ユダヤ人 歴史

ユダヤ人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/13 06:40 UTC 版)

歴史

古代

旧約聖書によると、アダムから始まる。アダムの子にセツカインが居りセツに信仰が引き継がれた。大洪水によりノアの子孫だけが生き残る。ノアの子セムとハムとヤフェテが居り、セムに信仰が引き継がれた。セムからエベルに信仰が引き継がれた。エベルの時代にニムロドがバベルの塔を建設。エベルは信仰を守っていたので言語を混乱させられなかったためヘブライ語を引き継ぐ。エベルの子孫にアブラハムが居る。アブラハムが、現在のイラク南部とされる「カルデアメソポタミア)のウル」から部族を引き連れて「カナンの地」(現在のイスラエルパレスチナ付近)に移住したとされる。

ヘブライ人と呼ばれる彼らは、この付近で生活を続けた(ヘブライの原義はアブラハムの先祖エベルから)。

紀元前17世紀ごろ[注 3]、ヘブライ人は飢饉のためカナンの地から古代エジプトに集団移住した。その後預言通り古代エジプトの地で奴隷とされた。

その後、エジプト第19王朝の時代に、再び大きな気候変動が起こり[注 4]、エジプトのヘブライ人指導者モーセが中心となり、約60万人の人々がエジプトからシナイ半島に脱出を果たす(出エジプト)。彼らは神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地(パレスチナ)にたどり着き、この地の先住民であったカナン人ペリシテ人を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着した。このころからイスラエル人を自称するようになり、ヘブライ語もこの頃にカナン人の言葉を取り入れて成立したと考えられる。紀元前1207年の出来事を記したエジプトのイスラエル石碑英語版に:

1100年から1600年にかけてのヨーロッパにおけるユダヤ人の追放による民族移動を示す地図
Joseph Felsensteinのソフトウェアによる解析結果に基づく、J2 DNA Kohanimの3000年間の民族移動を示す地図

7世紀 - 10世紀に、カスピ海北部にハザール王国が出現し、ユダヤ教を国教としたが、その後相次いだロシア、ルースィ、ブルガール、オグズとの戦争により王国は滅んでいる。残党のハザール人も、結局はイスラム教に改宗したが、ユダヤ教カライ派の信仰を保っているハザール人の集落が東ヨーロッパにわずかに現存している。

ディアスポラ後の民族移動時代2世紀 - 7世紀)、ほとんどのユダヤ人は依然として地中海沿岸に住んでいた。697年ウマイヤ朝サーサーン朝ペルシアとの抗争で疲弊していた東ローマ帝国カルタゴおよび北アフリカを征服し、711年グアダレーテ河畔の戦い西ゴート王国を滅ぼしイベリア半島に進出した。ジュデズモ語を話すセファルディムイベリア半島に定住し、8世紀から9世紀には北フランスにも定住し、その後ヨーロッパ各地に散ったが、ユダヤ人はユダヤ教の信仰を堅持した。

レコンキスタ十字軍時代に、ヨーロッパキリスト教社会では、「キリスト殺し」の罪を背負うとされていたユダヤ人はムスリムとともに常に迫害された。封建制度に内属していなかった彼らはヨーロッパの多くの国で土地所有を禁じられて農業の道を断たれ、商工業ギルドに加入することができなかったため、職工の道も閉ざされ、店舗を構える商売や国際商取引も制限されていた。

しばしば追放処分を受け、住居も安定しないユダヤ人がつける仕事は事実上消費者金融や無店舗の行商、芸能以外には存在しなかった。1066年、イスラム支配下のアンダルスグラナダ虐殺 (1066年)英語版が起こり、多数のベルベル・ユダヤ人英語版が犠牲となった。イギリスのユダヤ人はこのころに主にフランスからイングランドに渡った一群が最初とされる(ユダヤ人は王の所有物として農奴や金融を生業として13世紀末までその数を増やしていったが、十字軍精神の高まりにより追放され、一部を除きいったん姿を消し、17世紀半ばに再びフランス、スペイン、ポルトガルから流入し繁栄した)[27]

11世紀末頃にはすでにユダヤ人は「高利貸し」の代名詞になっていた。被差別民でありながら裕福になったユダヤ人は妬まれ、ユダヤ人迫害はますます強まっていった[28]

セルジューク朝が西方に領土を拡大し、東ローマ帝国領のアナトリア半島を占領すると、アレクシオス1世コムネノスローマ教皇ウルバヌス2世に救援を求めた。1095年11月にクレルモン公会議が開催され、翌年に民衆十字軍第1回十字軍が開始され、エルサレム王国が設立された。これ以後、約200年にわたって、十字軍は7回の遠征を行った。

1150年ごろ、フランクフルトにユダヤ人が居住した記録が残っている[29]13世紀になってキリスト教徒とユダヤ教徒との交際が禁止されるなど、ユダヤ人は迫害を受けるようになり、社会不安が高まるごとにユダヤ人は迫害の対象とされていき、職の追放なども行われた。神聖ローマ帝国のユダヤ人は、神聖ローマ帝国一般臣民とは区別される存在で、「王庫の従属民」と呼ばれる法的地位を与えられて皇帝の保護を受け、皇帝にユダヤ人税ドイツ語版(ユーデンシュトイアー)の納税義務を負っていた。のちのオスマン帝国においてもジズヤ人頭税)の納税義務を負っていたが、ほぼ同じ制度である。

東方植民時代(12世紀 - 14世紀)にはモンゴルのポーランド侵攻で人口が減少したポーランド王国へ進出し、イディッシュ語を話すアシュケナジムが定住を始めた。1264年カリシュの法令によって権利および安全をポーランド王およびシュラフタ(ポーランドの貴族共和政を担った階級)の庇護のもとに保障され、1290年エドワード1世による追放布告英語版イングランドを追放されると、ユダヤ人はポーランドに集まり生活し、ユダヤ人社会「シュテットル」を形成した。

14世紀のペスト大流行en)のころから弾圧として、ヨーロッパ中で隔離政策が取られるようになっていき、市街地中心から離れた場所に設けられたゲットーと呼ばれる居住区に強制隔離されることが一般化した。

1462年にフランクフルトのユダヤ人はフランクフルト・ゲットーに居住するようになった。1467年ポーランド王国ドイツ騎士団の間で司祭戦争英語版が勃発し、1479年にピョートルクフの講和(英語: Treaty of Piotrków)が結ばれると、カジミェシュ4世の治めるピョートルクフ神聖ローマ帝国を追放されたドイツ人とユダヤ人が移住した。1488年、イタリアのソンチーノに逃れたユダヤ人によって "Casa degli Stampatori"(it:Soncino#Musei)でヘブライ語聖書タナハ旧約聖書)が印刷され、印刷技術が世界中に広がるきっかけとなった。16世紀にはヴィリニュスにも居住するようになった。

1492年イベリア半島レコンキスタが完了し、フェリペ2世の治世に異端審問制度によるスペイン異端審問が始まると、モリスコ追放によってセファルディムの多くが北アフリカに追放され、ポルトガルに逃れたユダヤ人もカトリックへの改宗を迫られ、新キリスト教徒と呼ばれるユダヤ人が誕生した。

セファルディムフェルナン・デ・ロローニャ英語版: Fernão de Loronha)は、赤い染料「ブラジリン」を抽出できるパウ・ブラジルの専売権を得て、ブラジルの植民地開拓期に活躍した。

初期近代

1600年イギリスの作家ウィリアム・シェイクスピアが発表した戯曲ヴェニスの商人』では、主人公の友人を借金の形としたユダヤ人高利貸という設定のシャイロックという人物が登場した。

1648年ウクライナで起こったフメリニツキーの乱では、ザポロージャ・コサック英語版によるポグロムによって多くの犠牲者を出した。1657年にユダヤ人の追放をオリバー・クロムウェルが解除し、ユダヤ人がイングランドへ367年ぶりに帰還した。

近代

ユダヤ教徒居住区英語版およびロシア帝国領ポーランド内のユダヤ人分布図(数値は百分率(%)、1905年)

啓蒙時代17世紀 - 18世紀)になると、スピノザらによる宗教を超えた汎神論論争レッシングが肯定すると、メンデルスゾーン(『賢者ナータン』のモデルとして知られる)もこれを擁護してハスカーラーと呼ばれる啓蒙運動がユダヤ人の間で開始された。ハスカーラーに抵抗のあった人たちの中から1740年ごろ、ガリチアバアル・シェム・トーブハシディズムを開始した。1786年、ロシアがユダヤ教徒居住区英語版: Черта́ осе́длостиイディッシュ語: דער תּחום-המושבֿ‎)を設置。1795年ポーランド分割1772年1793年1795年)が実施され、ポーランド・リトアニア共和国が消滅して東部(旧リトアニア公国領)がロシアに併合された。ポーランドが消滅してその庇護を失ったユダヤ人は、ハプスブルク家へ庇護を求めたが、ウクライナ人・ベラルーシ人から裏切り行為と受け取られた。1806年7月、神聖ローマ帝国が解体され、1811年カール・テオドール・フォン・ダールベルクナポレオン法典をもとにフランクフルトのユダヤ人に市民権を認めた。

しかし、ナポレオンが敗退すると、1814年にはユダヤ人の市民権と選挙権が再び剥奪された。1819年ドイツヴュルツブルクポグロムが発生し、瞬く間にドイツ文化圏全域でヘプヘプ・ポグロム英語版が起こった。1821年にはウクライナでオデッサ・ポグロム英語版が起こった。

1848年ハンガリー革命に参加したハンガリー系ユダヤ人英語版が弾圧された。これをきっかけにアルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェンによってハンガリーも1851年から1860年にかけてドイツ化が進行した。1864年、フランクフルトのユダヤ人に再び市民権が認められ、1871年ドイツ帝国が建国された際、ユダヤ人は正式にドイツ国民としての権利を与えられた。

19世紀後半になると、主に旧リトアニア公国の領域(ベラルーシウクライナモルドヴァ)で、ウクライナ人・ベラルーシ人農民、コサックなどの一揆の際にユダヤ人が襲撃の巻き添えとなった。1881年アレクサンドル2世が暗殺されると、帝政ロシア政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したため反ユダヤ運動が助長されることになり、ロシアで反ユダヤ主義のポグロム1881年 - 1884年)が起こった。ユダヤ人はオーストリア=ハンガリー帝国領ブロディへ大量に脱出したため町が混乱すると、1882年五月法英語版が発布され、ユダヤ人への締めつけが実施された。

1890年エリエゼル・ベン・イェフダーパレスチナに「ヘブライ語委員会」(「ヘブライ言語アカデミー」の前身)を設立。1894年フランスドレフュス事件が起こり、同年には「イディッシズム英語版」を代表する作家、ショーレム・アレイヘムによる『牛乳屋テヴィエ』(『屋根の上のバイオリン弾き』の項を参照)が発表された。1896年テオドール・ヘルツルが「ユダヤ人国家英語版」を発表。

1900年には黒百人組が結成され、1903年から1906年にかけてロシアで度重なるユダヤ人襲撃が起こった(キシナウ・ポグロム英語版)。各国でポグロムやユダヤ人襲撃が行われたことが引き金となり、古代に祖先が暮らしていたイスラエルの地に帰還してユダヤ人国家を作ろうとするナータン・ビルンバウムによるシオニズム運動が起きた。「ユダヤ人」は世界に離散後もそのほとんどがユダヤ教徒であり(キリスト教イスラムに改宗した途端、現地の「民族」に「同化」してしまう)、ユダヤ教の宗教的聖地のひとつであるイスラエルの地に帰還することもその理由のひとつである。

第一次世界大戦

1914年11月にイギリスがオスマン帝国に宣戦布告すると、ユダヤ人シオニストの閣僚・ハーバート・サミュエルが「The Future of Palestine」を閣僚に回覧した。当時、パレスチナはVilayet of Damascus南西部にあったが、1915年10月24日フサイン・マクマホン協定のこの部分に関する解釈がのちに大論争となった。

第一次世界大戦が始まると大量のコルダイト火薬が必要になったが、その原料のアセトン供給を握っていたのはロシア帝国の化学者でシオニストのハイム・ヴァイツマンであった。このことでイギリス政府閣僚との知己を得たヴァイツマンはアーサー・バルフォアバルフォア宣言を働きかけた。

1916年5月16日にはサイクス・ピコ協定が締結された。同年6月にはアラブ反乱が起こされ(1916年6月 - 1918年10月)、1917年には熱心なシオニストの第2代ロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルドがイギリス政府からバルフォア宣言を取りつけ、イギリス政府はシオニズム支持を表明することになった。この条約はトルコとのセーヴル条約イギリス委任統治領パレスチナ1920年 - 1948年)につながっていったのである。

1919年にはファイサル・ワイツマン合意英語版が調印され、パレスチナへのユダヤ人入植を促進させることで合意している。国際連盟の決議で設置されたイギリス委任統治領パレスチナで公用語のひとつはヘブライ語になり、ハーバート・サミュエルは初代高等弁務官となった。

イスラエル建国以前の中東では、イスラム教徒とユダヤ教徒は共存してはいたが、しばしば大規模な反ユダヤ暴動が起きた。1920年7月の暴動(ユダヤ人216人死傷)、1921年の暴動があった。

1922年イギリス委任統治領パレスチナが成立。1925年1926年の暴動、1929年には嘆きの壁事件がきっかけとなって8月23日にはヘブロン虐殺英語版(ユダヤ人133人死亡、339人負傷、アラブ人439人死傷)があった。

1928年ヨシフ・スターリン社会主義民族政策により、アムール川沿岸の中ソ国境地帯に「ユダヤ民族区」が設置され、西ウクライナから西ベラルーシベラルーシ語版にまたがる「ルテニア」と呼ばれた地域、すなわちカルパティア・ルテニアカルパト・ウクライナ)・ガリツィアガリツィア・ロドメリア王国)・モルダヴィアベッサラビアなどのシュテットルから多数のユダヤ人が移住した。これは社会主義的な枠組みの中でユダヤ人の文化的自治をめざすもので、イディッシュ語の学校や新聞が作られた。同時期の戦間期には、ガリツィアなどからの難民がウィーンへも押し寄せ、イディッシュ語のコミュニティーを形成したことが知られている[30]

第二次世界大戦

1933年国家社会主義ドイツ労働者党が政権を握ると、ドイツにおいてユダヤ人迫害政策は公的なものとなり、さまざまな扱いで圧迫されるようになった。1936年から1939年パレスチナのアラブ反乱では、エルサレムでの暴動があった。

なお1936年の時点でエルサレムの人口は12万5,000人、うちユダヤ人が7万5,000人を占めていた[31]1938年11月9日、ドイツ全土で『帝国水晶の夜』(ドイツ語: Reichskristallnacht)事件が発生し、その後ユダヤ人に対する迫害政策がさらに進展した。1939年、第二次世界大戦が勃発し、ナチスは占領地域におけるユダヤ人の隔離を開始した。ソ連はユダヤ人難民のユダヤ自治区への流入を禁止した。 1940年8月31日杉原千畝リトアニアカウナスを脱出。杉原千畝は、7月からドイツ占領下のポーランドを脱出してきたユダヤ難民に「命のビザ」を発給したことで知られているが、1947年に責任をとらされ、依願退職した。

1941年、ソ連はヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国を廃止し、ヴォルガ・ドイツ人シベリアカザフスタンへ追放し、カザフスタンのドイツ人英語版と呼ばれた。1941年7月10日イェドヴァブネ事件1941年9月6日リトアニアヴィリニュスヴィリニュス・ゲットーが設置された。ナチスは当初隔離したユダヤ人をマダガスカル島などに追放する計画(マダガスカル計画)を立てていたが、その後絶滅収容所への収容・絶滅計画に方針を切り替えた。これらはホロコーストと呼ばれる。

イスラエルの建国とパレスチナ問題

ホロコーストの実態が西側諸国に伝わると、パレスチナの地にユダヤ人国家を建設するというシオニズムがさかんになり、1945年にアメリカでユダヤ人抵抗運動英語版が組織された。

しかしこの運動はパレスチナに住んでいたアラブ人およびそれを同胞と見るアラブ諸国との軋轢を生み出した。1946年にはシオニズムを奉じるユダヤ系組織によるキング・デイヴィッド・ホテル爆破事件イフード運動の指導者ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニー(Fawzi Darwish al-Husseini)暗殺が起こった。1947年11月29日国際連合でアメリカとソ連などの支持を受けて『パレスチナ分割決議(国連総会決議181号)』が採択されると、11月30日からパレスチナ内戦英語版が始まり、1948年4月にはエツェルによるデイル・ヤシーン事件などが起こったが、同年5月14日のイスラエル国建国のイスラエル独立宣言が行われると、翌日の5月15日の第一次中東戦争につながっていった。全パレスチナ政府英語版ガザに設置され、アミーン・フサイニー大統領となると、第一次中東戦争における殺害と虐殺英語版が多発した。1949年7月の休戦協定によってパレスチナ地域のうち、大部分をイスラエルが獲得。エジプトガザ地区を獲得し、ヨルダン(1949年6月にトランスヨルダンから名称変更した)は東エルサレムおよびヨルダン川西岸地区を獲得した。

一方、寸土も獲得できなかった全パレスチナ政府が4か月で崩壊すると、1951年にアミーン・フサイニーは、親イスラエルとみなしたヨルダンのアブドゥッラー1世を暗殺した。

1952年エジプト革命が起こり、1953年にエジプト共和国が成立すると、第2代大統領ガマール・アブドゥン=ナーセルアスワン・ハイ・ダム建設の協力をアメリカに求めた。しかし、1956年になってアメリカ合衆国国務長官のジョン・フォスター・ダレスがエジプトへの協力に反対した[注 5]

そのためナーセルは東西冷戦を利用してソ連側に接近し、さらに汎アラブ主義を掲げ、スエズ運河国有化(: Nationalisation of the Suez Canal)を断行した。当時フランスは、アルジェリア戦争1954年 - 1962年)でアルジェリア民族解放戦線をエジプト共和国が支援していると考えたため、英仏は第一次中東戦争でエジプトと敵対したイスラエルを支援する形で第二次中東戦争が勃発した。

アメリカ合衆国アイゼンハワー大統領は、アラブ冷戦英語版下にソ連が介入する事態を懸念し、平和のための結集決議で即時停戦を求める総会決議997を採択した。1957年3月16日にイスラエルは撤退し、エジプトはスエズ運河の国有化に成功した。ダレスの戦略は完全に裏目に出て、中東でのソ連の影響力は一気に高まり、第三次中東戦争につながった。

米国がベトナム戦争アラブ冷戦英語版に手が回らなくなると、ソ連のKGBはイスラエルのモサッドの諜報活動を逆手にとった。ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設をめぐる紛争で、ソ連はエジプトとシリアを情報操作で開戦準備に誘導し、モサッドの入手する情報から先制攻撃を恐れたイスラエルは1967年に逆に先制攻撃を行い、第三次中東戦争を開始した。

第三次中東戦争は、イスラエル領土の拡張運動「大イスラエル構想英語版」(1967年 - 1976年)が活発になった時期であることから、パレスチナ人およびアラブ人とユダヤ人入植者との対立がその政策の結果として建国以降一貫して引き起こされてきたと拡大解釈する立場もあらわれた。

1964年にアラブ連盟によりパレスチナ解放機構(PLO)が結成されていたが、1969年2月に第三次中東戦争で活躍したファタハヤーセル・アラファートが議長に就任すると、PLOが事実上のパレスチナ亡命政府と看做されるようになった。1970年ガマール・アブドゥン=ナーセルが急死すると、アンワル・アッ=サーダートがエジプト大統領に就任した。サーダートは、ナーセルのイスラエル強硬路線を踏襲し、アラブ同士の結束を固めるために1971年9月にシリアとリビアとのアラブ共和国連邦を結成した。1972年4月には、1970年ブラック・セプテンバー事件でPLOを追放していたヨルダンは国交を断絶された。一連の主導権争いにイスラエルが巻き込まれる形で、1973年10月の第四次中東戦争が勃発した。石油輸出国機構(OPEC)は、イスラエル援助国に対して石油戦略を発動し、世界でオイルショックを引き起こした。

和平締結を模索する中で、サーダートはナーセルの反イスラエル反米路線からの転換を図った。1977年6月にサーダートがイスラエルへメナヘム・ベギン首相を公式訪問し、1978年9月のキャンプ・デービッド合意はサーダートが単独で締結した。しかし、1981年10月にサーダートはエジプトのジハード団によって暗殺された。

1987年第1次インティファーダが始まり、1993年にはイスラエルとPLOのオスロ合意によりパレスチナ自治政府が設立され、イスラエルはヨルダン川西岸地区とガザをPLOに引き渡した。


注釈

  1. ^ ヘブライ語ラテン翻字: Yehudim
  2. ^ イディッシュ語ラテン翻字: Jidn
  3. ^ 紀元前17世紀には、ヒクソスがエジプトへ移住し、エジプト第15王朝(紀元前1663年頃 - 紀元前1555年頃)を興している。紀元前1628年にはギリシャサントリーニ島ミノア噴火が起こり、火山の冬が原因で気候が大きく変動し、カナンに居住し続けるのが困難になった。
  4. ^ 紀元前1200年頃に、アイスランドヘクラ山第三ヘクラ大噴火英語版が原因と考えられる世界的な気温低下による前1200年のカタストロフが起こった。
  5. ^ この問題でダレスは、1956年8月19日にロンドン会談で日本の重光葵外相にもソ連と北方領土を二島返還で妥結するなら沖縄返還は無いと圧力をかけた。 当時の日本は、朝鮮戦争1953年に休戦したことを受け、ソ連とも講和条約締結と北方領土の返還を協議していた。日本は1951年サンフランシスコ講和条約単独講和路線を選択した後だったことから、ダレスの圧力を受け入れ、10月12日鳩山一郎首相とニキータ・フルシチョフの首脳会談で、国交回復を先行させ、平和条約締結後に歯舞群島色丹島を返還する前提で平和条約の交渉を行う事が合意された。その結果、10月19日日ソ共同宣言で北方領土は返還されなかった。
  6. ^ アラビア語: Ahl al-Kitab
  7. ^ マルティン・ブーバーは「聖にする民」と訳している。レビ記11章45節を参照。

出典

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