芸能界での交流
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1967年、テレビ番組『まんが海賊クイズ』で当時は漫画家としては異例のテレビの司会を、黒柳徹子と共に担当。これを機に、赤塚の交流は各界に広がった。後に受章する紫綬褒章は荒木経惟に贈っている。 1973年(昭和48年)にはロック・ミュージシャンの内田裕也との交友から、日本ロックンロール振興会会長なる役職に就き、その流れで、矢沢永吉率いる人気ロック・バンドキャロルの私設応援団団長を、赤塚自ら名乗り上げ、務めた。 1970年代半ばには山下洋輔等を介して素人芸人時代のタモリと出会う。タモリの芸を認めた赤塚は大分県日田市のボウリング場の支配人であったタモリを上京させ、自らは事務所に仮住まいしながらタモリを自宅に居候させ、のちの芸能界入りに大きな貢献をした。またタモリや高平哲郎、滝大作らと「面白グループ」を結成した。高平からは由利徹を紹介され、赤塚は終生、由利徹を敬愛し、由利の弟子だったたこ八郎が赤塚家の居候となっている。 1982年(昭和57年)、写真家・荒木経惟との交友から、『写真時代』(白夜書房)9月号の巻頭グラビアで、漫画家としては初となるハードコア男優を務め、ファックシーンを披露した(荒木撮り下ろしの写真集『別冊噂の真相 荒木経惟の真相』所載)。 テレビアニメやドラマ、映画などの音響効果や選曲を手掛けていた音響技師の“赤塚不二夫”は赤塚のペンネーム、および本名(赤塚藤雄)とも同姓同名の別人だが、2人の間には親交があった。 詳細は「赤塚不二夫 (音響技術者)」を参照
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