築地小劇場の開設と劇場附属劇団の分裂
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「土方与志」の記事における「築地小劇場の開設と劇場附属劇団の分裂」の解説
1922年、演劇研究のためドイツに留学。1923年9月の関東大震災の報を聞いた土方は、予定より早く同年暮れに帰国。震災復興のため一時的に建築規制が緩められたことから、仮設バラック劇場の建設を思いつき、小山内薫に相談し、計画を進めた。1924年始めより劇場建設と劇団の育成に取り掛かり、6月13日に築地小劇場を開設した。電気を用いた世界初の照明室を備えていた。建設のため土方が出資した費用は、のちの諸出費も合わせると30数万円といわれる(21世紀初頭の貨幣価値では約7億円とされる)。築地小劇場はチェーホフやゴーリキーなどの翻訳劇を中心に新劇運動の拠点となった。 1928年12月に小山内が急逝した後、しばらくすると劇場附属劇団内に内紛が起こり、「自治会」と称する反土方グループが生まれた。このため、1929年3月25日には土方を支持する丸山定夫、山本安英、薄田研二、伊藤晃一、高橋豊子、細川知歌子(のち細川ちか子)らが脱退し、築地小劇場は分裂した。脱退組は4月に新築地劇団を結成し、より〈プロレタリア・リアリズム〉に基づく演劇を志向した。残留組(築地小劇場に残ったメンバー)は、翌1930年8月に解散し、劇団新東京になった。
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