総会屋として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 15:32 UTC 版)
1963年、ギャンブルで店のお金を使い込み夜逃げし再び上京。親戚の電器店で集金人をする。東京オリンピックに沸く1964年、東京新橋駅西口のバラック街のバーで、知人から聞いた総会屋の話に興味を持ち、その世界に足を踏み入れた。独学で勉強し端株を購入し片っ端から株主総会に出席した。当時は今と違い総会は一年中開かれていた。また証券不況の時代で、株価は100円以下の会社が多くタバコ銭で株が買えた。久保祐三郎や糸山英太郎ら大物の芸を盗み、代議士上がりの栗田英男を師と仰いだ。また日経や会社四季報などを読み猛勉強。ハンデ師をしていたので情報を覚える事は何ら苦にならなかったという。一説によると某印刷会社の秘書課長の支援の元、総会屋としての活動を開始したとされる。1964年、新橋に「小川企業広告研究所」を設立。 会社回りは最初は門前払いされる場合が多く、総会で発言する事がすべてだと痛感。発言するとその快感に酔い、電器店を辞めて総会屋業にのめり込んだ。新人が総会で発言出来るような状況では無かったものの、強引に発言を繰り返す事でやがて一目置かれる存在となった。小川が総会で荒い広島弁で捲くし立てるとどよめきがおこり、論談同友会らのグループと共に「広島グループ」と恐れられ「小川の恐ろしい広島弁を聞くと三日は眠れない」と言わしめ大企業をも震えさせた。株主総会で一時「ほうじゃけ」「せんかい」といった広島弁が飛び交った。 やがて大企業の方から小川を尋ねてきて、穏便な総会(シャンシャン総会)をお願いしたい、と賛助金と称すものを置いていくようになった。仲が良かったという後藤忠政は、「薫は面白い男だった。総会シーズン前になると、若い衆に大きな紙袋を持たせて各企業を回って、薫が『そろそろ株主総会も近づいてきたなぁ...』なんて言うと、デカイ紙袋が銭でいっぱいになった」と話している。しかし名前が有名になるにつれ暴力団からの脅しや、小川の名前を出して企業にお金を集るものが増えた。しかし小川自身「ずっと一匹狼でやってきて、嫌いな暴力団や他の誰かに助けを求めたり、バックに付けたりした事は一遍もない」と発言しているが、用心棒的存在として呉の三宅譲がいた。また、先の後藤は、小川や藤野康一郎らが同業者や他のヤクザとトラブルをおこしたら相談に乗ったり、力を貸してやったりしたと話している。1970年前後には総会で発言した小川の意見が経営に取り入れられたり、企業トップと懇意となり総会を仕切ったりした(幹事総会屋による「異議なし総会」)。小川の登場は、後を追う同業者の急増をもたらした。 1971年11月、小川薫は、王子製紙の株主総会で、総会屋の嶋崎栄治と乱闘となった。その後、嶋崎栄治が松葉会・菊池徳勝を後見人に立て、小川薫が二代目共政会・服部武会長を後見人に立てて、手打ちを行った。 住友銀行(現三井住友銀行)の依頼による東洋工業(現マツダ)松田耕平社長の勇退劇、富士銀行(現みずほ銀行)19億円不正融資事件の関与をはじめ、多くの大手企業の内側に食い込み、当時の総会屋勢力を塗り替えたといわれた。 小川以前の総会屋は、久保裕三郎たちを中心にわずか600人くらいと少なく、彼らがのんびりと盆暮だけ企業から金を受け取っていた。それを小川が猛烈なセールスをし、企業から莫大な予算を獲れるように変えた。1980年代初頭には総会屋は1万人に繁殖した。戦後の総会屋の世界は小川が切り拓いたものである。 企業からの賛助金は、警察発表では大手都市銀行を中心に約1000社の一流企業から年間10数億集めていたといわれる。「総会屋ほどボロイ商売はないのォ」とわが世の春を謳歌した。大橋巨泉から豪邸を購入した他、子供が学校で"ソウカイヤ、ソウカイヤ"と苛められるので、仕方なく妻子をハワイに移住させる。ホノルルの目抜き通りのある高級マンションとプライベートビーチ付きの一戸建てを持った。
※この「総会屋として」の解説は、「小川薫」の解説の一部です。
「総会屋として」を含む「小川薫」の記事については、「小川薫」の概要を参照ください。
- 総会屋としてのページへのリンク