背景と動機
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820年のクリスマスの日、レオン5世はアモリオンの人ミカエルの指示によって宮廷の礼拝堂で殺害され、ミカエル(2世)がただちに皇帝に即位した。ほぼ同時に、トマスはテマ・アナトリコイで反旗を翻した。正確な時期と動機について史料から得られる情報は分かれている。ゲオルギオス・モナコスの歴史的史料と、ミカエル2世の西の皇帝ルイ1世(敬虔帝)への手紙は、トマスがミカエル2世による簒奪の前に既に反乱を起こしていたと主張している。この時系列はゲネシオスの『続テオファネス年代記』やヨハネス・スキュリツェスを含む後のビザンツの年代記作家たちの全てによって引き継がれており、同様にジョン・バグネル・ベリーやアレクサンダー・カジュダン(英語版)のような現代の学者の多くも採用している。ポール・ルメルルはトマスとその反乱の研究においてこの時系列を、ミカエル2世が彼自身の反乱を、レオン5世がトマスの反乱の鎮圧に失敗したことへの対応として正当化し、さらに反乱軍によって被った初期の敗北の責任から彼自身を遠ざけることを試みて後に創り出したものであるとして却下した。ルメルルに続く最近のいくつかの研究はシメオン・メタフラストの記録-一般的に10世紀の史料の中で最も正確であると考えられている-を好んで用いている。この記録ではトマスの反乱はレオン5世の殺害の数日後であり、この事件への反応として発生したとされている。 二人が帝冠を巡って戦い、そのうちの一人がそれを手にした。しかし未だ確実にそれを確保しているとは言えなかった。ミカエルには正式に選出され、歓呼を受け、帝都において戴冠され、帝都を掌中に収めているという有利さがあった。しかし一方で、トマスはアジアのテマのほとんどから支持を受けていた。トマスが反逆者とされたのは、もっぱら彼が敗北したからにすぎない。 ジョン・バグネル・ベリー 反乱が発生したことで、ビザンツ帝国は分裂した。これは確立した政府に対する反乱というよりは、帝位を巡る同等の候補者による闘争であった。ミカエル2世はコンスタンティノープルとヨーロッパ側のテマ、そして帝国の官僚機構の支配権を確保し恐らくは総主教によって戴冠されていた。しかし、ミカエル2世が暗殺によって帝位を得たのに対し、トマスは殺害されたレオン5世の復讐を主張することで正当性と支持を得ており、アジア側のテマと、後にはヨーロッパ側のテマ双方からの支持を勝ち取った。トマスはレオン5世が小アジアで人気があったこと、尊敬される人物であり高い支持を得ていたことを良く知っていた。一方でミカエル2世は首都の外側では事実上全く知名度がなかった。彼には特筆すべき軍功もなく、満足な教育も受けておらず、作法も身に着けていなかった。吃音のために彼は嘲笑を受け、彼の家族が所属していた異端宗派であるアティンガノイ(英語版)に対して同情的であると見られていた。 ビザンツ帝国のトマスの反乱についての記録では彼はコンスタンティノス6世を標榜して帝位を主張したと説明されている。コンスタンティノス6世は797年に母親のエイレーネーによって殺害されていた。ルメルル以来の現代の学者の大半はこれも後世に創作された物語であるとして採用していない。この話の中に何等かの真実が含まれているとすれば、それはトマスが即位名として「コンスタンティノス」を選択したことに端を発しているのかもしれない。だがこれを証明するようないかなる証拠も存在しない。コンスタンティノス6世を標榜した可能性は、いくつかのビザンツの史料にトマスがミカエル2世の聖像破壊運動支持に反対する聖像崇拝の支持者であったという噂が記録されていることと関係している。コンスタンティノス6世の治世下では聖像への崇拝が復活していた。だがそれでも、この史料中の曖昧な表現、小アジアのテマの多くにおける聖像破壊運動に対する共感、そしてトマスがアラブ人と同盟したことは、彼が公に聖像(イコン)に対する崇拝を表明したという話に反するように思われる。明らかに、ミカエル2世の治世初期における聖像崇拝派への妥協的な姿勢は聖像崇拝論争が当時重要な問題ではなかったことを思わせ、現代の学者はトマスの反乱においてこの論争がほとんど何の役割も果たしていなかったと見ている。後世のマケドニア朝時代の史料において聖像破壊者ミカエル2世に反対する聖像崇拝派の巨頭としてトマスがイメージされているが、これは恐らく史料作成者たち自身の反聖像破壊派的なバイアスの結果生み出されたものであろう。ウォーレン・トレッドゴールドはさらに、もしトマスがコンスタンティノス6世を標榜したことが真実だとしても、それは支持を得るために振りまかれた物語の一部であったであろうとしている。また、トマスは計画的に聖像崇拝者たちからの支持を惹きつけるために、聖像問題について「意図的な曖昧」さを追求していたと主張している。トレッドゴールドは、「トマスは全帝国の支配者となるまでは、あらゆる主張、あらゆる人間に同調することが可能であった。しかし彼が消費した時間は、支持者の幾ばくかを失望させるのに十分であった。」と述べる。 この時のトマスの反乱について『続テオファネス年代記』の記述は「奴隷は主人に、兵士は上官に、将校は司令官に対し殺害の手をあげた」と描写している。この記述は主としてアレクサンデル・ワシーリエフ(Alexander Vasiliev)やゲオルク・オストロゴルスキーのような幾人かの学者に、トマスの反乱は重税に苦しむ農村部の人々の広範な不満の表出であるという考えを抱かせた。他のビザンツ学者、特にルメルルは農村住民の不満をこの反乱の第一の要因とする考えを斥けている。 ゲネシオスと他の年代記作家は更に、トマスが「ムスリム、インド人、エジプト、アッシリア人、メディア人、アバスジア(英語版)人、ジキア人(英語版)、イベリア(英語版)人、カベイリア人(英語版)[要リンク修正]、スラヴ人、フン族、ヴァンダル人、ゲタイ族、マニ教徒(パウロ派)、ラズ(英語版)人、アラン人、カルデア人、アルメニア人、そして他のあらゆる種の民族」の支持を勝ち取ったとしている。この記述によって、トマスの反乱は非ギリシア人(英語版)のエスニック・グループによる帝国への反乱を示しているという現代の主張が導き出された。しかし、ルメルルによればこれは誇張された記録であり、敵対的な虚偽情報の一部であるという。ルメルルの主張はほぼ確実に正しいが、しかし、トマスは実際に帝国に隣接するコーカサスの人々の中の支持を当てにすることができたことが、アバスジア人・アルメニア人・イベリア人が彼の軍隊に参加しているという、ミカエル2世がルイ1世へ送った手紙という同時代に近い史料での言及によってわかる。コーカサスの人々がトマスを支持した理由は不明瞭である。トマスは恐らく彼らの君主たちに対して何等かの約束をしていたであろう。だがルメルルは、アルメニア人たちは彼らの同胞であったレオン5世殺害に対する復讐を動機としていたかもしれないと主張している。
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背景と動機
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NFVは、大容量マルチメディア時代のネットワーク運用をいかに改善するかについて、大手ネットワーク事業者や通信事業者の間で議論されたことに端を発している。全体的な目的は、標準的なIT仮想化技術を活用して、多くの種類のネットワーク機器を業界標準の大容量サーバー、スイッチ、ストレージに統合することであり、これらはデータセンター、ネットワークノード、およびエンドユーザーの構内に配置することができる。アプローチでは、さまざまなハードウェア・プラットフォームへの依存から、少数の標準化されたプラットフォーム・タイプを使用し、必要なネットワーク機能を提供するために仮想化技術を使用するようになる。 電気通信業界内の製品開発は、伝統的に、安定性、プロトコルの順守、および品質に関する厳格な基準に従っており、この信頼性を示す機器を示すためにキャリアグレードという用語が使用されていることを反映している。 このモデルは過去にはうまく機能していたが、必然的に製品サイクルが長くなり、開発のペースが遅くなり、特注の特定用途向け集積回路(ASIC)などの独自のハードウェアまたは特定のハードウェアに依存することになった。パブリックインターネット上で大規模に運営されている動きの速い組織( Googleトーク、 Skype 、 Netflixなど)との通信サービスにおける激しい競争の激化により、サービスプロバイダーは現状を打破する方法を模索するようになった。
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