芸能界との関係
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桂小金治をはじめ、芸能人や芸能界関係者と交友があり、テレビのバラエティ番組やトーク番組にも出演した。 1988年3月15日夜、当時自民党政調会長だった渡辺は、帝国ホテルの孔雀の間で開催された「林家こぶ平(当時)真打昇進披露パーティー」に出席。約650人の客を前にスピーチし、こぶ平の母海老名香葉子を絶賛した。渡辺は1985年に海老名と西舘好子(当時は井上ひさし夫人)の三人で出演したテレビ番組「いい人・E話」(テレビ東京系)の中で、海老名が夫の林家三平(当時既に故人)を賞賛していたエピソードを披露。「この奥さんにして立派なご主人」と海老名を評した。渡辺は続けて西舘について「ある有名な劇作家(井上)の奥さんはテレビ番組で話した時に、やはり旦那のことを天才だとか言って褒めちぎっていたが、こんな女房では旦那は大変だと思った。そうしたら後に離婚してしまった。あの対談のときすでに別の男を作っていたようだ」と発言した。渡辺は笑いを取ったつもりであったが、実はその西舘もパーティーに出席していたため、西舘は激怒してその場で渡辺に詰め寄り、パーティーは混乱におちいり、渡辺は這う這うの体で会場を後にした。この一件の顛末は翌日以降のワイドショーや女性週刊誌等で大々的に取り上げられ、西舘が渡辺を告訴する構えを見せるなどの騒動となった。しかし渡辺が西舘に電話をかけて「前に会って話したさい、あなたに悪い印象をもってしまったが、離婚の話を揶揄するべきではないと娘に叱られてしまったよ」と言って謝罪の意を表したため、これを西舘も了承した。渡辺の娘も離婚している。
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芸能界との関係
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芸能界では結婚と妊娠を同時に発表するケースが頻繁にあるが、現在では芸能事務所側が「できちゃった結婚」に相当する言葉をタブー視する傾向にあり、各報道機関の配信記事でもこれに配慮して結婚と妊娠を分けて表現するのが主流となっている。特に女性側が芸能人である場合、結婚と妊娠はその活動の継続や休業、また復帰した場合はタレントとしての路線変更などに直結することから、婚約や結婚の公表時に妊娠していなければ、芸能事務所が当事者のコメントとは別に行うプレスリリースに「妊娠はしていない」という情報をわざわざ付記し、報道機関でも場合によってはその旨を加えて報道するのが一般的になっている。 芸能界におけるできちゃった婚の元祖は1958年10月の二代目中村扇雀と扇千景のカップルとされるが、1939年に霧島昇とミス・コロムビアが結婚した際も結婚前に妊娠している。また、1949年に代議士同士で交際していた園田直と松谷天光光が結婚に至った時の決め手も松谷の妊娠であり、それを表現した「厳粛なる事実」は当時の流行語となった。
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芸能界との関係
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1973年「小川企業広告研究所」を「小川企業」と改組、多くの部下を持った。この中に商法改正後最大の総会屋になった小池隆一がいる。 1976年3月、資金繰りに苦しんでいたデビュー前のピンク・レディーの所属事務所から、人を介して融資を頼まれ「T&C」と社名変更させた上でオーナーとなる。設立資金は小川が東京相互銀行の長田庄一会長を恐喝して巻き上げた金といわれている。T&Cの社長の貫泰夫 と加納亨一専務は小川の広島市立幟町中学校時代からの友人で、原爆の焼け野原で一緒にボールを追った野球部仲間だったが、貫は日興証券、加納専務は生命保険の大手企業出身の堅気で、一攫千金を夢見て脱サラした人物だった。ピンク・レディー売り出しのために小川が1億3000万円の運転資金を工面した。デビュー曲のB面に予定されていた『ペッパー警部』を強引にA面にし、セクシー路線に変更させたのは小川と自著に書いているが、貫は否定している。また付き合いのあった企業へ、CM起用を売り込んだ。 爆発的人気を得たピンクレディーは、3年間で500億から1000億は稼いだとも言われたが、その後の第29回NHK紅白歌合戦出場辞退事件、アメリカ進出失敗で人気は急降下し またアイドルと総会屋の接点がマスコミに書き立てられ始め、警察から余罪で追及を受けて、約2年で已むなくオーナーから身を引いた。小川もピンクレディーで懐に入ったカネは競艇で全額スってしまい、何も残らなかったという。しかしT&Cの貫元社長は「小川がいなかったら、ピンク・レディーはこの世に存在しなかった」と述べている。 詳細は「T&C ミュージック」を参照 他に「企業の窓」や「カープファン」などの書籍も発行。株を教えて欲しいと近づいて来たユセフ・トルコは1976年頃、小川の用心棒のようなことをやっていた。互いに新生マーケット跡に建てられたニュー新橋ビルに事務所を構えていたことから、仙谷由人はこの頃から小川の弁護士を務め、親しい付き合いだったという。1977年には当時世間を大いに騒わせた中ピ連の榎美沙子に嘆願され、日本航空の株主総会出席の手引きをした。榎は中ピ連で男女関係のトラブル相談をやっていたため、先の小川が東京相互銀行から融資を受けた件で付き合いがあった。 1982年5月「小川企業」が倒産。同月9日の毎日新聞、11日付けの読売新聞が大きく報じた。大新聞が総会屋の倒産を大見出しで報じたのはこれが初めてだった。小川はとにかくバクチが好きで、野球賭博と競艇に目がなく、一発大穴ばかりを買うので絶対損をして、競艇場にいるヤクザがバックにいる金融業者から100万円単位でばんばん借りて利息が膨らんだ。年14億スったこともある。総会は年に何回もあるわけではなく、基本的に総会屋の仕事は朝が早い。企業の総会屋担当である総務部は、一般の社員の出社してくる前に、ひそかに眼につかないよう処理をしておこうと朝の6時に社に出て総会屋を待っていて、総会屋は色々な社を集金して回ると7時に総会屋の仕事が終わる。それで一日の仕事が終わってしまい、あとの時間を持て余す。小川はそのあと大抵平和島競艇場に行くのだが、オープンが朝10時なのでそれまでイライラして、時間になると集金してきた金を数えもしないで鷲掴みにし、車を走らす。小川は40席あるロイヤル・ボックスを一席持っていて、そこへ入るや札束をドンと積んで、一点に30万円張ったり、一日で1000万円使うこともある。額に汗して稼いだ金じゃないアブク銭なんで無茶苦茶に使う。やはり負けると頭に血が上り、帰りの車でレース券を買いに走る役の運転手を罵り続け、腹を立てた運転手が、どうせ競艇でスるならと3000万円持ち逃げしたこともある。また佐藤栄作が総理の年収でギリギリ持てるかどうかといわれた頃、カオルファーストという競走馬を持っていた。野球好きの小川らしく、いずれカオルセカンド、カオルサードと持つ予定にしていた。調教はかつてハイセイコーの調教師だった鈴木勝太郎で、1978年4月22日に五馬身の差をつけぶっちぎりで優勝したが、あとが続かず馬を持つのはやめた。小川は妻にヤシカ本社のあったビルの下に日本料理「高砂」と喫茶店「グッチー」をさせて企業の連中を呼んで、3万円飲んでも30万円の請求書を送っていた。ヤシカは社長と組んで反対派の巻き返しを封じたが、後に手の平を返された。1981年から18金のつけ爪の販売を妻にさせて、一つ1万5000円で銀座三越の資生堂コーナーの化粧品売場に置かせていたが、全く売れず大きな借金を抱えた。銀座のクラブ「花」には毎晩のように通い、青嵐会の政治家なども小川のツケで飲んでいて、支払いは月数千万円だったといわれる。愛人も中ピ連の榎美沙子の取り巻きの東大出の女性の他、いっぱいいたといわれるが、みな金目当てで小川が落ち目になったらスゥーと消えた。共政会にボディガードをしてもらっていたが、金の流れがスムーズにいかなくなり、山田久会長とも1982年はじめ頃から揉めはじめ、共政会組員に命を狙われ警視庁に身辺の保護願を出した。「総会屋という仕事は、マスコミにも叩かれ、家族とも離散するなど、つらい面もあるんよ。どうしても気晴らしが必要になる。わしのように年中働き蜂のように人の何十倍も働き、何十倍のスケールで働くと、ハケ口も、やはり何十倍もの超特大になるよのォ。わしのように、パァーッと使い、残さんからこそ、日本の一流会社のトップのお手伝いができるんよの。負け惜しみではなく、総会屋がコツコツと金を貯めてなんになるんや」などと吹いた。 小川が間口を広げた総会屋業は、小川一門の「広島グループ」だけで数千人を超える規模となったため、風当りの強さが年々増し、1982年10月施行の商法改正で総会屋が締め出される契機となった。 これを機に小川も活動を一時中止し、日本のラルフ・ネーダーになりたいと自著で述べたものの、その後も総会屋として生き残り、毎年総会シーズンになると見せしめに微罪で検挙された。
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芸能界との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 10:59 UTC 版)
時代劇の俳優が羽賀の指導を受けにくることもあった。俳優の高倉健は映画『宮本武蔵』で佐々木小次郎を演じる際、羽賀から殺陣を学んだ。羽賀の弟の羽賀忠利(剣道・居合道範士八段)は当時を述懐し、「みな兄貴から『切る』という技術を学びたくて教えを乞いに来ていたんです。(中略)俳優が殺陣の勉強をするために剣道家に教えを乞いにくるなどということは今はまずないでしょう。剣道が完全に『切る』ことから離れてしまっている。せめて居合がその方向に進めばいいが、居合も格好ばかりで、実際に切ってみようという人があまりにも少ない」と述べている。
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