日本における自動車の年表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/06 13:42 UTC 版)
時代区分
日本の自動車史においてどこに時代区分を置くかという点は概ね以下のような説がある。本記事では、節を分けて記事の見通しを良くするための便宜上、各説を折衷して時代区分を行っている[注 1]。
- 戦前
- 柳田諒三『自動車三十年史』(1944年):黎明時代(1900年{皇太子献納車}~)、発展時代(1923年{関東大震災}~)、混乱時代(1931年{満洲事変}~)、整備・統制時代(1941年{支那事変}~)
- 尾崎正久『自動車日本史』(1955年):初期(1904年{山羽式蒸気自動車}~)、自動車発明期(1907年~)、乗用車工業簇出期(1911年頃~)、小型四輪乗用期(1924年~)
- 尾崎正久『国産自動車史』(1966年):初期(1899年{プログレス電気自動車}~)、欧州車時代(1913年~)、米国車時代(1925年~)、国産自動車時代(1939年~)
- 大須賀和美『自動車史の時代区分と取締法規の変遷』(1990年):府県令時代(1903年8月20日~)、旧取締令時代(1919年1月11日~)、新取締令時代(1933年8月18日~)[W 1]
- 齋藤俊彦『轍の文化史』(1992年):揺籃期(1898年~)、発展期(1923年{関東大震災}~)、戦時期(1937年{日中戦争勃発}~)[1]
- 荒井久治『自動車の発達史 下』(1995年):営業や製造の開拓時代(1898年~)、本格的な自動車会社設立の時代(1911年頃~)、国策による自動車産業の保護育成の時代(1932年頃~)[2]
- GP企画センター『日本自動車史年表』(2006年):明治・大正時代(1898年~)、昭和・戦前期(1927年~)
- トヨタ博物館『年報 2019年度版』(2020年):パイオニア達の奮闘(1904年~)、保有の広がりと米国勢による席巻(1924年~)、鮎川と豊田の新たな挑戦(1933年~)、自動車製造事業法(1936年~)、自動車産業の萌芽(1936年~)[3]
- 戦後
- 吉田信美『ブリタニカ国際大百科事典 8』(改訂版・1984年):第一期・連合軍支配下(1945年~)、第二期・外国技術導入期(1953年{日野、日産、いすゞの外国メーカーとの技術提携}~)、第三期・乱戦期(1959年{乗用車メーカーの競争と淘汰}~)、第四期・成長期(1964年{生産と輸出の急増の始まり}~)、第五期・転換期(1970年{資本自由化による外資参入}~)[4]
- 大須賀和美『自動車史の時代区分と取締法期の変遷』(1990年):転換期(1948年1月1日{内務省解体後}~)、現行法時代(1951年6月1日~)[W 1]
- 荒井久治『自動車の発達史 下』(1995年):戦後復興から貿易の自由化の時代(1945年8月~)、内需と輸出車の絶好調の時代(1956年頃~)、経済摩擦の激化の時代(1980年頃~)[2]
- GP企画センター『日本自動車史年表』(2006年):戦後の復興期(1945年~)、成長と競争の始まり(1953年{ノックダウン生産の始まり}~)、黄金の60年代の攻防(1960年{各社新工場の完成}~)、マイカー時代の到来(1966年{マイカー元年}~)、排気規制とオイルショックの時代(1974年{オイルショックの影響顕在化}~)、性能競争と多様化の時代(1980年{車種の多様化}~)、晴れのち曇り・変動の予感(1989年{バブル景気とバブル崩壊}~)、トップランナーへの道(1997年{プリウス登場}~)
- Gazoo『よくわかる自動車歴史館』(2013年):戦後直後(1945年~)、復興とモータリゼーション(1955年{高度経済成長期の始まり}~)、社会問題発生(1970年{交通事故死者数の社会問題化}~)、黄金期(1981年(日本が世界最大の自動車生産国に)~)、激動期(1992年{バブル崩壊後}~)、新技術(1997年{プリウス登場}~)[W 2]
- トヨタ博物館『年報 2019年度版』(2020年):復旧・再出発期(1945年~)、産業基盤構築期(1959年~)、完成車輸出拡大期(1970年~)、海外生産進出期(1980年~)、グローバル化と温暖化対応期(1990年~)[3]
戦前期
自動車の伝来(1890年代~)
19世紀末に外国から日本に自動車が持ち込まれ始める(自動車の渡来)。20世紀(1901年)に入ると、外国商館による輸入が始まり、少量ながらまとまった数の自動車が持ち込まれるようになる。当時は世界でもガソリンエンジン車は主流の地位を確立しておらず、日本にもガソリンエンジン車以外に蒸気自動車や電気自動車も持ち込まれた。この時期の出来事は不明瞭なことが多く、調査・研究によってそれまでの通説が変更されたことが少なくない。
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)
- 1898年(明治31年)
- 1月、フランス人技師ジャン=マリー・テブネ[8]がパナール・ルヴァッソール(ガソリン自動車)と共に来日する[9][6][W 4][注 3][注 4]。(日本に初めて持ち込まれた四輪自動車[定説の変化 1])
- 2月6日、テブネが東京市の築地と上野間でパナール・ルヴァッソールの試運転を行う[12][注 5]。その後もテブネはたびたび東京市内を同車で走行する[13]。
- 3月11日、テブネは帰国に際してパナール・ルヴァッソールを競売にかけるが指定した額に達する入札がなかったため競売不成立となる[14][15]。そのため、テブネは同車と共に帰国する[14][9][6][注 6]。
- 1899年(明治32年)
- 7月17日、日英通商航海条約が発効し、日本が不平等条約を結んでいた他の国との間でも同様の改正条約が発効する(フランス、オーストリアとの条約は同年8月4日発効)。これにより外国人居留地が廃止され、外国人たちは居住・旅行・営業の自由が認められる(内地雑居)。
- 1900年(明治33年)
- 1901年(明治34年)
- 3月、ブルウル兄弟商会によって輸入されたナイアガラ蒸気自動車が横浜港に到着する[22][23][24][注 9]。(日本初の販売目的で輸入された自動車)
- 8月、東京市京橋区銀座で自転車販売の双輪商会を営む吉田真太郎が、ロシア公使館の書記官からグラディエートル社製の四輪車を譲り受ける[6][注 10]。(日本初の自家用車[定説の変化 2])
- 11月、東京市京橋区銀座にて松井民治郎がモーター商会を開業する[28][29][6][30][注 11]。(日本初の日本人の経営による自動車販売店)
- 11月3日、大日本双輪倶楽部が上野公園の不忍池畔で自転車レースを開催する[23][33][6]。この際、自動車(二輪、三輪、四輪)計3台によるエキシビジョンレースが開催され、須藤貞三郎のトーマス自動双輪車が1着、吉田真太郎のグラディエートル四輪オートバイが2着、F・B・アベンハイムのトーマス自動三輪車が3着となる[23][6][注 12]。(日本初の自動車レース[注 13])
- 12月、米国公使館書記官のファガソンが本国から自動車を取り寄せるが分解されていたため組立ができず、相談を受けた東京芝浦製作所(後の東芝)は小林作太郎を派遣し、小林は同車を完全に組立てて動くようにする[6][34]。
- 1902年(明治35年)
- 3月、モーター商会が会員から会費を取って自動車に乗せる自動車倶楽部を設立するが、会員となる者はほとんど現れずに終わる[6][定説の変化 3]。
- 3月、高知の今政猪熊が大阪で製造された石油発動機車を使って高知─伊野間で乗合自動車として走らせ、約半年間営業する[36][37][注 14]。
- 4月5日、上野公園の不忍池畔で自転車レースが行われ、その余興として自動車による競走が行われる[23][33][6]。(日本初の{複数の四輪自動車による}自動車レース)
- 4月、ウォルター・ストーンが輸入したロコモビル蒸気自動車8台が横浜港に到着する[38][6][注 15]。同年6月に引き取りが行われた際に自動車に対する関税の未整備により横浜税関から2割5分の関税を課され、輸入主のウォルター・ストーンは1割にするべきと異議申し立てを行う[40]。
- 5月、三井呉服店(後の三越)がモーター商会に商用自動車を注文する[43][6]。
- 6月、ロコモビル日本代理店が東京・芝口で販売店(商品陳列所)を開店する[定説の変化 4]。
- 7月、横浜グランド・ホテルの脇道で、イギリス人クーンが、靴職人の藤本仲次郎を自動車で負傷させる[6]。(日本初の自動車による人身事故)
- 1903年(明治36年)
- 1月以前、帝国陸軍が自動車の試験を行う[48][注 16]。
- 3月1日から7月31日にかけて、大阪で第5回内国勧業博覧会が開催され、自動車が複数台出品され、デモ走行も披露される[定説の変化 5]。これは自動車が多くの一般の日本人の目に触れる最初の機会となり[54][30][W 11]、日本各地で乗合自動車が計画されるようになる[55][56][57]。
- 4月、三井呉服店がモーター商会に注文していたフランス製の商用車(クレメント)が到着し、同店はそれを商品配達に使用する[43][6]。(日本初の商用自動車[注 17])
- 8月20日、愛知県で乗合自動車取締規則(県令第61号)が公布される[6][W 9]。(日本初の自動車取締規則[定説の変化 6])
- 9月20日、京都の二井商会がトレド蒸気自動車を改造した車両を用いて乗合自動車事業を始める[6][62][注 18]。
- 11月、双輪商会が自動車部(自動車販売部)を設置し、自動車広告を雑誌に出す[55][65][6][66]。
- 12月、愛知県名古屋市で自動車税として1台あたり年20円を課す提案が出され、可決される[6]。(日本初の自動車税[定説の変化 7])
国産車の始まり(1904年~)
自動車が広く知られるようになるにつれ、国産車製造を志す者が各地に現れる[67]。しかし日本の工業技術全体の未熟さから産業としての自動車工業が確立する条件はこの時期にはそろわなかった[W 4]。欧米から自動車を持ち帰る者たちも現れるが、おそろしく高価であることに加えて必要性も不可解であることから骨董趣味の変形くらいに考えられており[68]、上流階級の者たちの道楽という側面が大きい時期だった[注 20]。
- 1904年(明治37年)
- 1月7日、双輪商会の吉田真太郎が米国の自転車・自動車事情を視察するため渡米する[6][66][定説の変化 8]。
- 2月8日、日露戦争開戦。前年の内国勧業博覧会で盛り上がった自動車ブームは消沈し、戦争ムード一色となる[56]。
- 4月9日、双輪商会の吉田真太郎が帰国する[6][66][定説の変化 8]。その際、営業車、娯楽車、乗用車の3台の自動車を持ち帰る[66][注 21][定説の変化 9]。
- 5月7日、山羽式蒸気自動車(製造は山羽虎夫)が完成し、試走が行われる[70]。(日本で製造された初の自動車/日本初の純国産車[注 22][定説の変化 10])
- 9月、モーター商会の残品を林平太郎が引き受けて、日本自動車商会を設立する[6]。モーター商会は翌年2月に解散する[6][定説の変化 11]。
- 1905年(明治38年)
- 2月5日、広島県の横川駅─可部間で乗合バス事業が始まる[6][W 14][定説の変化 12]。(日本初のバス営業[注 23])
- 5月、大阪の岡田商会がフォード・モデルAを輸入する[6][78]。(日本初のフォード輸入車[定説の変化 8])
- 8月26日、有栖川宮威仁親王が欧州歴訪から帰国。親王がイギリスで購入したフランス車「ダラック号」は同年10月11日に有栖川宮邸に到着する[79]。
- 9月5日、日露戦争が終戦する。大陸における戦闘で得た経験から、陸軍は自動車の必要性を認識し、戦後に具体的な研究を進める[80]。
- 10月12日、威仁親王がフランス車ダラック号に乗って参内する[81][6]。(自動車に乗って参内した初の事例)
- 10月26日、堺市神明町大通りで、大阪自働車会社の自動車が龍小芳(5歳)を轢いて死亡させる[6]。(日本初の自動車による死亡事故)
- 1906年(明治39年)
- 3月30日、関税定率法(法律第19号)が改正公布され、課税対象として「自動車」が追加されると共に「5割」の関税を課す旨が定められる[82][W 15](1951年まで基本的にこの税率が維持される)。
- 10月、高峰譲吉が帰国に際してフォード・モデルNを持ち帰り、三共合資会社の塩原又策に提供する[78][注 24]。
- 11月、威仁親王が吉田真太郎と内山駒之助に国産車の製作を依頼し、吉田は双輪商会自動車部を解散して京橋区木挽町で東京自動車製作所を新たに設立する[6][78][定説の変化 8]。(日本初の自動車製造会社)
- 1907年(明治40年)
- 2月、警視庁 (内務省)が自動車取締規則を制定する[W 16]。
- 4月、東京自動車製作所がフォード・モデルNを20台輸入し、「ちどり号」の名を付けて販売を開始する[83][78][注 26]。
- 7月6日、イギリス留学中の大倉喜七(後の喜七郎)がブルックランズで開催された第1回自動車レースに出場し、その中のモンタギュー・カップ・レース(Montagu Cup)で2位に入賞する(車両はフィアット)[W 17]。
- 9月、タクリー号(製造は東京自動車製作所)の第1号車が概ね完成し、有栖川宮威仁親王による試乗が行われ、その後、同車は特別な塗装や内装を施された上で11月末に親王に献上された[79][W 18][定説の変化 8]。(日本で製造された初のガソリン自動車[注 27][定説の変化 13])
- 秋、高峰譲吉の意向により、三共合資会社がフォード車の輸入販売業を始める[16][61]。
- 1908年(明治41年)
- 2月、帝国陸軍が購入したフランス製のノーム軍用トラック2台が到着し、2月18日に日比谷公園で試運転が行われる[48]。(日本に初めて持ち込まれた軍用自動車)
- 5月30日、ニューヨーク・パリレースに参加中のド・ディオン・ブートンとブレシア・ジュストが横浜港に到着し、6月10日には同じくトーマス・フライヤーが到着する[91]。一行は横浜から東海道経由で京都に向かった後、敦賀港まで走行する[91][W 19][注 28]。
- 8月1日、有栖川宮威仁親王を先頭に、日比谷公園から立川まで10台の自動車が参加する遠乗り会が催される[注 29]。皇族が参加したということもあってこの出来事は新聞などで大きく報じられて自動車への関心が高まり、財閥系の有力企業による自動車輸入への参入を促すなどの影響を与える[69]。
- 12月15日、逓信省が郵便逓送に自動車を初めて用いる[W 20]。東京中央郵便局と東京市内の分室との間の逓送に用いられる[W 20]。
- 時期不明、東京洲崎埋立地で東京自動車製作所のタクリー号と三共商会のフォード車が性能比較を目的とした競走を行い、タクリー号が上回る[93]。この結果、自動車事業に見切りをつけた三共商会は在庫を2年ほどかけて売り切り[68]、フォードの輸入販売権を手放す[93]。
- 1909年(明治42年)
- 3月、三共合資会社がフォード・モデルT(T型フォード)の輸入販売を始めるものの[6][94]、ほどなくフォード車の輸入販売から手を引く[78]。
- 4月、国末号1号車(製造は山田鉄工所)が完成する[89][95]。(初の純国産ガソリン自動車[注 30])
- 9月、大阪で島津楢蔵が4サイクル400ccのガソリンエンジンとその車体を製作し、オートバイ(NS号)を完成させる[W 21]。(日本で製造された初の二輪自動車[注 31])
- 11月、大倉喜七(後の喜七郎)が大日本自動車製造合資会社を設立する[6]。
- 末、警視庁が東京府内の登録自動車をまとめたリストを作成する[97]。
- 1910年(明治43年)
- 8月、「大日本自動車製造合資会社」が「日本自動車合資会社」に社名変更する[6]。
- 12月20日、帝国ホテル(東京)で日本自動車倶楽部(NAC)が設立される[61][6]。
- 時期不明、吉田真太郎が吉田商店を設立し、同時に「自動車運転手修技所」という名の運転手養成所を創立する[98]。(日本最初の運転手養成組織)
欧州車の時代(1911年~)
優美な欧州車は自動車の主要顧客である上流階級の者たちに好まれ、主流の地位を占める。皇室や官公庁でも自動車が利用され始め、タクシー事業を始める者たちも現れ始める。第一次世界大戦(1914年 - 1918年)を背景に軍用としての研究も具体性を帯び、陸軍主導で実験的に車両が作られるようになる。民間においても各地で国産の乗用車の製造が試みられるものの試作の域を出る物はなく、米国から輸入され始めたフォード・モデルTは徐々に勢力を拡大し始める。
- 1911年(明治44年)
- 4月4日、日米通商航海条約(小村条約)が発効し、日本が関税自主権を回復する。関税定率法は大きく改正されたが、自動車については基本税率50%の輸入関税が維持される[W 22][W 23]。
- 4月末から5月初めにかけて、川崎競馬場でジェームズ・C・マース飛行士の飛行機「赤鬼号」と自動車が競争を行う[16][99][注 32]。
- 7月[W 4]、橋本増治郎が快進社自働車工場を設立する[16][W 24][W 25][注 33]。
- 7月、大阪府警が消防自動車(消防ポンプ車)を常備するようになる[102][6][定説の変化 14]。(日本初の消防自動車)
- 9月、セール・フレザー商会がフォード車の輸入販売権を獲得し、翌年に設立されたばかりのタクシー自働車から大量注文を得るなどして販売を軌道に乗せ、モデルT(T型)の普及の先鞭をつける[105][78][注 34]。
- 10月、大阪砲兵工廠が軍用トラックの試作車(軍用自動貨車甲号)2台を完成させ、同月18日に中山道経由で東京まで陸軍による同車の試走が行われる[107][93][108][定説の変化 15]。(日本で独自開発された初の軍用自動車/軍用トラック)
- 11月、皇室経済会議が開かれ、イギリスのデイムラー、ドイツのダイムラー(メルセデス)、イタリアのフィアットの3社に対して、外務省を介して御料車の製造が依頼される[107][111]。同時に、大倉喜七(喜七郎)に車両製作の監督と、ヨーロッパ各王室の運転手服装の調査が下命される[107][注 35]。
- 時期不明、雑誌『飛行器ト自動車』(東京自動社)が創刊される。(日本初の自動車雑誌)
- 1912年(明治45年/大正元年)
- 5月5日、兵庫県の鳴尾競馬場において、第1回自動自転車競走会が開催される[33][112]。(オートバイ単独のものとしては最初のレース)
- 6月、陸軍省内に軍用自動車調査委員会が設置される[16][113][80]。
- 7月10日、東京市麹町区有楽町でタクシー自働車株式会社が設立され、8月15日から営業を始める[16][6][114][W 26][W 27][定説の変化 16]。(日本初のタクシー会社)
- 7月30日、天皇睦仁(明治天皇)が崩御。同年9月13日の大喪の礼を警備するにあたり、警視庁が警備用としてロイト自動車を購入し、警視庁としては初めて自動車を導入する[115]。
- 12月20日、神奈川県庁と日本自動車倶楽部が協力し、横浜、本牧、藤沢、鎌倉、箱根山登山道に道路標を設置する[116][117][118]。(日本初の自動車用の道路標識)
- 12月31日から翌年2月にかけて、前年に発注した計9台の御料車が横浜港に順次到着する[119][111]。
- 1913年(大正2年)
- 2月14日、青山離宮で天皇嘉仁が初めて自動車(デイムラー)に試乗する[120][注 36]。
- 3月10日、宮内省の調度寮に自動車部が設置され、皇室で自動車(御料車)の使用が正式に始まる[61][111][122][120][114][注 37]。
- 時期不明、ダンロップ(後の住友ゴム工業)が神戸市の自社工場で自動車用タイヤの生産を開始する[W 28]。(日本で製造された初の自動車用タイヤ)
- 1914年(大正3年)
- 3月10日、東京海上保険が自動車保険の取扱いを開始する[123][W 29]。(日本初の自動車保険)
- 3月20日から7月31日にかけて上野公園で東京大正博覧会が開催される。快進社自働車工場のダット自動車(通称「DAT号」「脱兎号」[注 38])などが出品される。
- 三井物産が自動車事業に見切りをつけて手を引き、同社社員の梁瀬長太郎にほぼ無償で事業譲渡する[125][W 30][注 39]。翌年5月、梁瀬は東京日比谷で梁瀬商会(後のヤナセ)を創業し、貸ガレージ業を始める[W 30]。
- 7月、第一次世界大戦が勃発したことで、日本では自動車の輸入が止まる。一方、大戦景気により「成金」と呼ばれる俄富豪が増えたことで翌年からは在庫の車が飛ぶように売れるようになり、車は品薄となる[W 31][注 40]。
- 9月、青島攻略を目的とした戦闘(青島の戦い)に先立ち、上陸部隊の軍需物資輸送用として、日本の軍隊では初めて軍用トラックが実戦に投入される[61][108][129][80]。
- 1915年(大正4年)
- 8月、星子勇の『ガソリン発動機自動車』(モーター雑誌社)が刊行される[130][W 32]。
- 10月16日・17日、東京目黒競馬場で東京自動車及自動自転車競技会(自動車大競走会)が開催される[130][101]。(日本初の興行としての四輪自動車レース[注 41])
- 11月10日、京都御所において天皇嘉仁の即位の礼が行われる。参列する各国政府高官用の高級乗用車や即位式のパレードを護衛するための自動車が大量に必要となり、用立てられる[131][132]。
- 1916年(大正5年)
- 1月、東京府の発動機協会に自動車運転手養成部が設立され、運転手の養成が始まる[130]。(日本初の自動車教習所[注 42])
- 3月から8月にかけて金子善一の『自動車学教授書』(発動機協会)が全7号で発行され、ベストセラーとなる[130][W 33]。
- 8月、矢野倖一がアロー号を完成させる[W 34]。この車両は同時代の他の車両と異なり長く残り、2024年現在も最古の国産車両として現存している。
- 時期不明、大阪で中島商会がヤマータ号を製作する[133][注 43]。(日本で製造された初のオート三輪)
- 1917年(大正6年)
- 1月、東京自動車学校に2名の女性(渡辺はま、水野千花尾)が入学する。
- 4月、東京瓦斯電気工業が自動車部(後のいすゞ自動車と日野自動車)を設けて自動車事業に進出し[W 36][W 37]、大阪砲兵工廠の発注により帝国陸軍の4トン制式自動貨車[注 45]5台の試作を行う[133][134][W 38]。
- 10月13日、BFグッドリッチと横濱電線製造(後の古河電気工業)の合弁で、橫濱護謨製造(後の横浜ゴム)が設立される[133][W 39][W 28]。
- 1918年(大正7年)
- 1月、警視庁が交通取締りの専務員を設け、6台のオートバイによる取締りを始める(通称「赤バイ」)[W 40]。
- 3月23日、軍用自動車補助法が公布され、5月から施行される。
- 6月、三菱造船神戸造船所と大阪の発動機製造株式会社(後のダイハツ工業)が大阪砲兵工廠から民間自動車製作指導工場に指定され、陸軍用の4トン制式自動貨車(発動機製造はこの車両のみ)と3トン制式自動貨車の試作に着手する[133][135]。三菱造船は同年中に完成させるが、他の事業を優先させるため、試作のみで終わる[133]。
- 8月、「快進社自働車工場」が解散し、「株式会社快進社」に改組される[136][W 24]。
- 10月17日、帝国陸軍が購入したマークIV戦車雌型1両が神戸港に到着する。同年11月4日、青山練兵場で公開試験が行われる[130]。(日本に初めて持ち込まれた戦車)
- 11月11日、連合国とドイツ帝国の間で休戦協定が結ばれ、第一次世界大戦が終結する。
- 11月、三菱造船神戸造船所が三菱・A型を完成させ、三菱商事とも協力して1920年3月から販売する[137][注 46]。(日本における初の見込み生産による量産乗用車)
- 11月、東京石川島造船所がイギリスのウーズレーとライセンス提携を結び、自動車製造に進出する(後のいすゞ自動車)[136][138][W 41]。
- 12月1日、帝国陸軍に自動車隊が創設される[130]。
- 12月、内外興業株式会社が設立され、パッカード、シボレー、ページなどの輸入車の月賦販売を始める[139]。(日本初の自動車の月賦販売)
- 時期不明、川崎造船所兵庫工場がトラックの生産を始める[W 42]。
- 1919年(大正8年)
- 1月11日、内務省令として自動車取締令(自動車取締規則)が公布され、2月15日に施行される[130]。同法により自動車についての取り決めが日本全国で統一され、各府県の既存の取締規則は廃止され、自治体に応じた細則は新たに制定される[136]。
- 3月、東京瓦斯電気工業がTGE-A型を完成させ、同車は3月1日付で軍用自動車補助法の検定に合格し認定第1号となる[136][140][141]。
- 3月、大阪の発動機製造が前年に大阪砲兵工廠から依頼されていた4トン制式自動貨車の試作車を完成させる[130][136]。しかし、内燃機関製造の業務を優先することを理由に生産を引き受けることは辞退する[136]。
- 三菱造船と発動機製造の2社とも断ったため、トラックの生産は東京瓦斯電と東京石川島造船所が行うことになる[136]。
- 4月、道路法が公布され、翌1920年4月に施行される。同法により初めて陸上交通として自動車が道路整備にあたって基準のひとつとして考えられ始めるようになり、舗装道路の普及が国策として考慮され始める[注 48]。
- 9月、安全自動車株式会社が東京市の赤坂見附、虎ノ門、日比谷公園勧業銀行(本店)前、芝公園赤羽橋際、九段下、四谷見附の6ヶ所にガソリン給油所を設置し、シェル石油の販売を始める[142]。(日本初のガソリンスタンド)
- 9月、最初の手動式交通信号機が設置される[136]。
- 11月、東京瓦斯電気工業が京都市役所に救急自動車を納入する[143]。(日本初の救急自動車)
- 12月5日、大阪市で久保田権四郎、山本藤助、高山圭三らが実用自動車製造株式会社を設立する[144][130][W 25]。同社はウィリアム・ゴーハムの指導の下、三輪自動車を製造する。
- 1920年(大正9年)
- 1月、東京市街自動車がバスガール(婦人車掌)を採用する[76][注 49]。(日本初の女性のバス車掌)
- 2月、「梁瀬商会」が「梁瀬自動車」に社名変更する。シボレーをはじめとする乗用車の部品を輸入し、小規模ながらノックダウン生産を行うようになる[145]。
- 3月、世界大戦が終わって1年以上経過しヨーロッパ列強が市場に復帰を始めたことで日本では過剰生産を原因とする恐慌が始まる(戦後恐慌)。この不況は長期化することになる[140]。
- 11月、横浜市平沼に建設された橫濱護謨の平沼工場が完成し、同社はベルト、タイヤなどの製造を始める。
- 12月16日、道路取締令が公布され、翌年1月1日に施行される[W 43][W 44]。同法により日本全国の交通法規が統一される。
- 1921年(大正10年)
- 11月11日から翌年2月6日にかけてワシントン会議が行われ、海軍の軍縮が決まる(ワシントン海軍軍縮条約)。それに伴い帝国陸軍の予算も縮減され、自動車会社に対する陸軍からの発注が減る[140]。
- 時期不明、落語に自動車を題材とした演目(『自動車の布団』)が現れる[146]。
- 1922年(大正11年)
- 3月から7月にかけて上野公園で平和記念東京博覧会が開催される。快進社(ダット・41型)、東京瓦斯電気工業(TGEトラック)、東京石川島造船所(ウーズレー乗用車)、実用自動車(ゴーハム式三輪乗用車)、白楊社(アレス号)など日本の自動車製造会社各社が自動車を出品する。
- 8月、梁瀬自動車が小型乗用車「ヤナセ号」の試作車を完成させるが、採算が取れる見通しが立たなかったため生産は断念し、以降、同社は輸入販売業に徹する[147]。
- 10月、藤本軍次らが日本自動車競走倶楽部(NARC)を設立する[148][5][W 17]。
- 11月12日、東京洲崎埋立地で報知社(後の報知新聞社)の主催で日本自動車競走大会が初開催される(第1回自動車大競走)[148][W 17]。
- 12月、東京石川島造船所がウーズレーA9型の国産化に成功する[149][W 41]。
関東大震災後、フォードとGMの日本進出(1923年~)
関東大震災(1923年)により、それまで贅沢品と見られていた自動車はその実用性を広く認識されるようになる[76]。その変化をいち早く察知し商機を見出したフォードは本格的に日本に進出してノックダウン生産を始め(1925年)[150]、遅れて日本に進出したゼネラルモーターズ(GM)と共に日本を舞台に販売合戦を繰り広げる。白楊社が日本の国情に適した小型乗用車の製造を始めるなど、国内にも有望な自動車製造会社が育ちつつあったが、それらの小規模な会社は米国車の急速な台頭によって駆逐され[W 4][注 50]、軍用自動車補助法(1918年施行)による保護を得ていた一部の会社を残して日本の自動車製造会社は消滅していくことになる。
- 1923年(大正12年)
- 9月1日、関東大震災が発生。東京市電など既存の交通手段が大きな被害を受け、震災で生じた悪路により人力車なども営業不能となる一方、それまで贅沢品と見られていた自動車はその実用性を広く認識されるようになり、利用が激増する[139][W 45][W 46][W 26][W 47]。
- 10月、陸軍造兵廠大阪工廠で、三屯牽引車(五十馬力牽引自動車)の試作車両が完成する。(日本で独自開発された初の無限軌道車両)
- 12月27日、皇太子摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)を乗せた御料車(2代目、ロールス・ロイス・シルヴァーゴースト)が無政府主義者に襲撃され、発砲を受ける(虎ノ門事件)[122][121]。この事件を受けて、1932年に導入された3代目御料車(メルセデス・ベンツ・770)では防弾車が用意されることになる[122][154][W 49]。
- 1924年(大正13年)
- 1月、東京市営乗合自動車(東京市営バス、後の都営バス)が11人乗りのTT型フォード車(円太郎バス)44両で営業を開始する[155][注 52]。
- 6月、大阪市で1円均一のタクシー(通称「円タク」)が登場し、その後数年の間に全国に広がっていく[76][注 53]。
- 7月24日、警視庁令により自動車運転手試験規則が制定され、8月1日に施行される[W 40]。同法で就業用の運転免許が区別されて創設される。
- 11月、白楊社がオートモ号を発売する。(日本の純国産技術による初の量産乗用車)
- 1925年(大正14年)
- 2月17日、横浜で日本フォード自動車株式会社が設立される[78][130]。フォード社はセール・フレザー商会との間で結んでいた日本における総代理店契約を解消する[78]。同年3月から横浜工場でノックダウン生産を開始し[61]、横浜渡しの新価格を設定する[130]。
- 7月21日、快進社内に「合資会社ダット自動車商会」が設立される[144][W 24][注 54]。
- 8月21日、日米板硝子が木炭自動車を完成させ、東海道で試運転を行う[157][130]。(日本で製造された初の木炭自動車)
- 11月、オートモ号が上海に輸出される。(日本で製造された自動車の輸出第1号)
- 12月、東京洲崎埋立地で開催された全国自動車競走大会(日本自動車競走大会・第8回大会)にレース仕様のオートモ号が唯一の国産車として参戦し、予選1位、決勝2位という結果を残す。
- 1926年(大正15年/昭和元年)
- 4月、大阪─東京間のノンストップレースが開催される[158]。
- 4月20日、合資会社ダット自動車商会が久保田鉄工所(後のクボタ)によって買収される[144][注 55]。
- 6月29日、快進社が解散する[159]。自動車の製造を諦めきれない橋本増治郎は「ダット自動車商会」の代表社員として久保田鉄工所に留まる[144][注 56]。
- 9月2日、久保田鉄工所傘下の「実用自動車製造」が「ダット自動車製造株式会社」に社名変更する。同時に、ダット自動車製造はダット自動車商会を吸収合併する[144][W 24]。
- 1927年(昭和2年)
- 1月11日、大阪で日本ゼネラル・モータース株式会社が設立され[130]、同年4月から大阪工場でゼネラルモーターズ(GM)車のノックダウン生産を開始する。
- 2月、陸軍造兵廠大阪工廠で開発されていた試製一号戦車が完成する[W 50]。(日本で独自開発された初の戦車)
- 5月、東京石川島造船所がウーズレーとの提携を解消する[160]。翌年のL型自動貨車からは車名を「ウーズレー」から「スミダ」に改称する[W 41][注 57]。
- 8月、陸運事業監督権について内務省と逓信省の間で争われた末、逓信省が所管することになる[W 40]。
- 8月27日、ゼネラルモーターズが金融子会社ゼネラルモーターズ・アクセプタンス・コーポレーション(GMAC)の日本支店を開設し、販売代理店に月賦販売の保障を行う[139]。翌年にはフォードも追随して日本フォード金融を設立し、日本でも自動車の月賦販売が本格的に始まる。
- 12月、亀の井ホテルバス事業部(現在の亀の井バス)が別府地獄めぐり遊覧バスを開業する[61]。(日本初の女性バスガイド付き観光バス)
- 12月、鉄道省が駅構内で円タクが営業することを許可し、駅構内タクシーが始まる[W 52]。
- 1928年(昭和3年)
- 2月、歌舞伎に自動車を題材とした演目(『円タクの悲哀』)が現れる[146]。
- 5月、川崎造船所の兵庫工場が分離独立し、「川崎車輛」が設立される[W 42]。
- 11月5日、自動車の運輸監督権が逓信省から鉄道省監督局に移管されることが決定し、11月25日に施行される[W 40][W 52]。翌年4月に鉄道省監督局に陸運課が設置される[W 40]。
- 時期不明、川崎銀行が自動車月賦手形割引を始める[61]。(日本の金融機関による初の自動車割賦)
- 時期不明、フランスで開発された木炭自動車用の木炭ガス炉をもとに浅川権八が実用化を行い、「浅川式木炭瓦斯発生炉」として特許を取得する[161]。これは日本における代用燃料装置のはしりとされる[161]。
- 1929年(昭和4年)
- 春、白楊社が解散する[162]。
- 5月、東京石川島造船所の自動車部が独立し、石川島自動車製作所が設立される[W 41][注 58]。
- 6月、石油6社が協定によりガソリンの値上げを発表し、それに反発した自動車業界が値上げ反対を決議する(第一次ガソリン争議)[W 40]。
- 6月、東京市麹町区丸の内で6階建ての自走式立体駐車場「丸ノ内ガラーヂ」が開業する[163][W 53][注 59]。(日本初の立体駐車場)
- 8月、警視庁が初の自動車運転試験場を洲崎に設置する[W 40]。
- 9月4日頃、米国に端を発して世界恐慌が始まる。日本では翌1930年から1931年にかけて経済危機に見舞われる(昭和恐慌)。
- 1930年(昭和5年)
- 1月、日本が金輸出を解禁する(金解禁)。世界恐慌と合わさり、日本経済の不況に拍車がかかる[W 47]。
- 2月、内務省が無免許で運転できる小型自動車の規格の引き上げを行い、4サイクルエンジンは総排気量500㏄以下、2サイクルエンジンは総排気量350㏄以下の車両までは無免許で運転できるようになる[164]。これにより小型の四輪自動車を製造する機運が高まる[164]。
- 4月9日、日本足袋株式会社タイヤ部(後のブリヂストン)が第1号ブリヂストンタイヤの製造に成功する[W 47][W 54]。(純日本資本による初の自動車用タイヤ製造)
- 5月、商工省の諮問機関である国産振興委員会が自動車工業確立方策を答申する[W 55]。それを受けて、名古屋市の大岩勇夫市長が「中京デトロイト化構想」を提唱する。
- 6月15日、多田健蔵がマン島TTレース(ジュニアTTクラス)に参戦する[165][112][W 56]。(日本人が国外のオートバイレースに参戦した初の例)
- 10月、ダット自動車製造が試作車「ダットソン」(Datson)を完成させる[164]。
- 12月、大阪の発動機製造が三輪自動車の製造に乗り出し、試作車HA型ダイハツ号を製造する[W 57]。
- 12月20日、鉄道省営としては初となる省営バス路線(後の国鉄バス)が岡崎─多治見間(約57km)で開通する[164]。
国産車の保護(1931年~)
フォードとGMの組立車による寡占が続く中、満洲事変(1931年)で軍用自動車の有用さが確認されたことで国産自動車保護の動きが進み、自動車製造事業法の制定(1936年)によりそれまで隆盛を誇っていた米国車は日本国内から排除されていくことになる[W 58]。
- 1931年(昭和6年)
- 3月、日本足袋タイヤ部が独立し、福岡県久留米市でブリッヂストンタイヤ株式会社(後のブリヂストン)が設立される[166][W 59][W 60]。
- 4月1日、自動車交通事業法が公布され、1933年10月1日に施行される[W 40][注 60]。
- 6月29日、橋本増治郎がダット自動車の製造権を久保田鉄工所に譲渡し、ダット自動車製造を退職する[144]。
- 7月、川真田和汪がローランド号を試作製造する[166][W 61]。(日本で製造された初の前輪駆動自動車)
- 9月、満洲事変発生。広い中国大陸で軍隊や物資の輸送をするため、軍用自動車の重要性が高まる[167]。また、日米関係はこの事件を機に徐々に悪化していく。
- 政府は軍用補助法の保護下にある3社に合同(合併)するよう要請する[W 62]。
- 10月、小松製作所が農耕用トラクターの試作第1号機を完成させる[W 63][W 64]。(日本で製造された初の農耕用トラクター)
- 10月、東洋工業(後のマツダ)が三輪トラックの製造を始め、マツダ号DA型を発売する[168][注 61]。
- 以降、東洋工業(マツダ)と発動機製造(ダイハツ)はオート三輪の分野で市場をリードすることになる。
- 11月21日、ダット自動車製造が鮎川義介の戸畑鋳物(後の日立金属)の傘下になる[169][W 24]。
- 時期不明、川崎車輛が1.5トントラックの試作車を完成させ、翌1932年に「六甲号」の名称でトラックとバスの生産を始める[W 42]。
- 1932年(昭和7年)
- 3月1日、満洲国成立。
- 5月、中京デトロイト化構想に基づき愛知時計電機、大隈鉄工所(後のオークマ)、日本車輌製造、岡本自転車自動車製作所、豊田自動織機の5社が協力して製造した試作車2台が完成し、アツタ号と命名される[W 55]。
- 5月、三菱造船神戸造船所がBD46型大型乗合自動車を完成させ、同車を「ふそう」と命名する[170][W 65]。生産が始まった同車は依頼主である鉄道省に納入され、省営バスとして用いられることになる[170]。
- 時期不明、川真田和汪の事業を引き継いだ内藤正一がローランド号と同型の車両を「みずほ号」と名付けて発売し、同時に事業化のための出資者を募る[171]。(日本で製造された初の前輪駆動市販車)
- 1933年(昭和8年)
- 3月27日、日本が国際連盟からの脱退を正式に表明。日本は国際的に孤立を深めるようになり、自動車の燃料確保が大きな問題となり始める[167]。
- 3月、商工省標準形式自動車(トラックとバス)が完成する[W 41]。翌年、自動車工業株式会社は同車を「いすゞ」と命名する[W 41][注 62]。
- 3月、石川島自動車製作所とダット自動車製造が合併し、自動車工業株式会社(後のいすゞ自動車)が設立される[W 41][注 63]。
- 8月、自動車取締令の改正が公布され、小型自動車の分類ができる(同年11月施行)[注 64]。
- 9月1日、豊田自動織機が自動車製造を決定し[61]、自動車部を設置する(後のトヨタ自動車)[W 45][W 67][W 62][注 65]。
- 9月、戸畑鋳物からのかねてからの依頼に自動車工業株式会社(いすゞ)が応じ、自動車工業株式会社にとって不要となる小型車ダットサンの製造権が元の親会社である戸畑鋳物に同年2月に遡って無償で譲渡される[172][注 66]。
- 12月26日、日本産業(日産コンツェルンの持株会社)と戸畑鋳物の共同出資により、自動車製造株式会社(翌年から日産自動車)が設立される[W 24][W 68][W 69]。
- 時期不明、川崎車輛が「六甲号」乗用車の製造を始め、高級乗用車として宮家などに納入する[W 42]。
- 1934年(昭和9年)
- 3月36日、満洲国で自動車を製造する7社の共同出資により同和自動車工業が設立される[173]。
- 4月、「三菱造船」(初代)が「三菱重工業」(初代)に社名変更する。
- 6月1日、日本産業の全額出資になったことにより、「自動車製造株式会社」が「日産自動車株式会社」に社名変更する[W 24][W 68][W 69]。
- 6月、商工省が瓦斯発生炉設置奨励金交付規則を制定し[167]、代用燃料自動車用のガス発生炉1基につき300円を限度として奨励金が交付されるようになる[W 70]。
- 8月10日、「自動車工業確立に関する各省協議会」による第1回の会合が開催され、商工省、陸軍省、海軍省、鉄道省、大蔵省、内務省、資源局による話し合いが持たれる[W 58][注 67]。
- 11月、川真田和汪の事業に汽車製造と自動車工業株式会社(いすゞ)が共同出資し、東京自動車製造が設立され、筑波号の製造を始める[173][W 61]。(日本で製造された初の前輪駆動量販車)
- 1935年(昭和10年)
- 4月3日、太田自動車に三井物産の資本が加わり、高速機関工業(後のオオタ自動車工業)が設立される。
- 4月、日産自動車が横浜工場の操業を開始し、同工場におけるダットサン・14型の生産を始める[174][W 68]。
- 5月、豊田自動織機がA1型試作乗用車とキャブオーバーバスの「キソコーチ号」を完成させる[174]。
- 7月、日本フォード社が事業拡大のため、横浜の組立工場の拡張を図るべく用地買収に動く[174]。これは商工省と陸軍省の警戒を招き、米国資本の自動車組立を制限する方向に動く動機を日本政府に与える[174]。
- 11月、三菱重工業神戸造船所がふそう・B46型バスを完成させる[174][W 65]。(日本で開発された初のディーゼルエンジン搭載バス)
- 1936年(昭和11年)
- 1月、日本内燃機が九五式小型乗用車(通称「くろがね四起」)の製造を始める[175]。(日本で製造された初の四輪駆動乗用車[注 68])
- 3月、自動車工業株式会社がDA4型エンジンを完成させる。(日本初の空冷式ディーゼルエンジン)
- 4月、豊田自動織機がトヨダ・AA型乗用車を発売する[W 72]。
- 5月、多摩川スピードウェイが開業する[W 67][W 17][W 73]。(日本初の常設サーキット)
- 5月29日、自動車製造事業法が公布され、7月11日から施行される[W 58]。許可会社として、同年9月19日に日産自動車と豊田自動織機の2社が認可され、1941年4月9日に東京自動車工業(いすゞ)が追加され、自動車製造会社は計3社が認可される[W 58][注 69]。
- 6月7日、多摩川スピードウェイにおいて、第1回全日本自動車競走大会が開催される。
- 9月11日、日本フォード、日本ゼネラル・モータースの2社が組立数の制限を課される[61]。
戦時統制期(1937年~)
日中戦争の開戦(1937年)と日本への国際的な貿易制限の始まりにより民間の自動車の製造は軍用に制限される。太平洋戦争(1941年 - 1945年)を背景に乗用車の製造は1938年から戦後の1949年にかけて日本政府とGHQによる2度の禁止命令を受け、長く厳しい暗黒時代[176]を送ることとなる。燃料統制によりガソリン自動車は代用燃料車に置き換えられていく。
- 1937年(昭和12年)
- 4月、揮発油及アルコール混用法が公布され、揮発油税(ガソリン税)が創設される。
- 4月9日、自動車工業株式会社と東京瓦斯電気工業が合併し、東京自動車工業(後のいすゞ自動車)が設立される[W 51]。これにより軍用自動車補助法の保護下にあった3社の統合が完了し、軍用車両の効率的な生産体制が整う。
- 7月、日中戦争開戦。以降、原材料の不足の中で軍用トラックの製造が最優先され、乗用車の製造は困難となる[176]。
- 7月、木炭瓦斯発生装置奨励規則が公布され、木炭自動車が脚光を浴びるようになる[167][W 70]。
- 8月28日、豊田自動織機の自動車部が分離独立し、トヨタ自動車工業株式会社(トヨタ自工)が設立される[W 74]。
- 10月5日、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領が隔離演説を行う(ABCD包囲網構築の始まり)。
- 11月、第1次石油消費規制が実施される[W 40]。
- 1938年(昭和13年)
- 1月、東京市営バスが木炭バスを採用し、4台を導入する[177]。その後、使用台数が急速に拡大され、1941年の開戦時点で市バスが保有するバス全1,981台中1,516台(76.5%)が木炭車となり、1945年の終戦時には全960台中841台(87.6%)が木炭車となる[177]。
- 4月1日、国家総動員法が公布され、5月5日に施行される(1946年4月に廃止)。これにより日本国内は戦時体制に移行していき、自動車の製造や燃料の入手に大きな制限が課されるようになる。
- 5月1日、第2次石油消費規制が実施され、ガソリン購入は切符制となる[W 40]。
- 8月、商工省の通達により、トラック以外の車両の製造が事実上禁止され、乗用車については軍用車両としての要望があった時のみ製造されるようになる[176][W 75]。
- 9月30日、国際連盟が対日経済制裁を決定する。
- 10月、東京市内のタクシーが全面的にメーター制を実施することになり、翌月からは全国的にメーター制となる[W 40]。
- 11月、トヨタ自工の挙母工場(第1期工事)が完成する[W 76]。この際、同社の豊田喜一郎がジャストインタイム生産システムを提唱し[注 70]、戦後になって大野耐一らによってトヨタ生産方式として体系化が図られる[W 78][W 77]。
- 12月、トヨタ自工と日産自動車が日本自動車製造工業組合を結成する[178][W 75]。配給制となった自動車用資材の煩雑な調達手続きに対応するための組織で、これにより自動車製造会社も政府や軍部の意向に従って動く戦時体制が確立する[178]。
- 1939年(昭和14年)
- 1月、商工省の通達により、民需用乗用車の生産が禁止される[W 75]。
- 4月5日、自動車タイヤ、タイヤチューブの配給統制規則が公布され、4月20日に施行される[W 40]。これにより、タイヤやチューブの購入は切符制となる。
- 5月5日、乗用車の配給統制が始まる[W 40]。
- 5月11日、満洲国新京で満洲自動車製造が設立される。
- 9月、ヨーロッパで第二次世界大戦開戦。
- 12月、日本フォード、日本ゼネラル・モータースの2社が日本国内での組立車生産を禁止される[179]。
- 1940年(昭和15年)
- 3月、物品税法が制定され、乗用車も課税対象に指定される(1989年4月の消費税導入に伴い物品税は廃止される)。
- 7月、東京自動車工業が軍用装軌車両の専門工場として東京日野市に日野製造所を設立する[W 38][注 71]。
- 8月5日、自動車輸入が許可制になる[W 40]。
- 1941年(昭和16年)
- 4月30日、「東京自動車工業」が「ヂーゼル自動車工業株式会社」に社名変更する[W 41][W 58][W 79][注 72]。
- 8月、米国が日本への石油輸出を禁止する(ABCD包囲網の完成)。
- 10月1日、乗用車の燃料としてガソリンを使用することが全面的に禁止される[W 40]。
- 11月25日、重要産業団体令に基づき自動車統制会(統制会社)の設立命令が出され、同年12月に自動車統制会が設立される[180][W 75][W 79][注 73]。
- 12月、太平洋戦争開戦。
- 日本フォード、日本ゼネラル・モータースの2社は日本国内での事業を完全に終了する。
- 1942年(昭和17年)
- 1月、外国製の乗用車の販売が全面的に禁止される[180]。
- 5月、ヂーゼル自動車工業株式会社が日野製造所を分離し、日野重工業が設立される[W 41][W 38]。
- 6月、満洲自動車製造が同和自動車工業を吸収合併する[181]。
- 7月、自動車統制会の傘下に日本自動車配給会社が設立される[181][W 79]。各県に1社設置され、自動車製造各社は販売会社を消滅させられ、軍部から割り当てられた数量を製造して納品するという体制に変わる[W 79]。
- 1943年(昭和18年)
- 1月、小松製作所が小松1型均土機(コマツ・G40ブルドーザー)を完成させる[W 63][W 80]。(日本で製造された初のブルドーザー)
- 7月、石油専売法の施行によりガソリンが配給制となり、揮発油税は廃止される。
- 11月1日、逓信省と鉄道省が統合され、運輸通信省が設置される。
- 11月1日、商工省などが廃止され、軍需省が設置される[182]。
- 1944年(昭和19年)
- 1月17日、軍需省により軍需会社法に基づく軍需会社の指定が行われ、第1次指定の150社の内、自動車製造会社ではトヨタ自工、日産自動車、ヂーゼル自動車工業などが軍需会社に指定される[183][W 75]・
- 5月5日、自動車取締令改正が公布され、同日に施行される。徴兵年齢の引き下げに伴う変更として、普通自動車運転免許の取得可能年齢は18歳から15歳に引き下げられ、小型自動車免許も同様に16歳から14歳に引き下げられた[W 81]。
- 8月、「日産自動車株式会社」が「日産重工業株式会社」に社名変更する[W 82]。
- 7月、国家総動員法に基づき、自動車の譲渡、貸渡が禁止される[W 40]。
- 1945年(昭和20年)
- 5月19日、運輸通信省の外局の通信院が内閣所轄の逓信院として分離されたことに伴い、運輸通信省が運輸省に改組される。
- 8月14日、日本がポツダム宣言の受諾を連合国に通告し、降伏を決定する(国民には翌日に発表)。
- 8月17日、「中島飛行機」が「富士産業」に社名変更する[W 83]。同社は戦後に自動車事業に進出することになる。
- 9月2日、日本が降伏文書に署名し、第二次世界大戦(太平洋戦争)が終結する。
- 1 日本における自動車の年表とは
- 2 日本における自動車の年表の概要
- 3 戦後
- 4 脚注
- 5 参考資料
- 6 関連項目
- 日本における自動車の年表のページへのリンク