「エカチェリーナ改革」と農奴制とは? わかりやすく解説

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「エカチェリーナ改革」と農奴制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 17:32 UTC 版)

ロシアの農奴制」の記事における「「エカチェリーナ改革」と農奴制」の解説

18世紀中葉から後葉にかけてのエカチェリーナ2世統治時代は、「貴族天国農民地獄」と形容されることさえある、両者懸隔の最も甚だし時代であった。 「本とペン皇帝」として知られる学識豊かな啓蒙専制君主エカチェリーナ2世は、治世初期1766年に「訓令(ナカース)(英語版ロシア語版)」を発し、そこでは古代奴隷制弊害論じて農奴制緩和言及したが、立法委員会では貴族猛反対にあっている。同じ1766年エカチェリーナ2世イギリスとのあいだに英露通商条約を結び、原材料輸出関税引き下げた。これは、産業革命期イギリス工業にとっては大きな利益となったが、国内的に労働力抑圧強化もたらし農民たちはヴォルガ川越え、あるいはまたウラル山脈さらにはシベリアへまでおよぶ農民の「大量逃亡」が生じいっぽうで各地反乱招いた女帝統治下の1773年から1775年にかけて、ステンカ・ラージンの乱よりもいっそう大規模な農民反乱としてプガチョフの乱起こっている。首謀者エメリアン・プガチョフは、エカチェリーナ亡き夫で前皇帝ピョートル3世名乗ったヤイク・カザークであり、農民たちに対して貴族身分抜き国制」を呼びかけた。軍事専門家研究によれば、彼らの軍がカザン攻撃をやめてモスクワ向かっていたらエカチェリーナ王権命脈尽きていた可能性があるとさえいわれている。ヤイクの地名は、プガチョフの乱後、「ウラル」に名を改められた。 プガチョフの反乱参加した農民たちの思い根底にあったものは「彼らの祖先たちが自由人であった時代に戻ること」であった農民たちは、少なくとも近代あるいは「資本主義的世界経済」のもとにある自分たちの現在の境遇よりも格段に自由だった過去時代への回帰めざして立ち上がったのである貴族根絶というプガチョフ呼びかけのために殺害され貴族やその妻子少なくなかった。しかし、エカチェリーナ2世は、数万におよぶ農民反乱徹底的に鎮圧して国内労働力抑圧強化しイギリス主導するヨーロッパ自由貿易体制のなかで、一貫して自由貿易主義立場でこれに対峙した。 エカチェリーナ時代農民は、ほとんど奴隷等し境遇となったそのこと当時新聞に「裁縫のできる28歳の娘売ります」「コックとして使える16歳少年売りますなどのような広告掲載され実際に農奴市場存在したことでも知られている。農奴一般に移動職業選択の自由もたない身分であったが、通常売買対象とならない。しかし、ロシアでは売買対象となったであった新聞広告には「本日午後10時、郡裁判所市参事会立会いのもとに、故ゴローヴィン大尉所有男女農奴6名、土地家屋競売あり、希望者の来観歓迎」などというものもあった。農奴地代小作料ないしは労役主人支払なければならなかったほか、農奴主人貴族)は、かれらを家族引き離してでも売買したり、抵当入れたりすることができた。主人は、みずから所有する家畜建物同様、農奴自由に扱うことができ、農奴主人不服申し立てることすら禁じられていた。農奴価格は、エカチェリーナ2世時代初期には一村全体土地農民一括購入する場合1人あたり土地付き30ルーブルであったが、年々価格上昇し治世晩年には100ルーブルでも入手できなくなりつつあったという。 貴族農民虐待する例は無数にあった。1787年から1791年にかけてのオスマン帝国との戦争(しばしば「第二次露土戦争といわれる)での軍功知られるピョートル・ルミャンツェフ(ロシア語版伯爵は、領内農民に対してきびしい軍隊式の規則定め、これに違反すると2コペイカから5コペイカ罰金徴収しまた、笞、棒、鎖による体刑おこなった理由なく教会行かないに対して10コペイカ罰金、わずかでも盗みがあれば所持品すべてを没収したほか兵役につかせた。 地主貴族)は、働けなくなった農奴自分気に入らない農奴開拓民として「シベリア送り」にする権限さえもっていた。このころシベリア旅したサンクトペテルブルク科学アカデミー(現ロシア科学アカデミー)のペーター・ジーモン・パラスは、そこで多く農民が、身寄りのない孤独な生活を送っていることを目にしている。シベリア農民たちはパラス教授対し故郷の妻や子を恋しがり、これがもし家族同伴の「シベリア送り」であるなら、地主のもとで故郷生活するよりも、どれだけ幸福であることかと泣き伏し訴えている。 地主である主人貴族)の権限制限しうるものは何もなく、もしあるとすれば、それは彼の良心行為結果利益になるか否か計算したうえでの判断だけであった農奴は、貴族の「所有物」に等し存在であった一方貴族は、1785年エカチェリーナ誕生日発布された「貴族への特許状恵与状)」によってロシア唯一の「自由」な身分となり、租税軍務体刑免除され裁判では同僚のみによって裁かれなおかつ、彼らを有罪とするには女帝許可を必要とするなど、その身分特別に保障され特権階級であった貴族所領対す国家の諸規制さえ全面的に撤廃され所領農奴は完全な私有財産とされた。それまで貴族重大犯罪に対して課されてきた所領没収という処罰廃止された。そして、こうした特権は、帝国君主対す忠勤への代償みなされそれゆえ必要なときには何時いかなる時も君主呼びかけ応じ、命を惜しんでならないとされたのであるエカチェリーナまた、権力基盤である貴族層の支持がより確固なものとなるよう、広大な国有地と「国家農民」を貴族に対して惜しげもなく下賜した。地域的にみれば、彼女の治世において特に農奴制定着広がりをみたのはウクライナであったエカチェリーナ2世統治下のロシア旅した外国人は、ロシア貴族宮殿のような邸宅住み多数召使いかかえて豪奢な生活を送っていることに驚嘆している。それに対しロシア小麦世界的な産地であったにもかかわらず上等なものは西欧向けの輸出まわされ、「国民の口に入ることはほとんどない」という状態だった。科学者ミハイル・ロモノーソフ証言によれば当時新生児は5人のうち4人までが3歳までに死亡している。天然痘やはしかなどの感染症主な死因であったが、それはさらに農奴たちの劣悪な生活環境に由っていた。また、洗礼の際に冷水に浸すという習慣原因のひとつであった1790年啓蒙思想家として知られるアレクサンドル・ラジーシチェフは『ペテルブルクからモスクワへの旅』を刊行し当時ロシア農奴制実態をいきいきと描いている。これは、旅日記スタイルをとりながらも農民悲惨な日常貴族による農民対す非人間扱い克明に記して農奴制告発主張込められていた。そのなかには地主ドラ息子たちは、ひまがあるとや畑をほっつき歩いて農民の妻や娘をもてあそんだ。彼らの手ごめをまぬがれた女性はひとりもいなかった」という記述もある。エカチェリーナ2世は、この本を発禁処分とし、著者に対しては「プガチョフよりもおそろしい」と述べてシベリアへの流刑処した1789年フランス革命衝撃受けたエカチェリーナツァーリへの嘆願という農民最終手段禁止してしまったのであり、農奴たちの絶望的な生活は改善見込みもなかった。 いわゆるエカチェリーナ改革」は、貴族恒常的に軍隊組み込むことによって貴族余暇奪いながら国内分権傾向歯止めをかけ、オスマン帝国との戦争ポーランド分割など積極的な対外政策進めていく一方で貴族対す終身強制軍役廃止する代わりにロシア政府性質を、従来貢納徴収機構から脱却して、帝室特権貴族による文民支配機構として再構築しようという過渡的な性格有していた。官吏制度の改革地方行政改革もその一環であった。そこにおいて貴族は、地方では換金作物生産たずさわる農業経営者としての役割担ったのであり、小麦木材などの「世界商品」が国際競争力維持するために、農奴対す非人間的な扱いはむしろ常態化したのである。ただし、エカチェリーナ拠って立った自由貿易主義はその弊害大きく一般ロシア人からすればイギリス商人はむしろ積年の恨み対象でもあったため、彼女の死後保護貿易主義勢い増した1800年2人皇帝ピョートル3世エカチェリーナ2世)を父母にもつ皇帝パーヴェル1世は対英関係を断絶しイギリス商品禁輸さらにはイギリス船を没収するという行動出ている。

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