1100年から1600年にかけてのヨーロッパにおけるユダヤ人の追放による民族移動を示す地図
Joseph Felsenstein のソフトウェアによる解析結果に基づく、J2 DNA Kohanim の3000年間の民族移動を示す地図
7世紀 - 10世紀 に、カスピ海北部にハザール王国 が出現し、ユダヤ教を国教としたが、その後相次いだロシア、ルースィ、ブルガール、オグズとの戦争により王国は滅んでいる。残党のハザール人も、結局はイスラム教に改宗したが、ユダヤ教カライ派の信仰を保っているハザール人の集落が東ヨーロッパにわずかに現存している。
ディアスポラ 後の民族移動時代 (2世紀 - 7世紀 )、ほとんどのユダヤ人は依然として地中海沿岸に住んでいた。697年 にウマイヤ朝 がサーサーン朝ペルシア との抗争で疲弊していた東ローマ帝国 のカルタゴ および北アフリカ を征服し、711年 のグアダレーテ河畔の戦い で西ゴート王国 を滅ぼしイベリア半島 に進出した。ジュデズモ語 を話すセファルディム もイベリア半島 に定住し、8世紀から9世紀には北フランスにも定住し、その後ヨーロッパ各地に散ったが、ユダヤ人はユダヤ教の信仰を堅持した。
レコンキスタ ・十字軍 時代に、ヨーロッパ のキリスト教 社会では、「キリスト殺し」の罪を背負うとされていたユダヤ人はムスリムとともに常に迫害された。封建制度に内属していなかった彼らはヨーロッパの多くの国で土地所有を禁じられて農業 の道を断たれ、商工業ギルド に加入することができなかったため、職工 の道も閉ざされ、店舗を構える商売や国際商取引も制限されていた。
しばしば追放処分を受け、住居も安定しないユダヤ人がつける仕事は事実上消費者金融や無店舗の行商、芸能以外には存在しなかった。1066年 、イスラム支配下のアンダルス でグラナダ虐殺 (1066年)(英語版 ) が起こり、多数のベルベル・ユダヤ人(英語版 ) が犠牲となった。イギリス のユダヤ人はこのころに主にフランス からイングランドに渡った一群が最初とされる(ユダヤ人は王の所有物として農奴や金融を生業として13世紀末までその数を増やしていったが、十字軍精神の高まりにより追放され、一部を除きいったん姿を消し、17世紀半ばに再びフランス、スペイン、ポルトガルから流入し繁栄した)[27] 。
11世紀 末頃にはすでにユダヤ人は「高利貸し 」の代名詞になっていた。被差別民でありながら裕福になったユダヤ人は妬まれ、ユダヤ人迫害はますます強まっていった。
セルジューク朝 が西方に領土を拡大し、東ローマ帝国 領のアナトリア半島 を占領すると、アレクシオス1世コムネノス はローマ教皇 ウルバヌス2世 に救援を求めた。1095年 11月にクレルモン公会議 が開催され、翌年に民衆十字軍 と第1回十字軍 が開始され、エルサレム王国 が設立された。これ以後、約200年にわたって、十字軍 は7回の遠征を行った。
1150年 ごろ、フランクフルト にユダヤ人が居住した記録が残っている。13世紀 になってキリスト教徒とユダヤ教徒との交際が禁止されるなど、ユダヤ人は迫害を受けるようになり、社会不安が高まるごとにユダヤ人は迫害の対象とされていき、職の追放なども行われた。神聖ローマ帝国 のユダヤ人は、神聖ローマ帝国一般臣民とは区別される存在で、「王庫の従属民」と呼ばれる法的地位を与えられて皇帝の保護を受け、皇帝にユダヤ人税(ドイツ語版 ) (ユーデンシュトイアー)の納税義務を負っていた。のちのオスマン帝国 においてもジズヤ (人頭税 )の納税義務を負っていたが、ほぼ同じ制度である。
東方植民 時代(12世紀 - 14世紀 )にはモンゴルのポーランド侵攻 で人口が減少したポーランド王国 へ進出し、イディッシュ語 を話すアシュケナジム が定住を始めた。1264年 のカリシュの法令 によって権利および安全をポーランド王 およびシュラフタ (ポーランドの貴族共和政を担った階級)の庇護のもとに保障され、1290年 にエドワード1世 による追放布告(英語版 ) でイングランド を追放されると、ユダヤ人はポーランドに集まり生活し、ユダヤ人社会「シュテットル 」を形成した。
14世紀のペスト大流行 (en )のころから弾圧として、ヨーロッパ中で隔離政策が取られるようになっていき、市街地中心から離れた場所に設けられたゲットー と呼ばれる居住区に強制隔離されることが一般化した。
1462年 にフランクフルトのユダヤ人はフランクフルト・ゲットー に居住するようになった。1467年 、ポーランド王国 とドイツ騎士団 の間で司祭戦争(英語版 ) が勃発し、1479年にピョートルクフの講和(英語 : Treaty of Piotrków )が結ばれると、カジミェシュ4世 の治めるピョートルクフ に神聖ローマ帝国 を追放されたドイツ人とユダヤ人が移住した。1488年 、イタリアのソンチーノ に逃れたユダヤ人によって "Casa degli Stampatori"(it:Soncino#Musei )でヘブライ語聖書 (タナハ 、旧約聖書 )が印刷され、印刷技術が世界中に広がるきっかけとなった。16世紀にはヴィリニュス にも居住するようになった。
1492年 にイベリア半島 でレコンキスタ が完了し、フェリペ2世 の治世に異端審問 制度によるスペイン異端審問 が始まると、モリスコ追放 によってセファルディム の多くが北アフリカ に追放され、ポルトガル に逃れたユダヤ人もカトリックへの改宗を迫られ、新キリスト教徒 と呼ばれるユダヤ人が誕生した。
セファルディム のフェルナン・デ・ロローニャ(英語版 ) (葡 : Fernão de Loronha )は、赤い染料「ブラジリン 」を抽出できるパウ・ブラジル の専売権を得て、ブラジル の植民地開拓期に活躍した。
初期近代
1600年 にイギリス の作家ウィリアム・シェイクスピア が発表した戯曲 『ヴェニスの商人 』では、主人公の友人を借金の形としたユダヤ人高利貸という設定のシャイロックという人物が登場した。
1648年 にウクライナ で起こったフメリニツキーの乱 では、ザポロージャ・コサック(英語版 ) によるポグロム によって多くの犠牲者を出した。1657年 にユダヤ人の追放をオリバー・クロムウェル が解除し、ユダヤ人がイングランドへ367年ぶりに帰還した。
近代
ユダヤ教徒居住区(英語版 ) およびロシア帝国領ポーランド内のユダヤ人分布図(数値は百分率(%)、1905年)
啓蒙時代 (17世紀 - 18世紀 )になると、スピノザ らによる宗教を超えた汎神論論争 をレッシング が肯定すると、メンデルスゾーン (『賢者ナータン 』のモデルとして知られる)もこれを擁護してハスカーラー と呼ばれる啓蒙運動がユダヤ人の間で開始された。ハスカーラーに抵抗のあった人たちの中から1740年 ごろ、ガリチア でバアル・シェム・トーブ がハシディズム を開始した。1786年 、ロシアがユダヤ教徒居住区(英語版 ) (露 : Черта́ осе́длости 、イディッシュ語 : דער תּחום-המושבֿ )を設置。1795年 にポーランド分割 (1772年 ・1793年 ・1795年 )が実施され、ポーランド・リトアニア共和国 が消滅して東部(旧リトアニア 公国領)がロシアに併合された。ポーランドが消滅してその庇護を失ったユダヤ人は、ハプスブルク家 へ庇護を求めたが、ウクライナ人・ベラルーシ人から裏切り行為と受け取られた。1806年 7月、神聖ローマ帝国 が解体され、1811年 にカール・テオドール・フォン・ダールベルク がナポレオン法典 をもとにフランクフルトのユダヤ人に市民権を認めた。
しかし、ナポレオンが敗退すると、1814年 にはユダヤ人の市民権と選挙権が再び剥奪された。1819年 、ドイツ のヴュルツブルク でポグロム が発生し、瞬く間にドイツ文化圏全域でヘプヘプ・ポグロム(英語版 ) が起こった。1821年 にはウクライナでオデッサ・ポグロム(英語版 ) が起こった。
1848年 、ハンガリー革命 に参加したハンガリー系ユダヤ人(英語版 ) が弾圧された。これをきっかけにアルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェン によってハンガリーも1851年 から1860年 にかけてドイツ化 が進行した。1864年 、フランクフルトのユダヤ人に再び市民権が認められ、1871年 にドイツ帝国 が建国された際、ユダヤ人は正式にドイツ国民としての権利を与えられた。
19世紀後半になると、主に旧リトアニア 公国の領域(ベラルーシ ・ウクライナ ・モルドヴァ )で、ウクライナ人・ベラルーシ人農民、コサック などの一揆の際にユダヤ人が襲撃の巻き添えとなった。1881年 にアレクサンドル2世 が暗殺されると、帝政ロシア 政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したため反ユダヤ運動が助長されることになり、ロシアで反ユダヤ主義のポグロム (1881年 - 1884年 )が起こった。ユダヤ人はオーストリア=ハンガリー帝国領 ブロディ へ大量に脱出したため町が混乱すると、1882年 に五月法(英語版 ) が発布され、ユダヤ人への締めつけが実施された。
1890年 、エリエゼル・ベン・イェフダー がパレスチナ に「ヘブライ語委員会」(「ヘブライ言語アカデミー 」の前身)を設立。1894年 にフランス でドレフュス事件 が起こり、同年には「イディッシズム(英語版 ) 」を代表する作家、ショーレム・アレイヘム による『牛乳屋テヴィエ 』(『屋根の上のバイオリン弾き 』の項を参照)が発表された。1896年 、テオドール・ヘルツル が「ユダヤ人国家(英語版 ) 」を発表。
1900年 には黒百人組 が結成され、1903年 から1906年 にかけてロシアで度重なるユダヤ人襲撃が起こった(キシナウ・ポグロム(英語版 ) )。各国でポグロムやユダヤ人襲撃が行われたことが引き金となり、古代に祖先が暮らしていたイスラエルの地に帰還してユダヤ人国家を作ろうとするナータン・ビルンバウム によるシオニズム運動 が起きた。「ユダヤ人」は世界に離散後もそのほとんどがユダヤ教徒であり(キリスト教 やイスラム に改宗した途端、現地の「民族」に「同化」してしまう)、ユダヤ教の宗教的聖地のひとつであるイスラエルの地に帰還することもその理由のひとつである。
第一次世界大戦
1914年 11月にイギリスがオスマン帝国 に宣戦布告すると、ユダヤ人シオニストの閣僚・ハーバート・サミュエル が「The Future of Palestine 」を閣僚に回覧した。当時、パレスチナはVilayet of Damascus 南西部にあったが、1915年 10月24日 のフサイン・マクマホン協定 のこの部分に関する解釈がのちに大論争となった。
第一次世界大戦 が始まると大量のコルダイト火薬 が必要になったが、その原料のアセトン 供給を握っていたのはロシア帝国 の化学者でシオニストのハイム・ヴァイツマン であった。このことでイギリス政府閣僚との知己を得たヴァイツマンはアーサー・バルフォア にバルフォア宣言 を働きかけた。
1916年 5月16日 にはサイクス・ピコ協定 が締結された。同年6月にはアラブ反乱 が起こされ(1916年 6月 - 1918年 10月)、1917年 には熱心なシオニストの第2代ロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルド がイギリス政府からバルフォア宣言 を取りつけ、イギリス政府はシオニズム支持を表明することになった。この条約はトルコ とのセーヴル条約 やイギリス委任統治領パレスチナ (1920年 - 1948年 )につながっていったのである。
1919年 にはファイサル・ワイツマン合意(英語版 ) が調印され、パレスチナへのユダヤ人入植を促進させることで合意している。国際連盟 の決議で設置されたイギリス委任統治領パレスチナで公用語のひとつはヘブライ語 になり、ハーバート・サミュエルは初代高等弁務官となった。
イスラエル建国以前の中東では、イスラム教徒とユダヤ教徒は共存してはいたが、しばしば大規模な反ユダヤ暴動が起きた。1920年 7月の暴動(ユダヤ人216人死傷)、1921年 の暴動があった。
1922年 、イギリス委任統治領パレスチナ が成立。1925年 、1926年 の暴動、1929年 には嘆きの壁事件 がきっかけとなって8月23日 にはヘブロン虐殺(英語版 ) (ユダヤ人133人死亡、339人負傷、アラブ人439人死傷)があった。
1928年 、ヨシフ・スターリン の社会主義 民族政策により、アムール川 沿岸の中ソ国境地帯に「ユダヤ民族区 」が設置され、西ウクライナ から西ベラルーシ(ベラルーシ語版 ) にまたがる「ルテニア 」と呼ばれた地域、すなわちカルパティア・ルテニア (カルパト・ウクライナ )・ガリツィア (ガリツィア・ロドメリア王国 )・モルダヴィア ・ベッサラビア などのシュテットル から多数のユダヤ人が移住した。これは社会主義的な枠組みの中でユダヤ人の文化的自治をめざすもので、イディッシュ語 の学校や新聞が作られた。同時期の戦間期には、ガリツィアなどからの難民がウィーン へも押し寄せ、イディッシュ語 のコミュニティーを形成したことが知られている[30] 。
第二次世界大戦
1933年 に国家社会主義ドイツ労働者党 が政権を握ると、ドイツにおいてユダヤ人迫害政策は公的なものとなり、さまざまな扱いで圧迫されるようになった。1936年 から1939年 のパレスチナのアラブ反乱 では、エルサレムでの暴動があった。
なお1936年の時点でエルサレムの人口は12万5,000人、うちユダヤ人が7万5,000人を占めていた。1938年 11月9日 、ドイツ全土で『帝国水晶の夜 』(ドイツ語 : Reichskristallnacht )事件が発生し、その後ユダヤ人に対する迫害政策がさらに進展した。1939年 、第二次世界大戦が勃発し、ナチスは占領地域におけるユダヤ人の隔離を開始した。ソ連 はユダヤ人難民のユダヤ自治区 への流入を禁止した。 1940年 8月31日 、杉原千畝 がリトアニア のカウナス を脱出。杉原千畝は、7月からドイツ占領下のポーランドを脱出してきたユダヤ難民に「命のビザ」を発給したことで知られているが、1947年に責任をとらされ、依願退職した。
1941年 、ソ連はヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国 を廃止し、ヴォルガ・ドイツ人 をシベリア やカザフスタン へ追放し、カザフスタンのドイツ人(英語版 ) と呼ばれた。1941年 7月10日 、イェドヴァブネ事件 。1941年 9月6日 、リトアニア のヴィリニュス にヴィリニュス・ゲットー が設置された。ナチスは当初隔離したユダヤ人をマダガスカル島などに追放する計画(マダガスカル計画 )を立てていたが、その後絶滅収容所 への収容・絶滅計画に方針を切り替えた。これらはホロコースト と呼ばれる。
イスラエルの建国とパレスチナ問題
ホロコースト の実態が西側諸国に伝わると、パレスチナの地にユダヤ人国家を建設するというシオニズム がさかんになり、1945年 にアメリカでユダヤ人抵抗運動(英語版 ) が組織された。
しかしこの運動はパレスチナに住んでいたアラブ人およびそれを同胞と見るアラブ諸国との軋轢を生み出した。1946年 にはシオニズムを奉じるユダヤ系組織によるキング・デイヴィッド・ホテル爆破事件 やイフード運動 の指導者ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニー(Fawzi Darwish al-Husseini )暗殺が起こった。1947年 11月29日 、国際連合 でアメリカとソ連などの支持を受けて『パレスチナ分割決議 (国連総会決議181号)』が採択されると、11月30日 からパレスチナ内戦(英語版 ) が始まり、1948年 4月にはエツェル によるデイル・ヤシーン事件 などが起こったが、同年5月14日のイスラエル国 建国のイスラエル独立宣言 が行われると、翌日の5月15日の第一次中東戦争 につながっていった。全パレスチナ政府(英語版 ) がガザ に設置され、アミーン・フサイニー が大統領 となると、第一次中東戦争における殺害と虐殺(英語版 ) が多発した。1949年 7月の休戦協定 によってパレスチナ地域のうち、大部分をイスラエルが獲得。エジプト はガザ地区 を獲得し、ヨルダン (1949年6月にトランスヨルダン から名称変更した)は東エルサレム およびヨルダン川西岸地区 を獲得した。
一方、寸土も獲得できなかった全パレスチナ政府が4か月で崩壊すると、1951年 にアミーン・フサイニーは、親イスラエルとみなしたヨルダンのアブドゥッラー1世 を暗殺した。
1952年 にエジプト革命 が起こり、1953年 にエジプト共和国が成立すると、第2代大統領ガマール・アブドゥン=ナーセル はアスワン・ハイ・ダム 建設の協力をアメリカに求めた。しかし、1956年 になってアメリカ合衆国 国務長官のジョン・フォスター・ダレス がエジプトへの協力に反対した[注 5] 。
そのためナーセルは東西冷戦 を利用してソ連側に接近し、さらに汎アラブ主義 を掲げ、スエズ運河国有化(英 : Nationalisation of the Suez Canal )を断行した。当時フランス は、アルジェリア戦争 (1954年 - 1962年 )でアルジェリア民族解放戦線 をエジプト共和国が支援していると考えたため、英仏は第一次中東戦争でエジプトと敵対したイスラエルを支援する形で第二次中東戦争 が勃発した。
アメリカ合衆国 のアイゼンハワー 大統領は、アラブ冷戦(英語版 ) 下にソ連が介入する事態を懸念し、平和のための結集決議 で即時停戦を求める総会決議997を採択した。1957年3月16日にイスラエルは撤退し、エジプトはスエズ運河の国有化に成功した。ダレスの戦略は完全に裏目に出て、中東でのソ連の影響力は一気に高まり、第三次中東戦争につながった。
米国がベトナム戦争 でアラブ冷戦(英語版 ) に手が回らなくなると、ソ連のKGB はイスラエルのモサッド の諜報活動を逆手にとった。ゴラン高原 におけるユダヤ人入植地の建設をめぐる紛争で、ソ連はエジプトとシリアを情報操作で開戦準備に誘導し、モサッドの入手する情報から先制攻撃を恐れたイスラエルは1967年 に逆に先制攻撃を行い、第三次中東戦争 を開始した。
第三次中東戦争は、イスラエル領土の拡張運動「大イスラエル構想(英語版 ) 」(1967年 - 1976年 )が活発になった時期であることから、パレスチナ人およびアラブ人とユダヤ人入植者との対立がその政策の結果として建国以降一貫して引き起こされてきたと拡大解釈する立場もあらわれた。
1964年にアラブ連盟によりパレスチナ解放機構 (PLO)が結成されていたが、1969年2月に第三次中東戦争で活躍したファタハ のヤーセル・アラファート が議長に就任すると、PLOが事実上のパレスチナ亡命政府と看做されるようになった。1970年 にガマール・アブドゥン=ナーセル が急死すると、アンワル・アッ=サーダート がエジプト大統領に就任した。サーダートは、ナーセルのイスラエル強硬路線を踏襲し、アラブ同士の結束を固めるために1971年 9月にシリアとリビアとのアラブ共和国連邦 を結成した。1972年4月には、1970年 のブラック・セプテンバー事件 でPLOを追放していたヨルダンは国交を断絶された。一連の主導権争いにイスラエルが巻き込まれる形で、1973年10月の第四次中東戦争 が勃発した。石油輸出国機構 (OPEC)は、イスラエル援助国に対して石油戦略を発動し、世界でオイルショック を引き起こした。
和平締結を模索する中で、サーダートはナーセルの反イスラエル反米路線からの転換を図った。1977年 6月にサーダートがイスラエルへメナヘム・ベギン 首相を公式訪問し、1978年 9月のキャンプ・デービッド合意 はサーダートが単独で締結した。しかし、1981年 10月にサーダートはエジプトのジハード団 によって暗殺された。
1987年 に第1次インティファーダ が始まり、1993年 にはイスラエルとPLOのオスロ合意 によりパレスチナ自治政府 が設立され、イスラエルはヨルダン川西岸地区とガザをPLOに引き渡した。
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