設計の歴史
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2004年1月にブッシュ大統領が宇宙探検の展望を提唱した後、2005年4月29日にNASAは、以下のことを決定するため、探査システム構成検討を開始した。 「月と火星の探査計画を支える人員と貨物の打ち上げシステムの、トップレベルの必要条件と構成」 「国際宇宙ステーションへ人員を輸送するための、有人探査船(CEV)の必要条件と計画の査定」 「持続的な有人・無人月面探検活動を支える、月面探検のアーキテクチャコンセプトのリファレンス作成」「これらリファレンス探検システムの可能性拡大と大幅な強化の鍵となる技術の特定」シャトル派生型打ち上げアーキテクチャのひとつが、アレスIとしてNASAに選ばれた。当初、アレスIは第1段に4セグメントの固体ロケットブースター(SRB)を、第2段に簡素化したスペースシャトル主エンジン(SSME)を使用することになっていた。無人版では、現在の設計と同じく5セグメントのブースターを使用するが、第2段にはSSMEを1台使用することになっていた。 しかし、最初の設計が承認されてから間もなく、追加の試験によって、オリオン宇宙船は4セグメントのブースターで持ち上げるには重すぎることが判明した。2006年1月、NASAはオリオン宇宙船を少し小さくし、固体第1段に5個目のセグメントを追加し、SSMEをアポロ派生型のJ-2Xエンジンと置き換えることを発表した。4セグメントの第1段と5セグメント版は実質的に同じ物(もともと組み替え可能な構造だった)だが、5セグメントに変更する最大の理由はJ-2Xを採用する必要が生じたことだった。 ロケットダイン社が設計製造したJ-2Xの価格は2,000~2,500万米ドルで、複雑なSSME(5,500万米ドル)の半額以下だった。しかも現行のSSMEが地上で始動するように設計されているのに対し、J-2Xは最初から上空の真空に近い場所で始動するよう設計されていた。この空中始動能力は、特にアポロ宇宙船を月へ運んだサターンVのS-IVB段で使われた、オリジナルのJ-2ロケットで重要だった。一方SSMEは、空中始動や真空中再始動(オリオン宇宙船の燃料搭載量が制限されたので、アレスIが「直接投入」飛行手順を取るため)を可能にするには大幅な変更が必要である上、各オービターの初飛行前や1988年のSTS-26以前のフライトで行われていたように、「エンジンテスト」と同様の方法で事前に点火する必要があった。 NASAは、現在のシャトルSRBの製造者であるATKチオコールを、アレスI第1段の主契約者に選定したことを発表した。 ATKは、アレスI上段のコンソーシアムにも加わろうとしている。プラットアンドホイットニーの一部門であるロケットダイン(以前はロックウェルインターナショナルとボーイング北米部門が所有していた)は、J-2Xロケットエンジンを担当する、主要な下請企業である。エンジンの試験はアラバマ州ハンツビル南方の施設で行われた。 2007年1月4日、NASAはアレスIが、スペースシャトル以後初めて完成した有人宇宙船設計の、システム要求審査を完了したと発表した。 この審査は設計作業の最初の大きな節目で、アレスIがコンステレーション計画に必要な全ての条件を満たすことを確認することが目的である。また、審査の発表のほかに、NASAはタンクの構造変更についても発表を行った。 スペースシャトルのETのように液体水素と液体酸素を「インタータンク」で分離する代わりに、サターンVの第二段(S-II)や第三段(S-IVB段で使われた、共通隔壁でタンクを分離する方法が採られることになった。これによってNASAは、第2段を短く軽くすることができる。
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設計の歴史
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兵器局から陣地突破用重戦車の開発を依頼されたヘンシェル・ウント・ゾーン社は、1937年春から後述のDW I、DW II、VK 3001(H)を開発した。いくつかの試行錯誤を経て、1941年にヘンシェル社と他の三社(ポルシェ、MAN、ダイムラーベンツ)は75mm主砲を持つ35t型戦車の設計を提出したが、これらの計画は、主砲を8.8cm戦車砲に変更した総重量45トンのVK 4501に取って代わられた。この製作案は1941年5月26日にヒトラーのバイエルンの山荘イーグルネストで行なわれた兵器の基本的問題を討議する会議で決定されたとされる。この会議は独ソ戦開始の直前であり、このことからもティーガーIがいわゆるT-34ショックで開発されたものではないことが分かる。 その後、バルバロッサ作戦でドイツ軍が遭遇したソ連のT-34は、既成のドイツ戦車を時代遅れのものへ変えた。ヘンシェル社の設計技師だったエアヴィン・アーダース(Erwin Aders)は「ソ連軍の戦車が国防軍のどの戦車よりも優れていると判った時は皆仰天した」と語っている。ティーガーIはそれまでの試作重戦車を拡大した設計であって、後のパンター戦車と異なり、T-34と遭遇したうえでの機械的比較や戦訓をもととした、傾斜装甲などの革新的な設計は取り入れられていない。しかしながら装甲の厚さがこれを補った。 ポルシェ社とヘンシェル社は試作車の設計案を提出し、実際に製作された車両は1942年4月20日のヒトラーの誕生日に、ラステンブルクにおいてヒトラーの前で比較された。ポルシェ案のVK4501(P)は、故障の多かった変速機を省略するため、エンジンで発電機を回してモーターを駆動する電気駆動方式を採用し、サスペンションも外部にトーションバーを配置する簡易な設計であった。ヒトラーはこれに関心を示したが、モーターには不足していた銅を大量に必要とするためもあって堅実なヘンシェル案が採用された。ティーガーIことVI号戦車E型の量産は1942年8月に開始された。なお既にポルシェ案の車体も90両先行生産されており、これを流用してフェルディナントまたはエレファントとして知られることになる重駆逐戦車が製造された。 ポルシェティーガーには、通常に広く知られているティーガーI(ヘンシェル社型)と比較して多くの相違点が存在する。この戦車の砲塔は車両半分より少し前に配されており、砲塔の形状もヘンシェル社製のものと異なり、操砲時の俯角をとるため、中央部分に突起したクリアランスが設けられている。また、ヘンシェル社製のものと比べると、モーターを搭載する分、全長が約1メートル長く、全幅と全高は少しずつ低い。出力ロスの多いモーター駆動のために最高速度も3km/hほど低かった。電気駆動を採用した結果、機関室が大型化し、また空冷ガソリンエンジンの出力は不足していた。この巨体を動かすには相当大きな電力が必要であったが、平地の走行実験では、電力を供給するコードが焼け、エンジンから煙が出るなどの結果となった。改良を加えてから、下り坂で走行実験をしたところまたしてもコードが焼け、砲塔を旋回させても大電流にコードがもたず、即座に中止となった。放っておいても砲塔は重力に引かれて下を向くという結果となった。ポルシェティーガーの一応の期限は1942年4月20日であり、この日にはヒトラーの査閲を受けるため完成が目指された。しかしエンジンが完成して届いたのは4月10日であり、列車で運ぶ途中にも必死で溶接作業をし、やっと完成して到着したが、満足に行動できないという結果となった。このような過程を経てヘンシェル社の車輛が選定された。後、東部戦線に配備された重駆逐戦車部隊の中に、指揮戦車として数両のポルシェティーガーが配備された。 当初は Pzkw VI Ausf. H の名称で開発されたが、後に Ausf. E と変更された。制式番号はSd.Kfz.181である。「ティーガー」の愛称はフェルディナント・ポルシェ博士による命名であった。 ティーガーIは、実質的に試作のまま大急ぎで実戦に投入されたため、生産期間中にわたって大小の改良が続けられた。まずコストを削減するため、初期型にあった潜水能力と外部取り付けのファイフェル型エアフィルターが省略された。防弾ガラスのはめられたスリット式の車長用ハッチのキューポラをペリスコープによる間接視認方式の安全なものに交換したものが中期型、緩衝ゴムを内蔵した鋼製転輪に変更したものが後期型と、後年の研究者によって分類されている。また、修理に戻された本車の一部は、後にシュトルムティーガーに改造された。 本車の運用に当たる戦車兵などの兵士用に製作されたマニュアル『ティーガーフィーベル』は、ティーガーIを「エルヴィラ・ティーガー」、という女性に擬人化し(多数の挿絵や図表つき)、兵士のキャラクターがその世話をしながら口説くための恋愛入門書という図式でティーガーIの運用法を解説していた。
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