベリアへまでおよぶ農民の「大量逃亡」が生じ、いっぽうでは各地で反乱を招いた。 女帝統治下の1773年から1775年にかけて、ステンカ・ラージンの乱よりもいっそう大規模な農民反乱としてプガチョフの乱が起こっている。首謀者のエメリアン・プガチョフは、エカチェリーナの亡き夫で前皇帝のピョートル3世を名乗ったヤイク・カザークであり、農民たちに対して「貴族身分抜きの国制」を呼びかけた。軍事専門家の研究によれば、彼らの軍がカザン攻撃をやめてモスクワに向かっていたらエカチェリーナの王権は命脈が尽きていた可能性があるとさえいわれている。ヤイクの地名は、プガチョフの乱後、「ウラル」に名を改められた。 プガチョフの反乱に参加した農民たちの思いの根底にあったものは「彼らの祖先たちが自由人であった時代に戻ること」であった。農民たちは、少なくとも近代あるいは「資本主義的世界経済」のもとにある自分たちの現在の境遇よりも格段に自由だった過去の時代への回帰をめざして立ち上がったのである。貴族の根絶というプガチョフの呼びかけのために殺害された貴族やその妻子も少なくなかった。しかし、エカチェリーナ2世は、数万におよぶ農民反乱を徹底的に鎮圧して国内労働力の抑圧を強化し、イギリスの主導するヨーロッパ自由貿易体制のなかで、一貫して自由貿易主義の立場でこれに対峙した。 エカチェリーナ時代の農民は、ほとんど奴隷に等しい境遇となった。そのことは当時の新聞に「裁縫のできる28歳の娘売ります」「コックとして使える16歳の少年売ります」などのような広告が掲載され、実際に農奴市場が存在したことでも知られている。農奴は一般に移動と職業選択の自由をもたない身分であったが、通常は売買の対象とならない。しかし、ロシアでは売買の対象となったのであった。新聞広告には「本日午後10時、郡裁判所と市参事会立会いのもとに、故ゴローヴィン大尉所有の男女農奴6名、土地、家屋の競売あり、希望者の来観歓迎」などというものもあった。農奴は地代小作料ないしは労役を主人に支払わなければならなかったほか、農奴の主人(貴族)は、かれらを家族と引き離してでも売買したり、抵当に入れたりすることができた。主人は、みずから所有する家畜や建物同様、農奴を自由に扱うことができ、農奴は主人に不服を申し立てることすら禁じられていた。農奴の価格は、エカチェリーナ2世時代の初期には一村全体を土地と農民一括で購入する場合、1人あたり土地付きで30ルーブルであったが、年々価格が上昇し、治世晩年には100ルーブルでも入手できなくなりつつあったという。 貴族が農民を虐待する例は無数にあった。1787年から1791年にかけてのオスマン帝国との戦争(しばしば「第二次露土戦争」といわれる)での軍功で知られるピョートル・ルミャンツェフ(ロシア語版)伯爵は、領内の農民に対してきびしい軍隊式の規則を定め、これに違反すると2コペイカから5コペイカの罰金を徴収し、また、笞、棒、鎖による体刑をおこなった。理由なく教会へ行かない者に対しては10コペイカの罰金、わずかでも盗みがあれば所持品すべてを没収したほか兵役につかせた。 地主(貴族)は、働けなくなった農奴や自分の気に入らない農奴を開拓民として「シベリア送り」にする権限さえもっていた。このころシベリアを旅したサンクトペテルブルク科学アカデミー(現ロシア科学アカデミー)のペーター・ジーモン・パラスは、そこで多くの農民が、身寄りのない孤独な生活を送っていることを目にしている。シベリアの農民たちはパラス教授に対し、故郷の妻や子を恋しがり、これがもし家族同伴の「シベリア送り」であるなら、地主のもとで故郷で生活するよりも、どれだけ幸福であることかと泣き伏して訴えている。 地主である主人(貴族)の権限を制限しうるものは何もなく、もしあるとすれば、それは彼の良心と行為の結果が利益になるか否かを計算したうえでの判断だけであった。農奴は、貴族の「所有物」に等しい存在であった。 一方の貴族は、1785年のエカチェリーナの誕生日に発布された「貴族への特許状(恵与状)」によってロシアで唯一の「自由」な身分となり、租税・軍務・体刑を免除され、裁判では同僚のみによって裁かれ、なおかつ、彼らを有罪とするには女帝の許可を必要とするなど、その身分が特別に保障された特権階級であった。貴族の所領に対する国家の諸規制さえ全面的に撤廃され、所領や農奴は完全な私有財産とされた。それまで貴族の重大犯罪に対して課されてきた所領没収という処罰も廃止された。そして、こうした特権は、帝国と君主に対する忠勤への代償とみなされ、それゆえ必要なときには何時いかなる時も君主の呼びかけに応じ、命を惜しんではならないとされたのである。エカチェリーナはまた、権力基盤である貴族層の支持がより確固なものとなるよう、広大な国有地と「国家の農民」を貴族に対して惜しげもなく下賜した。地域的にみれば、彼女の治世において特に農奴制の定着と広がりをみたのはウクライナであった。 エカチェリーナ2世統治下のロシアを旅した外国人は、ロシアの貴族が宮殿のような邸宅に住み、多数の召使いをかかえて豪奢な生活を送っていることに驚嘆している。それに対し、ロシアは小麦の世界的な産地であったにもかかわらず、上等なものは西欧向けの輸出にまわされ、「国民の口に入ることはほとんどない」という状態だった。科学者ミハイル・ロモノーソフの証言によれば、当時の新生児は5人のうち4人までが3歳までに死亡している。天然痘やはしかなどの感染症が主な死因であったが、それはさらに農奴たちの劣悪な生活環境に由っていた。また、洗礼の際に冷水に浸すという習慣も原因のひとつであった。 1790年、啓蒙思想家として知られるアレクサンドル・ラジーシチェフは『ペテルブルクからモスクワへの旅』を刊行し、当時のロシア農奴制の実態をいきいきと描いている。これは、旅日記のスタイルをとりながらも農民の悲惨な日常と貴族による農民に対する非人間な扱いを克明に記して農奴制告発の主張が込められていた。そのなかには「地主のドラ息子たちは、ひまがあると村や畑をほっつき歩いて、農民の妻や娘をもてあそんだ。彼らの手ごめをまぬがれた女性はひとりもいなかった」という記述もある。エカチェリーナ2世は、この本を発禁処分とし、著者に対しては「プガチョフよりもおそろしい」と述べてシベリアへの流刑に処した。1789年のフランス革命に衝撃を受けたエカチェリーナはツァーリへの嘆願という農民の最終手段も禁止してしまったのであり、農奴たちの絶望的な生活は改善の見込みもなかった。 いわゆる「エカチェリーナ改革」は、貴族を恒常的に軍隊に組み込むことによって貴族の余暇を奪いながら国内の分権化傾向に歯止めをかけ、オスマン帝国との戦争やポーランド分割など積極的な対外政策を進めていく一方で、貴族に対する終身の強制軍役を廃止する代わりに、ロシア政府の性質を、従来の貢納徴収機構から脱却して、帝室と特権貴族による文民支配機構として再構築しようという過渡的な性格を有していた。官吏制度の改革や地方行政改革もその一環であった。そこにおいて貴族は、地方では換金作物生産にたずさわる農業経営者としての役割を担ったのであり、小麦や木材などの「世界商品」が国際競争力を維持するために、農奴に対する非人間的な扱いはむしろ常態化したのである。ただし、エカチェリーナが拠って立った自由貿易主義はその弊害も大きく、一般のロシア人からすればイギリス商人はむしろ積年の恨みの対象でもあったため、彼女の死後は保護貿易主義が勢いを増した。1800年、2人の皇帝(ピョートル3世とエカチェリーナ2世)を父母にもつ皇帝パーヴェル1世は対英関係を断絶し、イギリス商品を禁輸、さらにはイギリス船を没収するという行動に出ている。
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