エベレストへの挑戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 02:35 UTC 版)
「アンドリュー・アーヴィン」の記事における「エベレストへの挑戦」の解説
1923年、アーヴィンは、オックスフォード大学のスピッツベルゲン遠征隊に選出されたが、アーヴィンはあらゆる局面で優れた能力を見せた。この時、アーヴィンと遠征隊のリーダー、ノエル・オデールはフォエルグラッチェ(en:Foel Grach、ウェールズ)の上で出会ったことがあったことをお互いに思い出している。その後、オデールがイギリスによる第3次エベレスト遠征隊に選ばれると、アーヴィンの高い能力を認めたオデールは、遠征に彼が必要だと考えて推薦、アーヴィンは遠征隊の一員となった。この時、アーヴィンはまだ21歳の学生であった。 インドへ向かう船の中で、アーヴィンと親しくなったジョージ・マロリーは妻に「アーヴィンはどんな時でも頼りになる、おしゃべり以外は」と書き送っている。この遠征で、アーヴィンは山岳用酸素ボンベの機能性、重量、強度などの確認を行ってその問題点を洗い出し、遠征後に酸素ボンベを再設計して、改良する予定となっていた。さらには、遠征中使用するカメラ、キャンプ用寝具、プリマス・ストーブなどの多くの機器の維持管理を担当した。アーヴィンは遠征隊で人気があり、気さくで発明の才能があり、激務にも耐えたため、年上の同僚たちも敬意を払った。 登頂は6月初頭に開始、マロリーとアーヴィンが登頂に挑んだが、マロリー、アーヴィンの姿が見られたのは1924年6月8日が最後となった。彼らのサポートを行っていたノエル・オデールは、午後12時50分、マロリーとアーヴィンが「セカンドステップ」へ取り掛かろうとし「頂上へ向けて力強く進んでいた」と報告したが、彼らが登頂に成功したかどうかは確認できなかった。そのまま二人はエベレストに消えた。彼らが登頂に成功したかは未だに不明である。 マロリーとアーヴィンが失踪した約9年後の1933年、イギリス第四次遠征隊(隊長:ヒュー・ラットレッジ(en:Hugh Ruttledge)のメンバー、パーシー・ウィン・ハリスは、高度8573mまでの登山に成功したが、ハリスは8380m付近のファーストステップでピッケルを発見、それは1924年にマロリーとアーヴィンが登頂に挑戦したときのものであった。『エベレスト1933』のP137にはハリスがピッケルを発見したとき、「それはボイラー板のような厚いスラブの上に、茶色で、平穏で、自由なままに転がっていた。」と述べたとしている。さらにP138で、ハリスは「この厚いスラブは別段、険しいものではなかったが、滑りやすく、脆い小石で覆われた危険な場所であった。」と述べている。1933年11月のアルペンジャーナルにおいて、ラットレッジは以下のように解説した。「対角線上に上へ横断し、約1時間登った後、マロリーかアーヴィンが使用していたにちがいないピッケルを発見した。北東やせ尾根の下、60ftの傾斜角30度の地点にそれは転がっていた。」「ここから推測できるのは」ハリスは続けて言った、「このピッケルがアクシデントの発生を示していることだ」と。さらに「このピッケルの存在は、ここで滑落が発生して落ちたか、滑落した同僚を助けようとしてロープを引っ張るために両手を空けようとピッケルをここに置いた可能性を示している」と続けた。 1999年に捜索隊によってマロリーの遺体が発見された。その遺体はロープによって腰部が損傷していたことから、二人はロープで結び合ったまま滑落したのではないかと推測されたが、アーヴィンの遺体は未だに発見されていない。
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