土方与志 土方与志の概要

土方与志

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 09:36 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
土方与志(1948年)

来歴

東京市赤坂区表町(現・東京都港区赤坂)に生まれた[1]。祖父久元土佐藩出身で、維新後は宮内大臣宮中顧問官枢密顧問官國學院大學学長などを務めて伯爵を授けられた。父久明は陸軍大尉だったが、何らかの事情で精神に異常をきたして療養中、与志が生まれて間もない1898年7月15日に拳銃で自殺している[2]。母は加藤泰秋の三女・愛子。

土方は中学時代に友田恭助と子供芝居一座である南湖座を作り、演劇活動を始めている[3]1916年旧制学習院高等科在学中に近衛秀麿三島通陽らと友達座を結成する。友達座で音楽を担当した近衛から山田耕筰を紹介され、土方の演出デビュー作『タンタジールの死』の公演や日本楽劇協会で共に仕事をする仲間となった。1918年11月に祖父久元が危篤となったため、三島の妹である梅子と急遽結婚した。久元は結婚式の翌日に薨去し、土方は伯爵位を襲爵した[3]

学習院卒業後、東京帝国大学国文科に進む。自宅の地下に模型舞台研究所を作り伊藤熹朔遠山静雄などと実践的な演劇の研究に熱中した。1919年に友達座『タンタジールの死』の主演女優の公募を巡って新聞批判が起こり、宮内省を巻き込む騒動となる。東京帝大卒業後は山田耕筰の紹介で演出家小山内薫に師事し、小山内の助手として商業演劇に関わり明治座などで舞台演出を学んだ[3]

築地小劇場の開設と劇場附属劇団の分裂

1922年、演劇研究のためドイツに留学。1923年9月の関東大震災の報を聞いた土方は、予定より早く同年暮れに帰国。震災復興のため一時的に建築規制が緩められたことから、仮設バラック劇場の建設を思いつき、小山内薫に相談し、計画を進めた。1924年始めより劇場建設と劇団の育成に取り掛かり、6月13日に築地小劇場を開設した。電気を用いた世界初の照明室を備えていた。建設のため土方が出資した費用は、のちの諸出費も合わせると30数万円といわれる(21世紀初頭の貨幣価値では約7億円とされる)[4]。築地小劇場はチェーホフゴーリキーなどの翻訳劇を中心に新劇運動の拠点となった。

1928年12月に小山内が急逝した後、しばらくすると劇場附属劇団内に内紛が起こり、「自治会」と称する反土方グループが生まれた[注釈 1]。このため、1929年3月25日には土方を支持する丸山定夫山本安英、薄田研二、伊藤晃一、高橋豊子、細川知歌子(のち細川ちか子)らが脱退し、築地小劇場は分裂した。脱退組は4月に新築地劇団を結成し、より〈プロレタリア・リアリズム〉に基づく演劇を志向した。残留組(築地小劇場に残ったメンバー)は、翌1930年8月に解散し、劇団新東京になった。

新築地劇団と亡命

新築地劇団はプロレタリア文学の代表作である小林多喜二の『蟹工船』(1929年3月に完成)を『北緯五十度以北』という題で、同年7月に帝国劇場で上演した。以降、久板栄二郎の『北東の風』や久保栄の『火山灰地』など盛んにプロレタリア演劇を上演していった。しだいに官憲の弾圧が激しくなり、1932年に土方は検挙を受けた。

1933年2月20日、小林多喜二は治安維持法違反容疑で逮捕、築地警察署において特別高等警察による拷問で死亡。3月15日には築地小劇場で多喜二の労農葬が執り行われた。

日本プロレタリア演劇同盟の代表として、妻・梅子や佐野碩とともにソ連を訪問。ソビエト連邦作家同盟第1回大会で日本代表として小林多喜二虐殺や日本の革命運動について報告を行った(1934年8月28日)。その内容はまもなく日本に伝わり、同年9月に爵位を剥奪された。土方は帰国せず、そのままソ連に亡命。

粛清・帰国後

1937年8月、スターリンによる粛清が本格化したことで、土方は妻、佐野碩とともに国外追放処分を受け、モスクワからパリに亡命移住する。この間、日本国内では1940年8月、劇団員のほとんどが検挙され新築地劇団は解散。劇場は11月1日には国民新劇場と改称された。1941年、土方は逮捕覚悟で帰国。直ちに治安維持法違反で検挙され、5年の実刑を受け豊多摩刑務所に収監された。

1945年10月8日連合国軍最高司令官総司令部の命令に基づく全政治犯の釈放にあたり、土方も宮城刑務所を出所。妻や長男らに出迎えられ、栃木県西那須野にあった土方農園で静養に当たった[6]

その後、日本共産党に入党。前進座舞台芸術学院で演劇活動を再開。スタニスラフスキースタニスラフスキー・システムを、日本の演劇界に導入することにも熱心であった。

親族

  • 祖父:土方久元(1833 - 1918)
  • 父:土方久明(1862 - 1898) - 久元の長男。
  • 母:土方愛子 - 久明の後妻。子爵加藤泰秋と福子(西園寺公望の妹)の三女。
  • 妻:土方梅子(1902 - 1973) - 子爵三島彌太郎と後妻の加根子(侯爵四条隆謌三女)との二女で、1918年に与志と16歳で結婚、築地小劇場の衣装部主任を務めた[7]
    • 長男:土方敬太(1920 - 1992) - ロシア文学者兼映画研究家。幼少期に母・弟ともに、父与志のソビエト亡命生活に同行している。
    • 次男:土方与平(1926 - 2010) - 演劇制作者として、劇団青年劇場顧問をつとめた。著書に『或る演劇製作者の手記』。海外演劇の翻訳などにより、フランス文化勲章シュバリエを受章(1998年)
  • いとこ叔父:土方久功(1900 - 1979) - 久元の弟。東京美術学校彫刻科卒業。築地小劇場のマーク(一房の葡萄)をデザインした。

注釈

  1. ^ よく土方の左翼思想への反発と言われるが、久保によれば、実際は土方が「人減らし」を口にしたことを不安に思った劇団員が土方排撃に回ったのだという[5]

出典

  1. ^ 土方与志 コトバンク 2018年8月22日閲覧。
  2. ^ 千田稔 2002, pp. 322–323.
  3. ^ a b c 「第3章 明治・大正・昭和期の芸能と旦那」『「旦那」と遊びと日本文化』大和滋、岩淵潤子編、PHP研究所、1996年。ISBN 4569551521pp.117-121.
  4. ^ 小山内富子 2005, p. 192.
  5. ^ 久保栄 1947, p. [要ページ番号].
  6. ^ 土方与志らも出所(昭和20年10月9日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p317
  7. ^ 土方梅子(読み)ひじかた うめこコトバンク


「土方与志」の続きの解説一覧




土方与志と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「土方与志」の関連用語

土方与志のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



土方与志のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの土方与志 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS