エベレスト 地質

エベレスト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 09:52 UTC 版)

地質

3つの層
山体はチョモランマ層、ノース・コル層、ロンブク層の3つに区分される。それぞれが低角度の衝上断層で境される異地岩体である。ゴンドワナ大陸の一部であったインド亜大陸白亜紀マダガスカル島から分離し、新生代ユーラシア大陸に衝突し、ヒマラヤ山脈ができた。頂上から8,600メートルのチョモランマ層はエベレスト層とも呼ばれ、石灰岩ドロマイトシルト岩からなる。オルドビス紀を示す三葉虫ウミユリの破片を含む。
標高ごとの地層
8,600メートルから7,000メートルのノース・コル層のうち、上部8,200メートルまでが有名な「イエローバンド」で、エベレストの写真にはっきり写る白い帯である。大理石が風化して黄褐色になったもので、ウミユリを含む。8,200メートルから7,600メートルは千枚岩片岩からなる。7,600メートルから7,000メートルは片岩に大理石薄層が挟まれる。以上の変成岩泥岩頁岩砂岩、石灰岩などからなるフリッシュが変成作用を受けたものである。7,000メートルより下のロンブク層は片岩と片麻岩で、さまざまな厚さの白粒岩の岩脈岩床が無数に貫入している。

登頂史

遠征隊実現まで

1893年、探検家として知られ、政務官を務めていたフランシス・ヤングハズバンドと第5グルカ・ライフル連隊の勇将として鳴らしていたチャールズ・グランヴィル・ブルース (Charles Granville Bruce) 准将がチトラル(現在のパキスタン)のポロ球戯場でエベレスト登頂について話し合ったのが、具体的なエベレスト登頂計画の嚆矢であるといわれる[13]。1907年にはイギリス山岳会の創立50周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣が提案されたが、実現しなかった。しかし、北極点到達(1909年)および南極点制覇(1911年)の競争に敗れたことで、イギリスが帝国の栄誉を「第三の極地」エベレストの征服にかけていくことになる。遠征計画は第一次大戦の勃発によって先送りになるが、戦争の終結とともにイギリス山岳会と王立地理学協会エベレスト委員会を組織し、ヤングハズバンドが委員長となって、エベレスト遠征計画の具体化が始まった。

第1次遠征隊

1921年エベレスト委員会によって組織・実行。

参加者
  • チャールズ・ハワード=ベリー (Charles Howard-Bury) 中佐 - 隊長。中央アジアを巡回した経験を持つ歴戦の英雄。当初はグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将が隊長に適任とみられたが、軍務に影響があるという理由で回避された。
  • アレクサンダー・ケラス (Alexander Kellas) 博士 - カシミール地方に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であった。
  • オリヴァー・ウィーラー (Oliver Wheeler) - 医師。
  • ヘンリー・モーズヘッド (Henry Morshead) - 測量班としてのちにインド測量局の長官をつとめることになる。
  • アレクサンダー・ヘロン (Alexander Heron) - インド測量局局員。
  • ハロルド・レイバーン (Harold Raeburn)、 - 50代のベテラン登山家。登攀部隊のリーダー。
  • ジョージ・マロリー - 若手登山家として知られていた。
  • ジョージ・フィンチ - オーストラリア生まれ。同じく若手登山家として知られるが、直前になって健康を理由にメンバーから外された。
  • ガイ・ブロック (Guy Bullock) - フィンチに代わるマロリーの登山仲間で、マロリーの推薦によって選ばれた。

第1次は登頂そのものでなく、登頂のための周辺調査とルート確認を目的として英国を出発。インドのカルカッタに上陸後、ダージリンからチベットを回り込んでエベレストを目指した。チベットのカンパ・ゾンでは、体調がすぐれなかったケラス博士が心臓発作で亡くなるというアクシデントに見舞われたが、遠征隊はエベレストのノース・コル(North Col、チャン・ラとも呼ばれる、標高7,020メートル)にいたるルートを確認するとともに、エベレスト周辺の詳細な地図を初めて作成することに成功して帰国した。

第2次遠征隊

1922年組織・実行。

参加者
  • チャールズ・グランヴィル・ブルース准将 - 隊長として宿願であった。
  • エドワード・リーズル・ストラット (Edward Lisle Strutt) 大佐 - 副隊長。
  • ジョージ・フィンチ - 前回不参加者。
  • ハワード・サマヴィル (Howard Somervell) 博士 - 前回不参加者。
  • エドワード・ノートン - 前回不参加者。
  • トム・ロングスタッフ - 同地方の地理にも詳しい医師。
  • アーサー・ウェイクフィールド (Arthur Wakefield) 博士 - 同じく医師。
  • ジェフリー・ブルース (Geoffrey Bruce) 大尉 - ブルース准将の甥でやはりグルカ連隊所。
  • ジョン・モリス (John Morris) 大尉 - ブルース大尉の同僚。
  • マロリー - 前回のメンバー。
  • モーズヘッド - 前回のメンバー。
  • ジョン・ノエル (John Baptist Lucius Noel) 大尉 - 遠征隊の模様を映写機で撮影することになる。

3度の頂上アタックを行った。7,620メートルの地点に設けられた第5キャンプから第1次アタックチームを率いたマロリーは、酸素ボンベなどは信頼性が低いと考えてこれを用いず、サマヴィルやノートンらと無酸素で北東稜の稜線に達した。薄い空気に苦しみながら、一同は8,225メートルという当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。次にジョージ・フィンチとウェイクフィールド、ジェフリー・ブルースからなる第2次アタックチームは酸素ボンベをかついで5月27日に8,321メートルの高さまで驚異的なスピードで到達することに成功した。ブルースの持っていた酸素器具の不調で第2次チームが戻ってくると、マロリーはフィンチ、サマヴィルと第3次アタックチームを編成して山頂を目指そうとした。しかし、マロリーらがシェルパとともにノース・コル目指して斜面を歩いているとき、雪崩が発生して7名のシェルパが落命したため、一行は失意のうちにベースキャンプに戻り遠征は終了した。

第3次遠征隊

1924年組織・実行。

参加者
  • チャールズ・ブルース准将 - 第2次同様に隊長だったが、ダージリンからエベレストまでの道中でマラリアのため離脱。エベレスト登山はこれが最後となり、1939年に死去した。
  • ノートン大佐 - 副隊長だったが、ブルース准将の離脱で隊長となった。
  • マロリー - 経験者。
  • ジェフリー・ブルース - 経験者。
  • サマヴィル - 経験者。
  • ベントリー・ビーサム (Bentley Beetham)
  • E・シェビア (E. O. Shebbeare)
  • ノエル・オデール - 地質学者。
  • アンドリュー・アーヴィン
  • その他

2月28日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路でエベレストを目指した。4月28日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。彼らは7,000メートル付近に第4キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に2つのキャンプを設けることにした。ノートンはサマヴィルとともに酸素ボンベなしで頂上を目指し、途中から一人で北壁をトラバースし標高8,572メートルに到達、人類の最高到達記録を更新したが引き返した。マロリーは6月8日、22歳の若いアンドリュー・アーヴィン1人を連れて第6キャンプを出発、酸素ボンベを使用して山頂を目指した。2人はこのまま行方不明になり、第3次遠征隊は山を下りた。さらに許可のないロンシャール谷に入っていたこと、彼らが帰国後に上映した記録映画の中で紹介されたチベット人の習俗が不正確であったことが当時のダライ・ラマを怒らせ、以後9年間エベレスト入山の許可が出なかった[14]

第4次遠征隊から第二次世界大戦前まで

1933年、イギリス第4次遠征隊。隊長ヒュー・ラットレッジ (Hugh Ruttledge)、隊員にはフランク・スマイス (Frank Smythe)、ジャック・ロングランド (Jack Longland)、パーシー・ウィン=ハリス (Percy Wyn-Harris)、レイモンド・グリーン (Raymond Greene)、ローレンス・ウェイジャー、エドワード・シェビア (Edward Shebbeare)、トム・ブロックルバンク (Tom Brocklebank)、1922年隊にも参加したコリン・クロフォード (Colin Crawford) らがおり、のちに遠征隊の隊長を務める歴戦の登山家エリック・シプトンもその中に含まれていた。この遠征では高度8,570メートルが最高で登頂はできなかったが、ウィン=ハリスが頂上近くでアーヴィンのものとされるアイス・アックスを発見したことで有名になる。同隊ははじめてエベレスト遠征にラジオを持参した。

なお、1933年4月3日スコットランドの貴族、第14代ハミルトン公爵ダグラス・ダグラス=ハミルトンが操縦席がむき出しの複葉機(ウエストランド機)に乗り込み、エベレスト山頂の上を飛び越えるとともに史上初めてエベレストの空撮に成功した。

1934年、イギリスの奇人モーリス・ウィルソン (Maurice Wilson) が飛行機を山腹に不時着させ単独登頂をするという計画を立てたが、不許可となる。登山経験のないウィルソンは「霊的な助け」によって頂上にたどりつけると信じ、2人のシェルパを雇ってノース・コルのふもとまで上がったが行方不明になる。シェルパ2人は生還し、ウィルソンの失踪を報告した。

1935年、イギリス第5次遠征隊。登頂目的でなく、エリック・シプトンをリーダーにモンスーン時の気候を調査する目的で派遣された小規模のグループだった。ノース・コルのふもとでテントに包まれたモーリス・ウィルソンの遺体と日記を発見(日記には、登山経験のないウィルソンの失敗の経緯が綴られていた。遺体は近くのクレバスへ埋葬された)。隊には1938年隊の隊長になるビル・ティルマン (Bill Tilman) がいた。また、ニュージーランド出身のダン・ブライアントをシプトンが気に入ったことが、のちにエドモンド・ヒラリーが遠征隊に参加する道を開くことになる。有名なテンジン・ノルゲイが若手シェルパとしてエベレスト行に初参加した。

1936年、イギリス第6次遠征隊。1933年の失敗を批判されて以来、隊長就任を固辞していたラットレッジが適任者不在を理由で再び隊長に引っ張り出された。1924年隊のノエル・オデールも参加を打診されたが、年齢を理由に辞退している。エリック・シプトン、フランク・スマイス、ウィン=ハリス、チャールズ・ウォレン、ピーター・オリヴァーらが参加。日程の当初は雪も少なく天候にも恵まれて成果が期待されたが、直後に例年よりも早いモンスーンが到来したため、隊はほとんど何も成果を得られず帰国。「最低の遠征隊」と酷評されることになる[15]

1938年、イギリス第7次遠征隊。隊長はビル・ティルマン。再び小規模な遠征隊を組むことにし、隊員としてシプトン、スマイス、ウォレン、オリバーら経験者が選ばれた。古参のノエル・オデールも再び参加。天候の悪化のため登頂を断念し、遠征隊は帰還。

第二次世界大戦から初登頂前まで

翌年以降は第二次世界大戦の影響で登山は行われなかった。

1949年、ネパールが鎖国を解き、初めてネパール側の登山が可能になる。逆に、それまで唯一のルートだったチベット側は中国の支配下に置かれたことで閉鎖された。ネパールの開国は、戦前アジアに強い影響力を持ったイギリスが独占してきたエベレスト遠征に、世界各国に門戸が開かれたことを意味していた。

1951年、イギリスのマイケル・ウォード、トム・ボーディロン (Tom Bourdillon)、ビル・マーリがネパール側から入って山頂へのルート探索を行うことにし、エリック・シプトンを隊長として迎える。ネパール到着後、クムト・パルバット遠征を終えたニュージーランド隊から2名、アール・リディフォードとエドモンド・ヒラリーが参加。シプトンは1935年にメンバーだったニュージーランド人ダン・ブライアントに好印象を持っており、そのことがニュージーランド人の参加につながった。一行は難所アイスフォールを突破しウェスタン・クウムにいたる、現在でもよく使われる南東稜ルートを発見する。この遠征の帰途メンルン氷河の近くでシプトンは雪上に残る「巨大な足跡」を発見、のちに未知の生物「イエティ」のものだと喧伝されることになる[16]

1952年スイスがネパールから1952年の入山許可を得たが、イギリスは1953年の入山許可しか得られなかった。動揺したイギリスは合同遠征隊を提案するが拒否される。スイス隊はエドゥアール・ウィス・デュナンを隊長とし、アルプスで鳴らした屈指の登山家たちレイモン・ランベール (Raymond Lambert)、アンドレ・ロッシュ、ルネ・ディテール、エルンスト・ホッフシュテッターらを擁してエベレストに挑んだ。同隊はシェルパとしてテンジン・ノルゲイを指名して参加を要請、テンジンはこれが4度目のエベレスト登攀になった。一行はアイス・フォールを超え、巨大なクレバスに道をさえぎられたが、ジャン・ジャック・アスパーがザイルをつかってクレバスの反対側に渡ることに成功し、そこに橋をかけてウェスタン・クウムへの道を開いた。最終的にランデールとテンジンがそれまでの最高高度8,611メートルに達し、頂上は目前だったが天候に恵まれず撤退。この年、ソ連が秘密裏に遠征隊を送り込んで壊滅したといううわさが西側メディアで流れたが、詳細は明らかにならなかった。

初登頂そして条件別初登頂記録

1953年、酸素装備の改良、登攀技術の研鑽などによって満を持したイギリス隊が送り込まれる。この機会を逃せば次の派遣は数年後になっており、翌年以降各国が続々と隊を送り込む予定だったため、イギリスは強い意気込みで1953年隊を送り出した。隊長はベテランのシプトンに一旦決まったものの、第60ライフル連隊のジョン・ハント (John Hunt) 大佐が推挙されてもめにもめた。その後、突如シプトンが隊長という決定が覆され、ハントが隊長に代わった。このときのトラブルの心痛から、シプトンは登山界の表舞台を去ることになる。遠征隊は順調にキャンプを前進させていき、2つの頂上アタックチームを送り出した。まず最初のチャールズ・エバンスとトム・ボーディロンのチームが5月26日にアタック、南峰(8,749メートル)を制したが酸素不足で撤退した。

後に続いたエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイの第2チームが5月29日午前11時30分に世界初の登頂に成功、同年2月6日のエリザベス2世の戴冠と時期を同じくする偉業にイギリスは沸き、マロリー以来の宿願を果たした。

1960年5月25日、中国隊がセカンドステップを超えて北東側からの初登頂に成功。同隊が夜間登頂したため、頂上での写真撮影がなかったことなどから、この登頂は長く西側諸国から疑いの目で見られていたが、現在ではほぼ認定されている(下記リスト参照)。

1963年5月22日、アメリカ隊が登頂に成功。初縦走も成し遂げる。

1965年5月20日、21名からなるインド隊(M・コーリ隊長)が登頂に成功、シェルパのナワン・ゴンブは史上初めて2度エベレストの頂上に立った人物となった(1度目は1963年のアメリカ隊と成功)。

ネパール政府により、外国人による登山が1969年まで全面禁止となる。

1970年5月11日日本山岳会エベレスト登山隊(総隊長・松方三郎、登攀隊長・大塚博美)の松浦輝夫植村直己日本人として初めて登頂に成功した[17]

1973年、イタリア隊のリナルド・カレル、ミルコ・ミヌッツォら5人が登頂しイタリア人として初のエベレスト登頂。実業家グイド・モンジーノが組織したこの隊は、イタリア人隊員は隊長も含め64人、雇用したシェルパも100人にのぼり、ジェット機とヘリコプターで搬入した物資は50トンにおよぶなど単独の登山隊としては最大級の規模であった。

1975年5月16日田部井淳子が女性として世界で初めて登頂に成功した。11日後の5月27日には中国隊の9人が北東側から登頂し、チベット族女性パンドゥが女性第2登を果たした。

1990年代以降

1996年5月10日、8名が死亡する大量遭難死が発生した(エヴェレスト大量遭難参照)。同シーズンにさらに4名の遭難があり、1シーズンで12名の死者が出た。

1999年5月1日、アメリカのマロリー&アーヴィン捜索隊が標高8,160メートル付近でマロリーの遺体を発見した。マロリーたちが持参していたカメラ、ヴェスト・ポケット・コダックが発見されればエベレスト登山史上最大の謎が解けることになるが、いまだ発見にいたっていない。しかし、登頂に成功した暁に置いてくるつもりだった彼の妻の写真が遺留品になかったことから、ジョージ・マロリーが登頂に成功していたのではないかという説を唱える人も多い。なお、マロリー&アーヴィン捜索隊は2001年にも捜索活動を行い、前回発見できなかったアーヴィンの遺体とカメラを捜索したが、このときの捜索では何も発見できなかった。

2008年5月8日2008年北京オリンピックの聖火リレーの一環として、聖火を持った登山隊がエベレストに登頂した。

2012年5月19日、異常高温によりルート工作が難航したため待機させられていた大量の登山隊が開通時に一斉に押し寄せ、1日で234人が登頂し大渋滞が発生。これを遠因として登頂後に高山病を発症した4人が死亡した。この年はいくつかの登山ツアーは山頂までの登頂を諦めている。

2014年4月18日、ネパール側ルート上のクーンブ氷河中にある「ポップコーン・フィールド」付近を、西稜の肩の懸垂氷河の崩落を原因とした大雪崩が直撃。ルート工作中のシェルパが多数巻き込まれ16人が死亡(死者はすべてネパール人ガイド)。この事故死をきっかけにシェルパ側から事故時の補償を拡充する声が高まり、登山のサポートを事実上ボイコット。334人が登頂を断念している。また、ネパール観光局は、シェルパの保険金を2014年9月以降、引き上げる措置を講じている[18]

2015年4月25日、同日発生したネパール地震の影響で大規模な雪崩がベースキャンプを直撃し、日本人1人を含む18人が死亡。エベレスト史上最悪の遭難事故となった[19]。ネパール側では余震によりルート修復が困難になり[20]、キャンプ1とキャンプ2に100人以上が取り残されたがヘリコプターで救助された[21]。一方、この地震を受けて、中国政府はチベット側の登山中止を宣言。この影響で、この年は1974年以来41年ぶりに登頂者が1人も出なかった。

主な登頂者

主な登頂の記録

最年少、最高齢
複数回登頂
障害者による登頂

登山

登山者数

2010年までの年ごとの登頂者数の推移

登頂者数は2010年時点で3,142人(のべ5,104人)で[32]、その中の142人(のべ173人)が無酸素で登頂している[33]。2012年には登頂者数が3,842人(うち女性は219人)となり、1週間にベースキャンプから山頂まで2往復する女性も現れた[34]。商業登山や公募隊が盛んになり、登山者数はますます増加する傾向にある。登頂のためのノウハウが蓄積され、死亡率は減少傾向に、登頂成功率は上昇傾向にある。登山者の増加により、渋滞が問題になっており、渋滞によりヒラリー・ステップで2時間半 - 4時間待つこともあり、ヒラリー・ステップを簡単に素早く登れるように2013年現在、固定ロープだけでなくはしごも設置することが検討されている[35]。2018年には登頂者は807人と過去最高となった[36]。2019年5月22日には200人以上が頂上を目指し[37]、頂上から登山者が数珠つなぎになって渋滞した[36]。渋滞に12時間も巻き込まれて体調を崩して死亡する登山者も出てきている[36][37]

入山料と費用

エベレストに入山するには入山料を支払わないと登れないシステムになっている。2015年時点の入山料は、ネパール側では春の通常ルート(南東稜)で1人あたり1万1,000ドル[38]。ほかにリエゾン・オフィサーや医療サポート、ロープ設置などの名目で1,500ドルほどかかる[39]。春以外の季節、または通常ルート以外のルートでは、入山料はこれよりも安くなる[40]。2014年の価格改定時に1人で登る場合の入山料が値下げされたが、団体割引がなくなっている。チベット側の入山料は1人あたり7,000ドルである(2015年時点)[39]

登山ツアー(商業公募隊)が多数あり、2015年現在、ネパールからの通常ルートの場合、入山料などのすべての諸経費込みで3万5,000 - 8万5,000ドル程度となっている[38]。ネパールからの通常ルートは、シーズンごとに各隊のシェルパが固定ロープ、はしごを設置し、それに沿って登山する形となり、氷壁などを登る必要などはない。チベット側からの登山は難易度が相対的に高くなっているが[41]、こちらも公募隊が多数組まれている[38]。商業公募隊には品質のばらつきがあり、死亡率の高いものも存在する。最近の日本人による登頂のほとんどが商業公募隊かテレビ局の撮影をともなうものになっている[42]

商業登山への懸念と批判

エドモンド・ヒラリーは登山ツアーを「商業活動」と批判している[43]田部井淳子も、現地ネパール人の助けがあって登頂に成功したが、今では助けを得られるかはお金次第であると述べ、登山の過度の商業化を危惧した[43]。また登山者数の増加にともない、ネパール側、チベット側の2つのノーマルルートで渋滞が発生し、それが誘引となって遭難する案件も出てきている。2005年にはチベット側だけで35グループのエベレスト登山ガイド隊が活動しており、一連の登山ビジネスの活発化が山に対する敬意や畏怖の念を薄れさせると懸念する声も上がっている[43]

遭難

登山ルートには、随所に120体もの遭難者の遺体が放置され、凍結か、乾燥によりミイラ化している。遺体の中には登山ルートの目印となっているものもある。遭難死の7割は下山時に発生している。

ネパール側のエベレスト以外(K2など)の山も含めたヒマラヤ山脈での標高8,500メートル以上の山の登山での死亡率は以下の通り[44]

時期 登山者数
(シェルパ・ガイド除く)
登山者
死亡者数
登山者
死亡率
シェルパ・ガイド数 シェルパ・ガイド
死亡者数
シェルパ・ガイド
死亡率
全登山者数 全死亡者数 全死亡率
1950年〜1989年
標高8500m以上の山
3,451 75 2.17% 2,705 47 1.74% 6,156 122 1.98%
1990年〜2006年
標高8500m以上の山
6,401 92 1.44% 4,379 30 0.69% 10,780 122 1.13%
1990年〜2006年
エベレスト通常ルート[注 4]
4,549 64 1.41% 3,380 22 0.65% 7,929 86 1.08%

登山ツアーの1つであるHimalayan Experienceの客の登頂成功率は、悪天候とシェルパの死[45]により誰も登らなかった2012年を除くと、客を毎年20名前後取るようになった2003年 - 2011年で60 - 82%[46](この数字はガイド・シェルパを含まず)である。

日本人専用の登山ツアーとしてアドベンチャーガイズがあり、2004年 - 2013年にガイドを除いて23名参加し、17名登頂成功、2名[42]死亡(死亡事例はいずれもガイド自身がエベレスト登頂未経験のケースに発生)。

制限

年齢
ネパール側の登山ルートは成人(16歳以上)のみ登山ができる年齢制限がかかっており、2010年9月より中国側登山ルートによる登山が18歳から60歳に年齢制限がかかる。制限導入の背景は、従来より若年層による登山にはより大きな危険がともなうと批判が出ていたこと、最年少記録更新のヒートアップが予想されたことなどがある[47]
ただし中国側の規制は強制ではなく[48]、2014年には13歳のマラバト・プルナが中国側から女性最年少登頂を果たしている。
最高齢登頂記録に関して、2013年に日本の三浦雄一郎が80歳で登頂して記録を更新した一方、2017年に記録更新を目指した85歳のネパール人の男性登山家がベースキャンプで心臓発作により死亡している[49]。この事例を受け、ネパール登山協会のシェルパ会長は、個人的な意見と断ったうえで「今こそ規制が必要」とコメントしている[50]
人数
2017年12月28日、ネパールは単独登山者の入山を法律で禁止した[51][52]

ゴミ問題

登山ルートには度重なる登山のゴミが廃棄されており、生態系に与える影響や水質汚染が懸念されている[53]。ネパール政府は、自分が出したゴミとは別に1人あたり8キロのゴミを持ち帰るよう義務づける、新しい規制を2014年から導入した[54]。ゴミを回収することを目的とした登山が行われることもある。

2017年には、ネパール側で25トン近いゴミと15トンの屎尿が持ち帰られたが、デポジット金没収のペナルティを受容して山にゴミを残す登山者も多く、ゴミの量は増え続けている[55]

2019年8月15日、ネパール政府はエベレスト周辺のゴミを減らすために、2020年より厚さ30ミクロン以下の使い捨てのプラスチック製品や飲料用プラスチック製ボトルなどの使用を禁止する措置を発表した[56]

トレッキング

上記のようにエベレストの山頂へと登ることは熟練の登山家でも危険をともなうが、一方で南麓であるネパール側の6,000メートル以下のエベレストの山腹まではそれほどの難所もなく、高山病対策さえあれば一般の観光客でもトレッキングを楽しむことは可能であり、世界中から多くの観光客が訪れる。日本でもいくつかの旅行社がエベレスト・トレッキングツアーを催行しており、参加者も多い。また単独で、または登山ガイドをつけての個人トレッキングも可能である。

トレッキングを行う場合、まずネパールの首都カトマンズから飛行機でルクラ村へと向かう(テンジン・ヒラリー空港も参照)。ここから北のエベレスト山腹へと向かう道はエベレスト街道と呼ばれ、多くの登山客が行きかう。ルクラ村の手前にある路線バスの終点ジリ村から徒歩で数日かけルクラまで歩くことも出来る。

ルクラから北へ向かうと、この地方でもっとも大きく登山基地となっているナムチェ村を通り、やがて西のゴーキョ・ピークと東のカラ・パタールへ向かう2つの登山道が分岐する。ゴーキョ・ピークは標高5,483メートル、カラ・パタールは5,545メートルの地点にあり、どちらも眼前にエベレストを望むことができる。


注釈

  1. ^ チベット文字による表記。環境によっては「ཇོ་མོ་ག」と字化けして表示される。
  2. ^ 両名とも日本山岳会エベレスト登山隊(総隊長・松方三郎、登攀隊長・大塚博美)の隊員である。
  3. ^ 1996年にもハンス・カマランダーが山頂からスキー滑降に成功したが、所々でスキーを脱いで下山した。三浦雄一郎は1970年に7900mからスキー滑降し、「The Man Who Skied Down Everest」として映画化されたことで有名。
  4. ^ 北側、南側の2つの通常ルートの合計。

出典

  1. ^ 人類初のエベレスト登頂 ウォルストリートジャーナル 「60年前のエベレスト初登頂」2013年5月28日 2020年2月1日閲覧
  2. ^ GPS-Messung von 1999
  3. ^ “エベレスト 標高は8848m86cm 中国とネパール改めて測定”. NHK (日本放送協会). (2020年12月8日). https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201208/k10012753511000.html 2020年12月9日閲覧。 
  4. ^ https://www.afpbb.com/articles/-/3320281?cx_part=top_topstory&cx_position=2
  5. ^ 薬師義美 2006, p. 41
  6. ^ 薬師義美 2006, p. 71
  7. ^ 薬師義美 2006, p. 106
  8. ^ 薬師義美 2006, pp. 107–111
  9. ^ 薬師義美 2006, pp. 111–112
  10. ^ 薬師義美 2006, p. 113
  11. ^ 薬師義美 2006, p. 115
  12. ^ ウェイド・デイヴィス 2015a, p. 73
  13. ^ ウェイド・デイヴィス 2015a, p. 74
  14. ^ ピーター・スティール 2000, p. 63
  15. ^ ピーター・スティール 2000, p. 101
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